聖 書 アモス書5章21節~24節
ルカによる福音書15章11節~24節
説教題 神の義と愛
説教者 松原 望 牧師
アモス書5章21~24節
21 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。
22 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、
わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。
23 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。
24 正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。
ルカによる福音書15章11~24節
11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
「 説教 」
序、
今日の説教の題を「神の義と愛」としました。読んでいただいた旧約聖書はアモス書だけですが、ホセア書もこの礼拝で扱いたいと思います。
預言者アモスとホセアは先週の礼拝で扱った預言者エリヤの時代から100年ほど後の人であり、エリヤと同じく北のイスラエル王国(以後「北王国」)で活躍した預言者です。二人ともほぼ同じ時代に預言活動していたようですが、若干アモスの方が早く現れ、短期間で姿を消しています。ホセアの方は、アモスより遅く現れ、わずかにホセアより長く活動していたようです。ほぼ同じ時代に活躍していましたが、両者が直接的にも間接的にも会ってはおらず、そのため、お互いに影響し合うということもありませんでした。むしろ、彼らの預言の内容は対称的で、アモスは「神の義」を、ホセアは「神の愛」を語っています。このように内容は全く違うのに、しかし、強烈な言葉使いと激しさはとても似ていると言えます。彼らの人間としての性格が似ているというのではなく、彼らを通して語る神の激しさが表れていると言ったほうが良いかもしれません。
この説教では、まずアモス書について話をし、後でホセア書について話していきます。
1、預言者アモス
預言者アモスが活動したのは、ヤロブアムが北王国の王であった時でした。かつてソロモン王の死後、クーデターを起こして王国を築いたヤロブアムとは全くの別人で、血のつながりもありません。二人を区別するため、アモスの時代のヤロブアムをヤロブアム2世と呼ぶことにします。
ヤロブアム2世の時の北王国は、その歴史の中でも経済的に豊かで、国外からの脅威もなく、比較的平和な時代であったので、北王国最後の黄金時代とも言われました。多くの人々は、そのような経済的豊かさと平和を享受している中、アモスは神の裁きとしての国の滅亡を語るのです。
アモスは神の裁きを語る預言者とか、神の義を語る預言者と呼ばれ、最も厳しい言葉を語った人として知られています。
アモスの語る言葉を不快に思った人は多かったでしょう。実際、アモス書7章に、人々が極めて大きな不快感をあらわしたことが記されています。
なぜ、アモスは人々を不快にさせる預言をしたのでしょうか。
アモスの神の裁きの預言は、彼自身の性格から出た言葉ではありません。彼は小さな村の羊飼いでした。(アモス7:14~15) 神に召されたアモスは、ただ「語れ」と命じられた言葉を、人々に伝えているのです。
2、神の裁き
アモス書3章1~2節で、次のように語っています。
「1 イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け。――わたしがエジプトの地から導き上った、全部族に対して―― 2 地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する。」
イスラエルの民に神の裁きを語る理由が、ここにあります。神は、イスラエルの民を愛しているからです。
「地上の全部族の中から、あなたたちだけを選んだ」。「選ぶ」と訳された言葉は特別の意味を持つ言葉で、口語訳聖書では「知る」と訳されていました。創世記で「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを生んだ」(4:1)とあり、ここで「知る」と訳されている言葉です。ここでは男女の性的な交わりを指していますが、他のところでは、人と人との人格的な交わり、さらには両者の特別な関係をあらわす言葉として使われます。ですから、神がイスラエルの民に対して「あなたたちだけを選んだ」というのは、神にとって、イスラエルの民は掛け替えのない特別な存在であり、それゆえにその罪を見過ごしにはできないというのです。
3、アモス書の罪の指摘
イスラエルの民の罪とは何でしょう。アモス書には当時の人々の罪として「豊かさのおごり」、「平和への過信」、「貧しい人々への差別」などが記されています。そして、神の厳しい裁きが語られます。ここに記されているイスラエルの人々の罪は、今の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。アモス書に記されていることは、決して過去の話ではなく、今の私たちにも向けられている神の裁きなのです。
では、どうすればよいのでしょうか。どこが悪いのでしょうか。どこを直したらよいのでしょうか。
アモス書は人々の罪を語っていますが、どうすればよいのかについては、具体的には何も語っていません。
4、「正義」と「恵みの業」
「~せよ」「~しなさい」と語られているところとしては、今日のアモス書5章24節「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」をあげることができます。
どこをどうすればよいかということは、語られていません。そういう意味では、具体的ではなく、とても抽象的なことしか言われていません。これではどうすれ良いか、わかりません。
しかし、ここで言われていることはとても重要なことです。
