礼拝

10月29日(日)主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書17章20節~26節

説教題 これまでも、これからも働かれる主

讃美歌 120,341,356,29

今日の礼拝後には、牧師辞任の臨時総会が行われます。

この三週間、皆さんにとって、これは寝耳に水のことであり、心を騒がせてしまったことを、申し訳なく思います。しかし、既に、幾人もの方から、この牧師の決断を受け止めてくださる、神さまの憐みだと共に喜んでくださる言葉を聴かせて頂き、感謝しております。

この教会の牧師として歩んできて、神さまに示された為すべきことをすべて為し終えることができたとは思っておりません。それだけ、後ろ髪引かれる思いもあります。

けれどもまた、教会形成は、一人でするものだとも思ってはいません。

完成を見ずに、バトンを引き継いで行くものだと信じています。

使徒パウロがⅠコリント3:6以下でこのように申しています。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」

しかも、成長させてくださる神にお仕えしながら、植えたり、水を注いだりするパウロとアポロとは、ただ歴代牧師達のことだけのことではないと私は信じています。

今、この教会に連なる長老の一人一人、今この教会に連なる教会員の一人一人が、主なる神さまによって、福音伝道と教会を建てあげる教会形成の働きに現に召され、実際に仕えているのです。一人一人が、欠くべからざるキリストの体の一部分として、召され、神に仕え、隣人に仕え、節々が強く結び合ったたくましいキリストの体として、成長していく途上にあるのです。

さらに言えば、今、ここにあるこの群れだけで、キリストの体を建てあげるこの教会の使命に仕えているのでもありません。

もう既に、召されたあの友人、あの仲間、あの先輩の種を蒔いた働き、水を注いだ働きが、数十年の時を経て、実りを迎えるのです。

この金沢元町教会だけの働きでもなく、地区の教会、教区の教会、ミッションスクール、いいえ、私たちの多くが生涯一度もその名を聞くことのないような離れた地域にある目立たぬ教会の働きが、数百キロ、数千キロの距離を経て、ここで実を結ぶということが、目に見える教会を作っていくのです。

私たち牧師夫妻にとって、この教会にお仕えする最後の年度となりましたが、このような不思議な教会の働きを目の当たりにすることが許された年度を過ごしているとの実感を私は与えられています。

既に、二人の受洗入会者が与えられました。

今、この時も、さらにお二人の方の洗礼入会のための準備会を続けています。

ある方は、「ようやく、大澤夫妻の働きの実が結ばれてきましたね」と仰ってくださいました。

「これからいよいよ種まきが実り、教会の伝道が勢いを増して進んでいくこの時に、辞任されるのはもったいない」と惜しんでくださいました。

けれども、そのお一人お一人の教会に結ばれ、洗礼入会に至ることになった歩みを思い起こしてみますと、私の働きなどではないのです。ただの一人もわたしが一から信仰の手引きをしたというのではありません。

それまでに、長い長い継続的な働きかけがあったのです。数十年に及ぶ祈りがあったのです。

歴代牧師、ミッションスクールのチャプレン、キリスト者の家族、友人による、有形、無形の手引きと支えがあったのです。

そして、時至り、今の牧師、今の教会員たちとの出会いの中で、目に見えて神さまに触れて頂く、洗礼入会にまで、導かれたのです。

私は、私達は、一人の人がキリストの体に加えられて歩みを新しく始める明確な一点に関わらせて頂く、特別な恵みに今、与らせて頂いているのですが、それは、たくさんのキリスト者たちの奉仕の積み重ねの結果です。そして、このようなたくさんのキリスト者たちをあの場面、この場面、あの時、この時を使って、良き知らせの伝道と、教会形成のために、用い、働かせ、実りをお与えくださったのは、生ける神ご自身の御意志によることなのです。

神さまが用いてくださるのです。神さまが関わらせてくださるのです。神さま御自身が、この教会を用いて、力強く働いていてくださるのです。

教会として全く当たり前のことをここまで語っておりますが、伝道が進んでいく、教会が建てあげられて行くというのは、事実として、この通りに進んで行く他ないと、私たちは信じております。

主なる神さまが、この世に対するその愛のゆえに、伝道し、教会を作ってくださいます。

方便でも何でもありません。宗教の言葉遣いで言えば、こういう表現になるだろうということではありません。

なぜ、伝道が進むのか、なぜ、教会が教会らしく建てあげられて行くのか?

生きて働かれる神が、ここに生きて働いてくださるからです。

詩編127:1に次のような言葉がありますが、それは、私たち教会の心そのものであります。

「主ご自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦は空しい。主ご自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのも空しい。」

それだから裏返して言えば、どんなに華やかで、勢いのある集団が、最新の心理学や、マネジメント論、魅力的なプログラム、それから、いわゆるカリスマ的牧師や、信徒リーダーによって、大集団が形成されたとしても、それは空しいのです。

主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しいのです。主ご自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのも空しいのです。

私たちはいつもいつも問わなければなりません。

私たちが、この教会をどういう教会にしたいかではありません。主は、私達を用いて、どのような教会を作ることをお望みになっているだろうか?主は今、私達をどのようにお用いになっているか、お用いになろうとしているか?

