12月24日(日)降誕主日礼拝

週 報

聖 書 フィリピの信徒への手紙4章6節

説教題 思い煩うのはやめなさい

讃美歌 241,247,269,25

クリスマスおめでとうございます。

この2023年の金沢元町教会のクリスマスに、神によって集められた皆さんと共に、聴きたいと願った聖書の言葉は、フィリピの信徒への手紙の短い御言葉です。

短いですから、もう一度、お読みいたします。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

クリスマスのメッセージ、それは、思い煩うことをやめて良いということです。

私たち人間は思い煩うことをもうやめてしまって良いのです。

「どんなことでも」と、使徒は言います。

一切の例外なく、思い煩うことはやめてしまって良いのです。

今、私は、これを許可として語っています。思い煩わなくて良い。思い煩う必要はないのだという、神よりの許しとして語っています。

しかし、使徒は、もっと強い言葉でこのことを私たちに迫ったのです。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」

断言し、命じる言葉として、語ったのです。

聖書の中にあるすべての命令法、戒めを、私たちは、しばしば誤解して聞きます。

守らねばならない重い鎖のように、それを聴いてしまうのです。

ここでも同じです。

「どんなことでも、思い煩うのをやめなさい」という言葉は、神さまが使徒を通して語られた命令なのだと聞くと、とたんに、それを重い鎖のように受け取ってしまいます。

私の日々は思い煩いだらけだ。私の心は、心配事でいっぱいになっている。

あれもこれも、綱渡りのような、剃刀の上を歩くようなバランスの中で、どうにか、こうにかのマネジメントの中で、ようやく立っている私の日々の歩みだ。

私もそうです。私もそのように思います。自分の日々は、思い煩わなければならない、何とか解決しなければならないたくさんの課題にまみれている。

そこに、神の言葉が語り込まれます。

「どんなことでも、思い煩うのをやめなさい」

思い煩いに満たされている私は、この御言葉によって、神の御言葉に従い得ない自分の無力を指摘されたような思いになってしまうということは、よくあることなのではないでしょうか?

けれども、聖書の命令法は、私たちに重荷を負わせるための命令法ではありません。

それは断固とした許可、そのための強さを持った形なのだと受け取るべきものだと言うべきなのです。

「どんなことでも、思い煩うのをやめなさい」

もう、思い煩いは捨て置きなさい。

くよくよ悩む子供の側に、父親がやって来て、「大丈夫、あとはお父さんがやっておくから、向こうに行って遊んでいなさい」というのと同じように、失敗を取り繕おうとあたふたする部下に、上司が、「これは私が引き受けるから、私の隣でこういう時のやり方を見ていなさい。」と告げるのと同じように、神様が私たちの思い患いを取り上げて、「それはわたしのものだ」と仰るのです。

どんなことでも、私たちが思い煩い始めるならば、「それはわたしのものだ」と、神さまは取り上げられるのです。

クリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生の出来事とは、神による私たち人間のすべての思い煩いのこのようなお召し上げ、取り上げを意味します。

2000年前のクリスマス、独り子なる神が、私たちと同じ人間となることによって、主なる神さまは、私たちが抱えきれない、解決しえない個々の思い煩いを引き受けられたのではなく、私たち人間の一切の思い煩いを引き受けられたのです。

クリスマス、独り子なる神が、私たちと同じ人間となられました。それは、私たちのきょうだいとなられるためでした。

この世界に生まれ、そしてやがて死ななければならないその間にある私たちの人生の一切のあり方を、独り子なる神が、人となり、引き受けてくださいました。

独り子なる神自らが、思い煩いだらけの人間、試みだらけの人間、絶えず罪の誘惑に晒され続けている私たち人間と同じものとなってくださいました。

しかも、ただこのお方は私たちと同じものになったゆえに、私たちのつらさをご存じであるということに留まるのではありません。

これは、私と一緒に、神が悩んでくださる、思い煩ってくださるというレベルにとどまる話ではないのです。

そうではなく、独り子なる神が私たちと同じ人となられた。しかも、聖書が語るように、このお方こそ真の人であるということは、この方こそ、私たち人間の持つ人間性の丸ごとを引き受けておられるということです。

