聖 書 創世記28章10節~15節
ローマの信徒への手紙9章10節~16節
説教題 祝福をになう者
説教者 松原 望 牧師
聖書
創世記28章10~15節
10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。13 見よ、主が傍らに立って言われた。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ローマの信徒への手紙9章10~16節
10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。11 -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
13 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。15 神はモーセに、
「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」
と言っておられます。16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
「 説教 」
序
先週の礼拝で、アブラハムが神に召しだされた出来事を見ました。神はすべての人々を救うために、まずアブラハムを選び、アブラハムと子孫を通して、すべての人々を救おうとされたのです。その神の御計画はアブラハムの子孫として地上に送られた神の独り子イエス・キリストが現れ、すべての人々の救いのために罪の贖いとなる十字架にかかって死に、そのキリストを信じるすべての人々に永遠の命を与える約束を示すため、神は主イエス・キリストをよみがえらせることだったのです。
こういう神の御計画のために、神はアブラハムを選び、すべての人々救うために行動を開始されたのでした。
今日の礼拝で読んでいただいた創世記28章10~15節は、アブラハムの孫であるヤコブに語られた神の言葉です。先週に引き続き、今日はアブラハムの息子イサクと孫のヤコブについての話になります。とは言いましても、イサクとヤコブがどのような人生を歩んだかを扱うわけではありません。そのことは、私たちにとって非常に興味の尽きないことは確かです。イサクが生まれるまでのアブラハムと妻のサラが経験したこと、待望のイサクが生まれたにもかかわらず、その愛する息子を供え物として献げよと神から命じられたアブラハムの苦しみ。遠くの親戚に使いを送り、イサクの妻となるリベカを迎えた出来事。そのイサクにエサウとヤコブの双子が生まれたこと。兄のエサウが受け継ぐはずだった父イサクの財産を弟のヤコブが横取りする出来事、それを恨んだ兄エサウから逃れて、母リベカの兄、ヤコブからすると叔父にあたる人物、のもとに逃亡したヤコブ。とてもドラマチックな物語が続いていきます。その一つ一つが、私たちの心をどきどきさせます。
しかし、今日は、それらの物語のほとんどを省略します。今日、皆さんに注目していただきたいのは、すべての人々を祝福すると宣言された御計画を、神がどのように進めていったかということだからです。そして、アブラハムに与えられた「祝福の源となる」という使命は誰に引き継がれていったかということに注目していただきたいからです。
なお、アブラハムの子孫はその時々に応じて、ヘブライ人とかユダヤ人、またイスラエルと呼ばれますが、今後、神の民という意味でイスラエルという呼び方に統一していきます。
1、ローマ書でのパウロが「神の選び」について語る時、イサクとヤコブに触れている理由
①アブラハムに与えられた「祝福の源となる」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という使命が、イサクとヤコブに受け継がれていくという神の計画を今日は見ていくことになりますが、ここで重要な主題が「神の選び」ということです。なぜイサクとヤコブが選ばれたのかという問題です。その話をする前に、今日の聖書として読んでいただいたローマの信徒への手紙9章を先に見ておきたいと思います。
このローマ書9章で扱われる主題が「神の選び」ということで、イサクとヤコブのことが出てくるからです。ただ、使徒パウロがこの9章で言おうとしている本来の目的は、神の民であるユダヤ人のうち、キリストを信じない人々がいるが、それはどうしてなのか、彼らは救われないのかということです。
そこで使徒パウロが答えているのは、ユダヤ人だからと言ってすべてのユダヤ人が選ばれているわけではないということです。その説明のために、イサクは選ばれ、イシュマエルは選ばれなかった、ヤコブは選ばれたが、エサウは選ばれなかったという創世記の記述を取り上げ、そこには「(神の)自由な選びによる神の計画」があるというのです。
②「自由な選びによる神の計画」
神の自由な選びにより、神の民であるユダヤ人の中に心をかたくなにし、主イエスを信じない人々がいる事を使徒パウロは認めます。しかし、それは異邦人全体が救いに達するまでであり、それにより全イスラエルが救われるとも言っています。(ローマ11:25~26)
このようにして、アブラハムの子孫であるイスラエルの中に主イエスを信じる人と信じない人が存在する理由を説明しています。
このローマの信徒への手紙については、別の機会であらためて説明する機会があると思いますので、これくらいにしておきたいと思いますが、今日、このローマ書の中で注目していただきたいのは「神の自由な選び」ということです。すなわち、神の選びは人間の行いにはよらないということです。
2、「祝福の源となる」という使命は、イサクに、そしてヤコブに引き継がれていった。