自分たちがどういう教会になりたいかというビジョンを持つことがもしも許されるとするならば、それは、たった一つだけです。

「主の思いに、聴き従う教会になりたい」ということだけです。

教会とは、建物のことではなく、そこに集められた群れのこと、それだから、教会とは、建物ではなく、そこに集まる私たちのことだと、私たちは知っています。

つまり、教会とは、この私たちのこと、私たちこそ、教会です。

だから、洗礼を受け教会に加えられた者は、「教会は~してくれない」とか、「教会は冷たい」とかいう言い方はできなくなります。なぜならば、自分自身もまた、その教会の一部だからです。

もしも、一つの教会に欠けや足りなさがあるならば、それは、他人事として批判すべきことではなく、自分自身が悔い改めるべきことです。教会とは、常にこの私たち自身のことだからです。けれども、もしかしたら、この理解は、誤解されることがあるかもしれません。

私たちが教会であり、私たちが教会の主体であり、主語であるならば、私たちの同意、私たちの総意こそが、教会の意志だと考える誤解です。

一番大切なことは、教会に集まる一人一人がどう思っているか、その思いを集約したところに、教会の思い、教会の進むべき道があると、どこかで考えてしまう誤解です。

それは目立って、あからさまに表明されることはそれほど多くないかもしれません。

しかし、「うちの教会のやり方」、「うちの教会の伝統」という言い方をしながら、あるいは、「あの人が躓かないか、機嫌を損ねるのでは」と、牧会的配慮をしているつもりで、暗に、気付かぬ内に、教会に集まる私たちの総意、人間の思いこそ、教会の意思、教会の重んじる決断だと、結果的に、思い込んでしまうことがあるかもしれません。

もちろん、「これまでのうちの教会のやり方」という感覚の中には、非常に健全な、教会のバランス感覚というようなものが、働く余地があります。また、教会の中には、十字架の躓き以外の躓きがある必要はありません。しかし、同時に、常に振り返られ、吟味されるべきものでもあります。

教会とは、一人の牧師個人や、少数の長老個人によって、私されて良いものではありませんが、同時に、教会の総意や、多数意見、人の気分を害さないことが、教会の歩みを決定する基準になるわけでもありません。

私達は教会です。私達こそ教会です。

しかし、さらに正確に言えば、「私達は主の教会」です。

この教会の主人、主権者、主人公、この教会をどういう教会にしたい、この教会をどう用いて行くかとお決めになるのは、主人である主なる神さまなのです。

これも当たり前のことを申しております。けれども、これもまた、方便でもなく、宗教的言葉遣いで表現すればそうなるということではなく、生ける主の思いを真剣に求めるのが、私たち主の教会です。

その主の御心を求めて、長老を選ぶのです。長老会の議論の結論の内に、自分の思いとは違っても、主の御心を見ようとするのです。

それは、長老も同じです。長老会の議論の中で、いくら、反対意見を述べ、採決の際に、反対に票を投じようとも、長老会の決断として、可決された結論には、神の御心が映し出されていると信じ、自分と反対の意見でも、主の思いとして受け入れるのです。このような教会の実践、具体的なあり方の中に見えてくるのが、自分自身の願いではなく、主の御心が成りますようにとの、私たちの姿勢です。

このような教会理解、教会論は、もしかしたら、厳しいとお感じになる方がいらっしゃるかもしれません。

たとえば、教会の運営というのは次のようであってほしいと思う方がいらっしゃるかもしれません。

たとえば、10年後、20年後、30年後、自分たちはどういう教会になりたいか、どういう伝道をしたいか、どういう会堂を持ちたいか、どういう社会貢献がしたいか。

自分たちの歩みを、夢を、ビジョンを、幻を、自由に、ざっくばらんに話し合い、自分が所属したい、理想の教会の姿を思い描きたい、そんな話し合いができたら、これからの教会の歩みに希望を持てるし、元気も出てくる、こういう自由な、一人一人の意見交換によって、民主的に教会の歩みを決めて行くのが、良いのではないかという考え方もあるかもしれません。

私も、まったく、そういうことを考えないわけではありません。もちろん、そういう懇談会があっても良いと思う部分もあります。よく働くこともあるだろうと思います。

けれども、教会というのは、民主的な会員の総意の一致点や妥協点の内に方向性を見出そうとする群れなのか?

もっと大切なことがあります。私たちの主人、この教会の本当の主人公であられる主なる神さまが、主イエス・キリストが、私たちをどうしたいか、どうして行くご予定なのかということを真剣に尋ねることです。

主なる神さまが私たち金沢元町教会をどう用いたいか、今、どう用いられているか?どういう人を私たちの教会にお遣わしになっているのか?どういう人に、福音を届けようとされているのか?どういう人と一緒に、主の体を建てあげて行くように、召し出してくださっているのか?