つまり、このお方は、私たちの思い煩いを私たちと一緒に担ってくださるのではなくて、それを取り上げて、「それはわたしのものだ」と仰る。

しかも、思い煩いと私達人間の人間性が分離できないほどに一体のものであるとするならば、その思い煩う人間丸ごとを召し上げて、その人間を丸ごと抱え込んで、その人間を丸ごと背負って、「これはわたしのものだ」と仰るのです。

それが、独り子なる神が人となられた、真の人となられた、私たちのきょうだいとなられたということです。

そして、それが、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」という命令形の力強さの内実なのです。

あなたが思い煩わなければならない思い煩いは、わたしが人間代表として、わたしが全て引き受けるから、あなたが思い煩う必要があることは、もう何もないのだという力強い神の招きなのです。

私たちは、クリスマスのイエス・キリストの降誕と共に、今はもう、思い煩いのない人間、思い煩う必要のない人間とされているのです。

しかし、どうでしょう。このようなクリスマスのメッセージは、どこか人間離れしたものに聴こえてしまわないでしょうか?

ほんの少しの思い煩いもない人間、ほんの少しの思い煩いもない自分というのは、想像することだけが、せいぜいなのではないでしょうか?

あるいは、クリスマスの賑やかであたたかな光に包まれて、ほんの一時、夢見心地に忘れることくらいしかできない心配事ばかりの、思い通りにならない毎日を、私たちは日々、生きているのではないでしょうか?

何もかも主にお委ねして、何があっても、思い煩うことのない、リラックスした、穏やかな自分の生活など、現実的ではない、あまりに人間離れしていると言いたくなるのではないでしょうか?

何も思い煩うことなく、今日の聖書の言葉がその直前で語るように、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と、喜び続けられるなんて、マインドコントロールでも受けて、頭のねじが飛んでしまわなければ無理だし、そんなことであれば、思い煩っていた方がまだましだと、私などは言いたくなります。

けれども、もしも、そのように思うならば、それは聖書が語る「思い煩いがない」ということが、どういう状態であるのかをおそらくまだ誤解しているのです。

現代の日本の代表的神学者の一人、近藤勝彦という説教者は、今日私たちが聴いているこの箇所を説く言葉の内に、主において与えられる絶えざる喜びの反対は、悲しむことではなく、思い煩いだと言います。

真にその通りです。

クリスマスの御子を通して私たちに与えられる神がくださる絶えることのない思い煩いのない喜びは、悲しみのない喜びとは違います。

悲しいことが起これば悲しむのです。傷つけられれば傷付くのです。嫌なことが起これば、落ち込むのです。

キリストへの信仰に生きることは超人になることではありません。

悲しいことが起これば悲しむのです。傷つけられれば傷付くのです。嫌なことが起これば、落ち込むのです。

そういう傷付きやすさ、弱さ、人間っぽさを失ってしまうことがキリスト信仰の行き着く先なんかではありません。

悲しいことが起これば悲しむのです。傷つけられれば傷付くのです。嫌なことが起これば、落ち込むのです。

けれども、その悲しみの中でなお喜ぶことができるのです。

自分では解決できないどうしようもない悲しみの出来事の中にあって、私は一人なんかじゃない。私のきょうだいとなってくださったイエス・キリストが共にいてくださる。共にいてくださるどころか、私を私の抱えている課題ごと、丸ごと引き取ってくださる。御自分の責任として、悲しむ私を丸ごと抱えてくださる。

「これは私が引き受けるから、大丈夫。あなたは、私の隣で見ていなさい。」と、力強く断言してくださるのです。そのように私に向かって語ってくださるキリストとの出会いは、私たちに悲しみながら喜ぶ喜び、悲しみを凌駕する喜びを与えてくださいます。

キリスト教会の宝というべき神学者カール・バルトという人が、今日の聖書の言葉を説きながら、次のように語ります。「思い煩うとは結局、人間が自力で切り抜けようとすることだ」と。

私たち夫婦は、自分の子どもの名に「きりえ」と付けました。

キリエ・エレイソンという教会の古い祈りの言葉から採りました。

「主よ、憐れみ給え」という意味です。考えてみれば、自分の子どもの名に付けるような名前ではないかもしれません。

なぜならば、キリエ・エレイソンとは、「私は惨めな者です。私は貧しい者です。憐れんでください、憐れんでください。憐れんでくださらなければ、私は生きては行かれない『霊の乞食です』(ルター)」という祈りの言葉だからです。