ここで「正義」(ミシュパト)と「恵みの業」(ツェダカ)と訳されている言葉は、聖書協会共同訳では「公正」と「正義」と訳されています。元々の言葉は違いますが、内容的には似ており、時々翻訳の言葉が入れ替わっていることがあるほどです。
「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」という言葉を使って、預言者イザヤは「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」(イザヤ5:7)と告げました。アモス書で「正義」と訳された言葉はイザヤ書では「裁き」と訳され、アモス書の「恵みの業」は「正義」となっています。
アモスが「正義と恵みの業を川のように流れさせよ」と警告したのに、イザヤは、人々の行っていることは血を流すことと苦しみの叫びをあげさせることだけだと言っているのです。
アモスにしろ、イザヤにしろ、彼らが伝えていることは、単に社会で正義が行われるということではありません。社会において正義が行われることは確かに大切なことです。しかし、どこが悪いのか。どこを直したらよいのかということでは、神の求める正義は行われないということです。そもそも、ただ社会正義を回復することが、預言者アモスに与えられた使命ではありません。
今日の御言葉の前に、厳しい神の裁きについて記されています。それに今日の5章21~23節が続き、一切の宗教儀式も神の怒り、神の裁きから逃れる手段にはならないと告げられているのです。ただ、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と言われているだけで、具体的にどうしたらよいかは語られていません。
このような、人々に対する神の厳しい裁きを語るために、アモスは預言者に召されたのです。ここに示されているのは、罪に対する神の断固たる決意であり、罪の存在を絶対に許さないという神の正義なのです。
5、罪の存在を許さないという神の固い決意は、罪人を赦さないということではない。
ここで注意しておきたいことは、アモス書には、罪の存在を絶対に許さないという神の固い決意があると言いましたが、それは罪びとを赦さないということではありません。
アモスを通して、神が人間の罪とそれに対する神の厳しい裁きを語るのは、人間を滅ぼすためではありません。そうではなく、自分の罪を認め、神にその罪を告白し、悔い改めるようにと招いておられるのです。
最初にも言いましたが、アモスの時代は経済的に豊かで、国外からの脅威もなく、比較的平和な時代でした。人はそのような中で、自分の罪を自覚しないまま生きているのです。実際には、社会的な悪を行っていても、それすら自覚しないままになっています。だからこそ、神はアモスを遣わし、人間の罪とそれに対する神の怒りを語らせるのです。そして、「悔い改めよ。私のもとに帰ってきなさい」と招いているのです。
この神の招きは、先ほどの「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを、すべての罪のゆえに罰する」(アモス3:2節)の言葉に込められた神の愛が根底にあるのです。
6、預言者ホセア
預言者アモスが「神の義」を語ったのに対し、預言者ホセアは「神の愛」を語りました。しかし、その中心にあるのは、悔い改めであり、その意味では預言者アモスと同じです。イスラエルの民を悔い改めるように訴える時、アモスは神の裁きを語り、ホセアは神の愛を語るのです。
ホセアは、アモスと同じく、北王国で活動していました。アモスより少し後の時代、ヤロブアム2世の時代の末期から始まり、北王国が滅亡したころまで続いたと思われます。北王国は、ヤロブアム2世の時代から30年もたたないうちに、アッシリアという国に滅ぼされてしまいますので、この間、あっという間の出来事だったと言えます。
ホセアの時代は、以前から深刻であった異教の神々への宗教儀式がかなり浸透しており、これは神に対する重大な裏切りであり、悔い改めて神に立ち帰れと訴えます。
7、ホセアの預言
神はホセアに「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」(ホセア1:1)と告げます。ホセアは神に言われた通り、その女性を受け入れ、その子どもたちも受け入れたようです。ホセアのこの行動は、預言者的象徴行為と言われ、神の御言葉を伝える時、言葉だけではなく、預言者の行為そのものが神の御心を示したのです。
このホセアの行為は単に表面的な行為ではなく、神の深い愛を示していました。
8、神の愛
神は罪を犯さない人を愛するのではなく、罪人を招き、悔い改めへと導く愛です。ホセアに命じたのはその神の愛を象徴する行為なのです。
このような神の愛は、預言者たちによってさまざまに告げられました。ちりぢりになっている羊の群れを探しまわる羊飼い(エゼキエル34章)のたとえも不信仰な人々を探し求める神の愛をあらわしています。これと似たたとえは、福音書の中で、主イエスも語られています。
後に、このような神の愛を表現するのに、ギリシア語のアガペーという言葉を用いるようになりました。これは、ギリシア語を用いてはいますが、ギリシア文化から出た考え方ではなく、旧約聖書に示されている神の愛です。
ギリシア哲学では、例えばプラトンは「愛」について説明する時に、「価値を追求する愛」として、エロースという言葉を用いました。しかし、これでは旧約聖書に示されている神の愛を適切に表せません。そこで、それまで特別の意味を持たなかったアガペーという愛を「愛することによって価値を与える愛」という意味で使うようになりました。
9、十字架のキリストに示された神の義と愛
聖書は、私たちの罪の贖いとなるためにキリストが十字架にかかられたと告げています。神は罪の重荷と責任を、罪びとである私たちに負わせることせず、キリストに追わせられたのです。それにより、私たちは罪を赦され、神の子の身分を与えられたのです。
十字架のキリストに神の義と愛が示されているのです。私たちを救うのは、この十字架のキリストのみなのです。
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