だから、教会全体の意見を集約する時も、この群れの中に既に起こっている、またかすかに見え始めている主のお働きの痕跡を、じっくり、丁寧に、探し、思い巡らす、繊細な感覚が必要なのです。

聖書の中のイメージで言えば、「主よ、お話しください。僕は聞いております。」という預言者サムエルの静まりと、受け身の姿勢こそ、私たち教会の取るべき基本姿勢であると私は信じております。

その基本がはっきりしなければ、会衆制度だろうが、監督制度だろうが、長老制度だろうが、教会の歩みが整うことはありません。

現代社会は、自己実現を大切な価値観だと訴える社会です。

自分が自分の主人公になり、自分の可能性を実現していくことが、素晴らしいことだと教え込まれてきた私たちです。

そのような価値観に生きて来た者たちにとっては、私たちの主人公は、私自身ではなく、主なる神さまだと言われることは、普通、面白くないことです。

確かに、この世に属する古い私達にとって、この人生の教会の主人が、自分ではなく主なる神さまであることは、受け入れがたいことでした。

しかし、この教会で、生ける主に出会わせて頂いた者は、この人生の主人の変更こそ、福音そのもの、聖書の語る良き知らせそのものであることを、本当は良く知っているのです。

なぜならば、私たちが、主の心をわが心とし、自分の思いではなく、主の御心をこそ実現することを望むのは、今日与えられたヨハネによる福音書17:21、22、23節の御言葉、

 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らが一つになるためです。わたしが彼らの内にあり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」との、約束の実現に当然、続く、私たちの救われた新しい生き方そのものだからです。

 

そうです。私たちが自分の思いではなく、主の思いを求めるのは、既に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」とのキリストの祈りが実現し、私たちが主と一つとされているからです。キリストが与えたいと祈られたその喜びを、私たちが味わっているからです。

 

その恵みに心打たれている者は、自分ではなく、主の思いと一つになる喜びを知っています。

なぜならば、御父と御子の思いとは、私たちを愛するということだからです。

この交わりの中に、招き入れられた者は、知ります。

私たちが、自分の命を自分で守らなければならないのではなく、この神、御父と御子が、私たちの命を配慮してくださる私たちの生命線となってくださっています。

わたしが自分の名を大声で叫び、自分の主義主張を通さなければ、生きられないのではなく、もう既に、このお方が、私たちの名を呼び、私たちをあがない、御自分の宝の民とされたから、私たちは生きて良い、生きることが許されているのです。

だから、今は、自分ではなく、このお方の御心を求めて生きるのです。

それが自然なことであり、それが私達の喜びです。

そうです。私達は既に主の教会であります。主が目をかけ、ご自分の宝と呼び、ご自分の体とさえ呼び、命をかけて買い取り、この小さな群れを通して、この欠け多き器を通して、しかし、既に、選び、用い、働くことを定められた当の教会であります。そういう者として選ばれているのです。聖なる者として取り分けられたのです。

ヨーロッパの歴史ある教会、アメリカの巨大な教会に、何の遜色もなく、私たち、金沢元町教会もまた、生ける神が選び、生ける神がご自分の体と呼び、生ける神が、用い、働かれる主の目当ての教会そのものです。

生ける主の臨在、生ける主の現臨が、この私達金沢元町教会の内にあり、私達は父と子の交わりの中心にあり、また、父と子の交わりが私達の只中にあり、主が私達の内に、私達が主の内にあります。

しかも、この信仰の奥義、信仰の神秘は、固定化されたものではなく、今もいきいきと、動き続けています。

今日の20節にあるように、教会の伝道の言葉、私達の働きを通して、父と子の交わりの奥深くに捕えられ、神の宝物とされ、神の命を吹き込まれた者として、生きるようになる者たちの数が増していくのです。

そうです。洗礼を受けて、教会に連なる今の私たちだけが、神の内に隠された神の宝とされているだけではありません。

私たち教会の語る言葉によって、この地に生きる人々が、自分が神に罪贖われ、神の宝とされる当の本人であることを、取り戻すようになるのです。

初めて、与えられるのではなく、「取り戻す」です。

なぜならば、このような人と神との幸いな一体は、主イエス・キリストが24節で、「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光」を見せると、約束してくださっていますように、天地創造以前より定められていた神の愛の計画、神の栄光に属することだからです。

主の体と呼んで頂けるほどに、御父と御子の深い一体の内に、既に、その奥深くに入れられ守られ一つとされている私たちが、願い求めるのは、この天地創造の以前の愛、天地創造以前の選びに、全ての人が知るように、そして、全ての人が一つとされるようにとの、神の願いを我が願いとすることです。

キリストの体として、このお方の手足として、用いられて行くことです。

私達は主の教会です。

主人公は主であり、主が私達を用いてくださるのです。

今日、ここで、26節の主の言葉を深く深く受け止めたいと願います。

「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対する愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

祈ります。

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