礼拝

5月25日(日)主日礼拝

聖書:詩編130編1節~8節
   ローマの信徒への手紙8章34節
説教題:キリストの昇天と執り成し
説教者 松原 望 牧師

聖書

詩編13018

1 【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。

4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。

5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

6 わたしの魂は主を待ち望みます

見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。

7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。

8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

ローマの信徒への手紙834

34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

「 説教 」

序、

4月20日のイースター礼拝において、「キリストは復活した」という題で説教をしました。それ以降の礼拝で、キリストの復活はキリスト教会において大切な信仰であること、そしてキリストの復活によって私たちが神から義とみなされ、永遠の命を与えられるということをみてきました。

今日の礼拝では、「キリストが天に昇られた」ということを見ていきます。先ほど一緒に唱えました使徒信条の最後の部分でキリストのよみがえりを唱えた後、キリストが「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」とありましたように、キリストが天に昇られたということは、キリスト教会の大切な信仰です。この信仰の根拠となっているのが、今日の聖書個所であるローマの信徒への手紙8章34節です。

1、ローマの信徒への手紙83134節の流れ

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙5章4節で「神の愛が私たちの心に注がれている」と告げます。それは「私たちがまだ弱く不信心だったときに」(5:6)、「罪人だったときに」(5:8)、「(神の)敵であった時に御子(キリスト)の死によって和解させていただいた」(5:10)ことにより、その神の愛が注がれていることが分かるというのです。そして、「(どんなものによっても)私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から引き離すことはできない」(8:39)と断言するのです。

このように神に愛されているということは、言い換えれば「神は私たちの味方になってくださっている」(8:31)ということです。かつて私たちは神の敵(5:10)でしたが、十字架にかかられたキリストによって、神が私たちを愛してくださり、私たちの味方になってくださっているのです。

また、この十字架にかかられたキリストにより、神から選ばれ、義とされているのです。ですから、私たちを罪に定めることは誰にもできません。

なぜ、私たちを罪に定めることができないのでしょうか。それは、キリストが父なる神の右に座って、私たちのためにとりなしてくださっているからです。

2、「だれがわたしたちを罪に定めることができるのか」

8章34節の「だれがわたしたちを罪に定めることができるのか」というのは、この場合、「だれが私たちに有罪判決をくだすことができるのか」という意味です。

私たちは罪を犯さない、というのではありません。罪を犯しているのです。神が私たちの罪を裁くために裁判を行うなら、当然私たちは有罪判決を受けることになります。しかし、そのような裁判になっても、私たちは無罪宣告を受けるというのです。

私たちのために、キリストが執り成しをしてくださっているからです。キリストが執り成しをしてくださっているということは、最強の弁護者によって完全な弁護がなされ、無罪宣告を勝ち取ってくださるということです。

「無罪宣告」というより、「恩赦」を勝ち取ってくださるという方が良いかもしれません。有罪判決を言い渡されますが、恩赦を受けて、咎められないということです。

キリストが私たちの弁護をするというのは、裁きを行う全能の神を言いくるめて、私たちを無罪にするということではありません。罪の事実は隠しようもありません。しかし、キリストは、ご自分の十字架の犠牲の故に、私たちを罰しないでくださいと、執り成しをしてくださっているのです。

3、「実のならないいちじくの木」のたとえ

主イエスが語られた「実のならないいちじくの木」を思い起こしていただきたいと思います

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:6~9)

このたとえに出てくる園丁が農園の主人に執り成しているように、主イエスは

父なる神に執り成してくださっているのです。父なる神は、執り成しておられるキリストの故に、私たちを罰しないと宣言しておられるのです。

4、キリストの名によって祈る

私たちは、祈りの最後に「この祈りを主イエス・キリストの名によっておささげします」、あるいは「キリストの名を通して祈ります」と唱えます。

私たちの祈りも、キリストの執り成しによって、父なる神に届けられるということです。

十字架につけられた主イエス・キリストが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈りました。これは主イエスの最後の祈りですが、また地上の生涯を通しての祈りでした。人々の罪が赦されるために祈り続けたのです。罪人である私たちが神に祈ることができるというのは非常に不思議なことですが、主イエスの罪の赦しの祈りが十字架によって事実とされたからこそ、罪人である私たちは神に祈ることができるのです。

天に昇られたキリストは、父なる神の右に座し、絶えず私たちのために執り成しをしてくださっています。それ故に、主イエスが「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」という信仰告白がとても大切なのです。

主イエスがとりなしてくださっているからこそ、罪人である私たちでも、安心して、祈り、み前に近づくことができるのです。

 

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