先輩牧師が、子供に自分の名付けを聞かれたら、どう教えるのだろうかと、期待と共に、心配してくださったような名前です。

けれども、これは別に私の娘に限ったことではありません。

「思い煩いがない」という信仰者のあり方が、「自分の力で切り抜けない」ということであるならば、それはいつでも、キリエ・エレイソン、「主よ、憐れんでください。力なく、貧しい、霊の乞食であるわたしを憐れんでください。恵んでください」という祈りの内に生きるということなのです。

それゆえ、ある説教者は言います。

「思い煩いの正体は、自分が主人であること、自分で自分を支配していること、そして自分の未来も神の御手にあることを認めないこと、生活の中に主イエスがいないことです。…それでは、主にある喜びは何でしょうか。それは、キリストの中にあること、常にイエス・キリストとの交わりにあって生きることです。主にある喜びは、何もかも順調に与えられて、何不自由もないことではありません。」

それはつまり、祈れることだと言うのです。

まさにその通りです。

それゆえ、「何事も思い煩うことはやめなさい」という力強い励ましと、勧めの言葉に続いて、今日、私たちが聴いている聖書は語ります。

「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

自分で思い悩み、何とか解決してやろうと思い煩う代わりに、求めているものを何でも神に打ち明ける、祈りと願いに生きるのです。

そして、ここでも、やはり間違ってはならないのは、祈りなさい、何でも神に打ち明けなさいという命令形は、あなたは一人ぼっちじゃない、貧しく弱く小さいあなたにはあなたが打ち叩くことのできる父の胸があるのだという良き報せです。

クリスマスのメッセージは、その弱いあなたが打ち叩くことのできる父の胸をもうあなたはどこか遠くに探しに行く必要はないということです。

主は来られたのです。主の方が私たちを探しに来られたのです。私たちをとらえ、ぴったりと寄り添い、私たちを引きうけ、あたかもその方のすることが私のすること、私のミスがその方のミスであるかのように、私を覆い、私たちを引き受けてくださったのです。

今日、この直後に、洗礼を受けられる方が、長老会の試問会の場で、少し不自由な足が、前日から少し強くなったと喜びの報告をしてくださいました。

その試問会の前日、ご主人とお買い物に出かけて、新しいお洋服を一式買い揃え、それを着てみたら、足がスース―動くようになったと、仰いました。

決して特別なお洋服というわけではないようですが、どういうわけか、そうなったということでした。

そのことは、私には、神様からの粋なプレゼントのように思われました。

洗礼を受けるということがどういうことか、ほんのちょっぴり先取りして経験させて頂けたのではないかと思ったのです。

ガラテヤの信徒への手紙3:26以下にこういう言葉があります。新しい聖書の翻訳で読みます。

「あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」

私の状態はちっとも変わらないのです。けれども、その弱い私を、キリストがその御自分の真実、誠実によって、神の子としてくださったのです。

洗礼を受ける時、私たちはキリストを着るのです。それは、この弱い私が弱いままで、キリストに覆われ、その方によって、生かして頂くということです。

今日、洗礼を受けられる方も、私たちも、このキリストに覆い包んで頂くのです。

それゆえ思い煩いがないのです。思い煩う代わりに、祈れるのです。キリストに覆われ、神の子とされ、それゆえ、悲しい時は、悲しい、痛い時は痛いと、悲しむままに、痛むままに、何でも打ち明けることができる父の下に置かれているのです。

もう一度、申し上げますが、私たちがこの方を探しに行くのではなく、このお方が私たちを探しに来て、見つけてくださったのです。

それがクリスマスです。この方は、今日ここに集められたお一人お一人の遠くにはおられません。

真の人となることを引き受けられた独り子なる神は、ここにいるお一人お一人のことを誰一人例外なく、丸抱えにしておられるのです。

だから、聖書は、祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさいという言葉の手前で、「感謝を込めて」と正しく語るのです。

そうです。既に聞かれているのです。既に、受け止められているのです。既に、引き受けて頂いているのです。

それゆえ、感謝を込めて、感謝の内に、悲しみよりも大きな喜びの内に、祈り、願い、何でも神に打ち明けることができるのです。

自力で切り抜けようとする必要はありません。神の助けを乞うて良いのです。

キリエ・エレイソン。「主よ、憐れんでください」とひたすら祈って良いのです。

憐みの主があなたと共にあり、あなたは助けて頂けるのです。