聖 書 詩編23編1節~6節
マタイによる福音書1章22節~25節
説教題 神は我々と共におられる
説教者 松原 望 牧師
聖書 詩編23編1~6節
1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
マタイによる福音書1章22~25節
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
「 説教 」
序
マタイによる福音書は、アブラハムから主イエス・キリストにいたる系図で始まっています。それは、主イエス・キリストがアブラハムやダビデ王の子孫であることを証明することだけが目的なのではありません。むしろ、すべての人々を救う神の働きがアブラハムから始まり、キリストへと向かっていることを示しています。
その系図の後に、ヨセフという人物に天使が現れたことが記されています。ヨセフはマリアと結婚の約束をしていましたが、そのマリアが妊娠していることを知り、ひそかに縁を切ろうとしていました。そのようなヨセフに天使が現れ、マリアは聖霊の働によって胎に子を宿したこと、生れ出る子は救い主であること、そして、その子にイエスと名付けるようにと伝えたのです。
「受胎告知」というと、マリアに天使が現れ、マリアが神の力により神の独り子を宿すと告げる場面を思い浮かべますが、ヨセフに現れた天使のメッセージも「受胎告知」と言えます。
1 「神は我々と共におられる」
マタイ福音書は、預言者イザヤの言葉を引用し、主イエスの降誕という出来事が「神は我々と共におられる」という言葉の成就だと記しています。
「神は我々と共におられる」というのは、旧約から新約を貫く大切な信仰の言葉です。
神は、アブラハムやモーセ、そのほか神を信じる人々と共におられることが聖書の中にたびたび出てきます。また、エジプトを脱出した人々がシナイ山において神と契約を結びましたが、神に命じられて移動式の礼拝所である会見の天幕を造り、シナイ山にとどまらず、荒野で40年間、会見の天幕を囲んで生活し、一か所にとどまる時もどこかへ移動するときも、昼は雲の柱、夜は火の柱が立ち、神がいつもイスラエルの民と一緒にいてくださることを示されました。(出エジプト記)
それから数百年後、バビロン捕囚の時、エルサレムの神殿が破壊され絶望状態になっていた人々に向かって、預言者は「わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。」(エゼキエル11:16)という神の言葉を伝えました。
神はシナイ山やエルサレムなど特定の場所にとどまることなく、いつも神を信じる人々と共におられると、聖書全体を通して告げられているのです。
2 マタイ福音書は「神は我々と共におられる」を強調する
マタイ福音書は、主イエスの降誕の出来事を記すとき、あえて「神は我々と共におられる」という言葉を記し、強調します。そして、この福音書の最後、主イエスが十字架で死んだ後三日目によみがえり、弟子たちに現れ、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18~20)と宣言し、世界各地へと派遣しました。
このように、マタイ福音書は「神は我々と共におられる」という言葉で始まり、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉で閉じているのです。「神が共にいてくださる」という言葉を強く意識し、とても大切に考えていたことの現れです。
3「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」
「神が私たちと共にいてくださる」ことの幸いは、詩編23編に良く現れています。
この詩編では神が羊飼いに、私たち信仰者が羊にたとえられています。どのような絶望的な状態にあっても、神が共にいてくださり、守り導いてくださるとうたっています。
羊飼いは、羊を餌のある場所へ導き、危険なところにはいかないよう鞭や杖を使って羊を守ります。野獣が襲ってくるときもありますが、羊飼いは羊を守るために戦います。
ダビデが少年だったころ、ゴリアトという体の大きな敵と戦うことになったことがありました。その当時の王サウルが心配しますが、ダビデは「自分は父親の羊を飼う者です。獅子や熊が羊を襲うことがありますが、羊を取り返し、野獣をやっつけてきました」(サムエル記上17:31~35)と言って、ゴリアトと戦いました。
詩編23編は、そのように羊を守るために命をかけて戦う羊飼いのように、神は神を信じる人々のために戦うという歌です。
4 主イエスは良い羊飼い
主イエスは、ご自分を羊飼いにたとえて「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11、15) と話されたことがありました。
主イエスは羊を守るだけではなく、命を捨てると言われました。それは羊を守り、羊を命へと導くためにご自分の命を捨てると言っているのです。それは十字架にかかることを意味しています。キリストが十字架にかかり、私たちのための贖いとなるために、ご自分の命をささげるということです。
5 「私につながっていなさい」
さて、詩編23編と、マタイ福音書は神が共におられることを幸いなこととして強調していました。主イエスは、さらに重要なことを語られます。私たちが主イエスと共にいるだけではなく、主イエスにつながっているということです。
主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)と言って、主イエスと私たちの関係をぶどうの木とその枝にたとえました。枝が幹につながっていることにより、その幹から必要な栄養分を受けて、豊かに実を結ぶと教えています。
私たちが生きるのは、神に結ばれて生きることだと教えてくださっているのです。神から離れることは、枝が幹から切り離されているのと同じで、実を結ぶことができないばかりか、ただ枯れはててしまうだけだというのです。
この主イエスの教えは、「神が共にいてくださる」という聖書の言葉を、さらに深めており、神と私たちは切っても切り離せない関係にあると、力強く語っています。
6 キリストに結ばれる
キリストに結ばれているということについては、使徒パウロがローマの信徒への手紙6章において、洗礼について語ることの中で教えています。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3~4)
信仰とは、神や神の言葉をどのように理解するか、ということよりも、キリストに結ばれて生きることだということです。
パウロは、キリストを信じ、キリストの名によって洗礼を受けることがキリストの命によって生きることだというのです。ここに、「神が私たちと共におられる」という言葉の本当の意味があります。そばにいるというだけではなく、しっかり結びついているというのです。
パウロはこのことを説明するために、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)とか「キリストを着ている」(ガラテヤ3:27)と表現しています。
キリストと共にあること、キリストに結ばれていることが神の力によるということ、そして、その恵みの大きさを、言葉を尽くして語っているのです。このような神からの恵みと喜びが、今、豊かに注がれています。
キリストの降誕、クリスマスは、今や私たちの喜びとなっています。互いに「キリストはあなたの救いのために、この世に来てくださった。おめでとう」と喜び合いましょう。
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