「祝福の源となる」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という神の言葉は、すべての人々を救う計画を示しており、それはアブラハムを用いて行うという神の決意が示されています。しかし、それはまたアブラハムで完了するというのではなく、「祝福の源となる」という使命はアブラハムの子孫に引き継がれていきます。それはアブラハムの子孫を用いるということです。そのことは、イサクとヤコブにもアブラハムとほぼ同じ言葉で語られていることから明らかです。(創世記26:3~4、28:14)
- イサク
神がアブラハムに「祝福の源となる」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と告げられた時、アブラハムには子どもがいませんでした。そのため、彼は自分の全財産が他人に受け継がれることになると考えていました。しかし、そのアブラハムに対し、神はアブラハムに子どもが生まれると約束し、その子どもに財産が受け継がれると告げたのです。まだイサクが生まれる気配が全く見えない時に、神がそのように約束をしたことは、イサクにアブラハムの財産だけでなく、祝福の使命を受け継がせる決意を持っておられたことを示しています。
アブラハムと妻のサラは、そのような神の約束にもかかわらず、自分たちの年齢を思い、なかなか子どもが得られない現状を直視し、妻のサラに仕えていた女性によって子どもを得ようとして、アブラハムとその女性との間にイシュマエルという子どもを得ることができました。しかし、神は、アブラハムに与えた「祝福の源」となる使命は、イシュマエルにではなく、妻のサラとの間に生まれる子どもに受け継がれると宣言(17:19)されたのです。
こうして、「祝福の源となる」という使命は、イサクが生まれる前に神が定めたのです。ここで明らかなことは、「祝福の源となる」という使命は、イサクの人柄や生活態度を見て決められたのではなく、イサクが生まれる前にすでに決められていたということで、神の決定こそが「祝福の源となる」という使命を受け継ぐすべてであることが示されています。
- ヤコブ
イサクと妻リベカとの間にエサウとヤコブという双子が生まれました。ヤコブの息子ということでは、エサウとヤコブは全く同じ条件だと言えます。ですから、「祝福の源となる」という使命が二人のうちどちらに受け継がれるか、それとも二人が共にその使命を受け継ぐかのどちらかになると思われました。
結局、「祝福の源となる」という使命はヤコブに受け継がれていきました。
人柄としては兄のエサウも弟のヤコブにも問題がありました。兄のエサウは、少し目先のことに目を奪われ、ヤコブが調理していた食事にありつこうとして、長男の権利を簡単にヤコブに譲ると約束をしてしまいます。エサウとしては、そんな約束をしても自分が長男である事実は変わるはずもなく、結局自分が長男として、父イサクの財産を全部受け継ぐことになると高を括っていたのでしょう。エサウには、そのほかにも目先で判断し、行動することが目につきます。聖書を読む私たちからすると、こういうところが、「祝福の源となる」という使命を受け継ぐことができなかった理由があるように見えます。
では、ヤコブはどうかと言えば、ヤコブにも性格的な問題がないわけではありません。母親からの勧めがあったとはいえ、長男が受けるべき祝福を父イサクをだまして、奪い取ってしまいます。ずる賢い人間と言えますし、また反対に、祝福を軽んじるエサウと比べると、ヤコブは祝福を重んじたとも言えます。とにかく、兄エサウが受けるべき父からの祝福を奪ったことが原因で、ヤコブは親元を離れ、遠くにいる母リベカの兄のもとへ逃亡することになりました。その道中の出来事が、先ほど読んだ創世記28章10~15節です。この逃亡の途中で、ヤコブは神から「祝福の源となる」という使命を受けたのです。
こうして、アブラハムが受けた「祝福の源となる」という使命はイサク、ヤコブへと受け継がれていったのです。「祝福の源となる」という言葉はアブラハムに対してだけ言われていますが、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という言葉はイサクやヤコブにも言われています。特にヤコブの時は「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」と言われており、その後ヤコブの子どもたちには「祝福の源となる」という言葉も「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という言葉もありませんが、その使命がヤコブの子孫、イスラエルの人々に受け継がれていくことが神の御心であることが分かります。こうして、聖書は、すべての人々が神の祝福を受けることが神の御心であり、その御心を実現するために、神の民イスラエルにその使命を与えたのです。
3、神の使命に選ばれなかったイシュマエルとエサウ
神に選ばれなかったイシュマエルやエサウのことを思うと、神に選ばれることの厳しさと選ばれなかった彼らへの同情が心の中に大きくなります。そして、神は何と不公平なのかと思わずにはいられません。
しかし、本当にそうなのでしょうか。それを確かめるために、イシュマエルとエサウのその後のことに触れておきたいと思います。
- イシュマエル
イシュマエルを手元から離れさせることになったアブラハムは悩みますが、神は「(イシュマエルを)一つの国民の父とする。彼もあなたの息子だからだ」と約束をし、イシュマエルの母親にも同様の約束をしてくださいました。アブラハムのもとを去ったイシュマエルに多くの子孫が生まれ、一つの民族となるほどに大きくなったことが25章12~18節に記されています。
②アブラハムの他の息子たち 創世記25章1~4節
ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアの6人は、それぞれ部族を形成するまでに子孫が増えたと考えられます。その中でも、ミディアンは旧約聖書の中で何度も登場し、イスラエル民族と敵対することもありましたが、特筆すべきことは、殺人を犯したモーセがエジプトからシナイ半島へと逃亡し、ミディアン人の祭司エトロの娘と結婚をしたことです。
