聖書:エレミヤ書23章5節~6節
ローマの信徒への手紙 1章3節b~4節
説教題:神の御子イエス・キリスト
説教者:松原 望 牧師
聖書
エレミヤ書23章5~6節
5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。
6 彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
ローマの信徒への手紙1章3b~4節
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
「 説教 」
序、
パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の冒頭で自己紹介をしますが、自分が神の福音を宣べえ伝える使命を与えられていることに触れると、その福音とは主イエス・キリストのことであると説明します。3~4節がその説明の部分です。語りたいことはいろいろありますが、まだ自己紹介を始めたばかりですから、ここでは詳細に説明するわけにはいきません。そのため、二つのことだけを語ります。ひとつは、ダビデの子孫から生まれたこと、もう一つは死者の中からの復活という事です。
1、ダビデという人物
ダビデというのは旧約聖書に登場する英雄です。一介の羊飼いに過ぎなかった少年が、一国の王になるという偉業を達成しました。聖書はそのことを大きく取り上げていますが、それ以上にダビデの神への信仰が高く評価されています。と言いましても、彼が常に信仰的であったわけではありません。失敗したこともありましたし、最も重大な罪として、聖書に記されているのは、自分の部下をわざと戦いの激しい場所に送り、戦死させ、その妻バト・シェバを自分の王宮に迎え入れたことです。(サムエル記下11~12章) このような重大な罪を犯したにもかかわらず、彼が偉大な王とされているのは、罪を指摘された時、言い訳をせず、批判の声を無視したり押さえつけようとせず、自分の罪を認め、悔い改めたという姿勢です。それは、周囲の人々を恐れたり、おもねったりしてのことではありません。自分の罪を指摘した人々の言葉の中に、神の御言葉を聴いたのです。
たとえば、サムエル記下15章にダビデの息子の一人が反乱を起こし、ダビデが命からがらエルサレムの町を脱出した出来事が記されています。そのとき、一人の男がダビデに石を投げつけ呪いの言葉を叫び続けました。ダビデの家来たちはダビデを守ると同時に、「あの呪いの言葉を叫ぶ男を殺しましょう」と提案すると、ダビデは言います。「主なる神がダビデを呪えとお命じになったから、あの男は呪っているのだ。」(サムエル記下16:5~12)
その後、ダビデがエルサレムに帰って来た時、このシムイがダビデの前にひれ伏し、赦しを請いました。ダビデの家来たちは「主なる神が油を注がれた方(ダビデのこと)を呪ったのだから、今度こそシムイを殺すべきだ」と訴えましたが、ダビデはシムイを赦し、無事に帰らせました。
この物語は、ダビデの寛容な人間性を記しているのではありません。ダビデは、神を恐れ、神の御心に適うように行動した、ということを、告げているのです。
ダビデの悔い改め、神を恐れ、その実心に適うように行動するところに、彼の信仰者としての姿を見ることができます。
2、「ダビデのゆえに」、
ダビデの死後、その息子ソロモンが王になりました。最初、彼は優れた王としてふるまい、その信仰も立派に見えました。しかし、彼は、富と平和を得るために、諸外国の女性を妻や側室にしました。聖書(列王記上11:1~6)には妻が700人、側室が300人と記されています。結婚自体は問題ありませんが、彼女たちが、自分の国の宗教をエルサレムに持ち込み、それぞれ祭儀を行うようになりました。これが重大な罪だったのです。聖書はこの結果、国の中で絶えず反乱がおこるようになったと記しており、ソロモンが死んだ後、王国の北の領地はクーデターによって独立します。この北の王国を「イスラエル」と言い、残った南の王国を「ユダ」と呼ばれました。列王記上11章は、その王国の分裂の様子を記すと共に、預言者が、主なる神はソロモン王の罪のため国を引き裂くが、「ダビデのゆえに、全部を奪うことはしない」と告げています。
ソロモンの場合と同じように、その後も「ダビデのゆえにエルサレムを存続させる」(列王記上15:4、列王記下8:19)と告げられています。
王国の末期、滅亡が裂けられなくなった時には、ダビデの子孫から新しい指導者が現れるとの預言(イザヤ11:1~5、10~16)がされ、その期待が新約聖書の時代まで続きました。
旧約聖書と新約聖書の中間時代に、約100年ほどの期間、ユダヤに王が存在していました。彼らは祭司の出身で、ダビデの子孫ではなかったため、保守的なユダヤ人たちからは正当な王ではないと、否定的な評価を受けっていました。このことからも、「ダビデの子孫」に、どれだけ大きな期待が寄せられていたかがわかります。
3、「ダビデの子」
しかし、キリストがダビデの子孫から生まれたのは、ダビデが優れていたとか、信仰者として模範的だったからという事ではありません。ダビデという人間に根拠があるのではなく、神がダビデの子孫として生まれさせることを選んだのです。言い換えれば、神の御計画ということです。なぜ、ダビデの子孫でなければならなかったのかは、確かなことはわかりません。ただ神がそのように選んだと言うしかありません。
人間的なことを言いますと、ダビデ以外にも信仰的に優れていた人が多くいます。例えば、モーセであるとか、エリヤであるとか、サムエルであるとかです。なぜ、ダビデが選ばれ、他の人ではなかったかは、私たちにはわからないことです。神がお選びになったという他はないのです。
ローマ書を含めてパウロが書いた手紙には、主イエスが「ダビデの子孫から生まれた」という言葉は、今日のローマ書1章3節にしか出てきません。もちろん、パウロは主イエスがダビデの子孫であることを否定するつもりはありません。パウロはそのことを踏まえて、挨拶の部分で「主イエスがダビデの子孫から生まれた」と記しているのです。神がそのように選び、そのことを預言者たちを通して予告してこられ、その予告通り、主イエスが現れたという事です。
4、キリストは死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた
キリストが「ダビデの子孫から生まれた」という言葉の次に、「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」という言葉が続きます。
この言葉は非常に誤解されやすい言葉です。
キリストは最初は単なる人間であったが、復活したことにより、神の子になったという誤解です。聖書の言葉はそのようにも読めなくはありませんが、もちろん、パウロはそのようなことを言っているのではありません。
キリストがもともと神の子であったことは、ローマ書の前に書かれたフィリピの信徒への手紙の中ではっきりと断言しています。
「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)
主イエス・キリストが、地上に来られる前から神の独り子であるという信仰をパウロは持っていますので、ローマ書においても、その信仰にもとづいて記しています。
ではなぜ、「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と言ったのでしょうか。
5、主イエスの復活の時まで、弟子たちでさえ、主イエスが神の独り子であるという事が分からなかった
主イエスは、地上で弟子たちと生活していましたが、その弟子たちは主イエスをメシア、すなわちキリストであると信じていましたが、神の子であることは、復活した主イエスに会うまで、悟ることはできませんでした。復活の時まで、主イエスが神の独り子であることは隠されていたのです。
主イエスご自身も、御自身が神の子であることをあからさまに告げることはありませんでした。すべての人のために、罪から救うために十字架にかかるためでした。そして、復活によって、主イエスが実は神の独り子であったことを明らかにする事が、神の御計画だったのです。
「定めた」というのは、主イエスを神の子に定めたというより、まず、神の子であることは復活によって明らかにすることを「定めた」ということなのです。
また、主イエスの十字架の死は、人間としての主イエスの弱さを表しています。しかし、復活によって、神の子としての主イエスの強さを表しています。
そこで、パウロは、キリストの復活によって、主イエスが「力ある」神の子であることを、明らかにし、人々に示してくださった、と言っているのです。これが神の御計画だというのです。
6、
神の独り子である主イエスが人間となって地上に来られたのは、私たちを罪から救うためでした。
神は高いところから私たちを見ておらるだけではなく、地の底にまで下ってくださって、私たちを救ってくださるのです。それが主イエス・キリストが地上に来られた意味でした。
また、十字架による死だけでは、十分でないと神は考えておられ、御子を復活させることにより、私たちすべての人間が、キリストの復活にあずかるように計らってくださったのです。パウロの言葉で言うならば「キリスト共に死に、キリスト共に生きるようになるため」(ローマ6:8)という事です。
パウロは、これが私たちに与えられた喜び、福音であると言っているのです。
この福音に生きるようにされたのですから、御心に応えて福音に生きる者でありたいと思います。
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