- エサウ
エサウの子孫も一つの大きな民族になりました。彼らは後にエドム人と呼ばれます。聖書の中で、彼らはしばしばイスラエル民族と敵対する存在として登場しますが、特に注目すべきは、新約聖書のマタイ福音書2章に登場するヘロデ大王です。彼はエドム人でしたが、ユダヤの王として君臨し、福音書は生まれたばかりの主イエスを殺害しようと企てたと記しています。
以上みてきましたように、選ばれなかったイシュマエルやアブラハムの他の息子たち、そしてエサウの子孫はそれぞれ大きな民になっていったことが記されています。イサクやヤコブのように祝福の使命をになう者に選ばれはしませんでしたが、彼ら自身は神から大いに祝福されていたということです。そのことを、私たちはしっかり見ておく必要があるでしょう。そのうえで、イサクとヤコブの選びの意味を改めて見直さなければならないということです。
4、イサクとヤコブが選ばれた意味
①
一見、イサクやヤコブ以外のアブラハムの息子たちが神の祝福から外れ、見捨てられたかのように見えますが、彼らがそれぞれ子孫を残し、大きな部族に成長していることを聖書は明らかにいます。このことから、彼らが祝福の源となるという使命から外されたことは、彼らにとって決して不幸とは言えなかったでしょうし、むしろ神が彼らを守り続けたとみるべきでしょう。その意味では、彼らとイサクやヤコブに大きな違いはなかったと言えます。
それでは、聖書はなぜイサクとヤコブが神から選ばれたと記しているのでしょうか。
一つには、イスラエルが彼らの子孫だったからですが、もっと重要なことは、神がイサクとヤコブを「祝福の源」として用いると決意したということです。なぜ、彼らが? という疑問が私たちの心に浮かびますが、それは使徒パウロが言った「神の自由な選び」という他ありません。
イサクとヤコブが神から選ばれたというのは、単に彼らが祝福され、幸福になるためというだけではありません。むしろ、すべての人々が神の祝福を受けるために、その器として用いられるために選ばれたということです。「祝福の源」という使命を遂行するために選ばれたということです。
- 預言者エレミヤの警告
後に、預言者エレミヤが警告しています。「祝福の源」という使命を忘れ、神に背いているイスラエルに、悔い改めて主に立ち帰れと警告し、「もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」(エレミヤ4:2)と。
結局、使命を忘れ、神に背き続けたイスラエルは神の審きの器となったバビロンによって国を滅ぼし、主だった人々がバビロンに捕らえられて行くという悲劇に見舞われました。
預言者エレミヤの警告を簡単に整理すると、イスラエルは「私はあなたを祝福する」という神の言葉だけをしっかりと心に留めていましたが、すべての人々のための「祝福の源となる」という使命を忘れ、神の言葉を守らず、他の神々を拝むようになっていました。そのような状態でありながら、彼らはなお「私はあなたを祝福する」と神が約束してくださっていると神を甘く見ていたのです。このようなイスラエルにエレミヤやその他の預言者たちが何度も警告しました。それでも、イスラエルの民は神に背きながら、自分たちは神から祝福されているという幻想を抱き続けたのです。
5、「祝福の源」の使命は、イスラエルの国が滅んだ後も続く
ユダ王国がバビロンに滅ぼされたことにより、アブラハムの子孫によって「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」という神の計画が潰えたかのように見えました。しかし、神はイスラエルの人々を用いる計画を続けられました。数十年の後、バビロンに囚われていた人々をエルサレムへ帰還させたのです。
マタイ福音書1章の主イエスの系図に、「バビロンへ移住させられた後」という言葉があり、アブラハムの子孫が続いていることを示していますが、それは同時に神の計画、彼らを通してすべての人々を救うという計画も進んでいることを示し、主イエス・キリストへと向かっているのです。そして、「祝福の源となる」、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という神の計画は、主イエス・キリストによって、成就することを示しているのです。それゆえ、主イエス・キリストが地上に現れたことにより、そして、十字架と復活の出来事により、主イエス・キリストがまことの祝福の源となり、全ての民が主イエス・キリストによって祝福に入るのです。
主イエス・キリストを証しした使徒ペトロが「ほかのだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)と大胆に告げました。
アブラハムの子孫として罪びとを救う神の独り子が生まれ、アブラハムとその子孫は「祝福の源となる」という使命を果たしたのです。それはイスラエル民族の功績というわけではありませんが、神がそのように彼らを救いの器として用いたのです。
祝福そのものである主イエスを宣べ伝え、「私たちを救いうる名は、この世にイエス・キリストの名以外には与えられていない」と大胆に証ししてくことが、使徒ペトロに続くキリスト教会に与えられている使命なのです。この使命をにない、私たちも「祝福の源」として生きるようにと定められているのです。この使命には困難が伴います。しかし、神が常に私たちと共にいてくださり、守ってくださるのです。「私はあなたを祝福する」とおっしゃった神の約束は、私たちにも与えられており、この大切な使命を遂行するための保証なのです。感謝して、神と共に歩みましょう。
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