礼拝

9月3日 主日礼拝

週 報 

聖 書 ヨハネによる福音書16章4節b~15節

説教題 裁かれ正される幸せ

讃美歌 117,56,78,28

今日、私が、御言葉から聴き取ったのは、教会の信仰のアルファであり、オメガである、大切、かつたいへんシンプルなことです。今日の御言葉をお語りになった主イエスのゆえに、どうぞ、安心して自分の罪を告白してください。そして、自由になってください。

他の誰の前でもなく、何よりもまず、今、ここで、この礼拝の場で、そこで捧げられる教会の祈りに心を合わせて、生ける神様の御前に、安心して自分の罪を告白してください。そして、主なる神さまに、きちんと裁かれ、きちんと正され、しっかりと自由になってください。

ただキリストの恵みによって、神の愛によって、生かされているご自分であること、ご自分の命であることを、ここで一緒にお祝いましょう。

何とか自分に自分の正しさを言い聞かせなければ、心折れてしまうと思っているその所でこそ、どうか、自分の罪を告白してください。そこで、裁かれ、自由になってください。

そのような胸を張れる自分の正しさ、しがみついている正しさこそ、神が裁かれる罪そのものであることに気付き、悔い改め、代わりに、既に備えられている神の憐みに満たされてください。

 

神さまはすべてをご存じです。あなたが赦され、受け入れられていることを、確信できなければ、自分の必死でしがみついているものを決して手放すことのできない弱さと罪をご存じです。神さまは私たち人間の罪のすべてご存じの上で、あなたを本当の自由、本当の喜びへと招きたいのです。

信仰者とは、本当はその御前に立つことが許されない神様の御前に、ただ憐みのゆえに、立つことを赦された者であることを、弁えた者のことです。罪があるにも関わらず、罪覆われて、立たせて頂いていることに心打たれている者のことです。そして、それは、幸せなことです。

詩編32篇の信仰者が、「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆って頂いた者は。」と感激して語る通りです。私たちが罪人であることは隠すことができません。人の目には、隠すことができたとしても、神の目をごまかすことはできません。

詩編139篇の祈り手は、「わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」とひれ伏しました。心の暗闇に思うことも、あなたの造り主、あなたの主である神さまは御存じです。お母さんのお腹の中で胎児であった時から、既に、このお方は、私たちをご覧になっています。

私たちがレントゲンでしか見ることのできないこの骨も、この方のまなざしには、隠されていません。これはそのまま私たちの魂の骨格にも当てはまることです。つまり、私たちが自分自身ですら意識していない、この魂の秘密、私を駆り立てる無自覚、無意識の罪の衝動、自分でも怖くて見られないような底の底にある獣のような私たちの罪もまた、このお方の前には、隠されておりません。

 

どこに行けば、この方のまなざしから逃げることができるでしょうか?どこに行けば、この方の息の届かない場所があるでしょう?

天の果てに昇ろうとも、地獄の底に降ろうとも、主なる神はそこにおられます。

それゆえ、このお方の前に、自分を偽ることはやめましょう。いいえ、偽る必要がありません。

ありのままの丸ごとの私として、現に、私たちはこのお方の御前に置かれています。しかも、現に滅ぼされずに、置かれているのです。

私たちのどのような罪にも関わらず、神さまはわたしが生きることを許してくださいます。

このお方の前で、はっきりと自分の足りなさ、つまらなさ、弱さと罪が明らかにされているにも関わらず、立つことが許されることを知るならば、もう、怖いものはありません。不安もありません。

そのお方は、神です。当たり前のようですが、このお方が神であられることをよくよく受け止めたいのです。

このお方は神であられる。それはすなわち、そのお方が見られる私こそが、本当の私です。

真理、真実の神は、ありのままの私を御覧になれるのです。

神を信じることのない者にとっても、これは無関係なことではありません。また、無関係なだけでなく、実際、誰にとっても、本当の自分の姿というのは、とても関心のあることだと思います。

二つの面で、関心を惹きつけます。

一つ目は、誰しも、本当の自分を知りたいという思いがあります。私という人間は、本当のところ、どういう者であるのか?どんな人間であるのか?私がどう思い、どう考え、どう感じているのか?本当はどういう人間であるのか?

自分にとっても、自分は隠されたままで、ある時、突然、思いがけない仕方で、新しい自分と出会ったりするものです。思いがけず、優しい自分の姿、たくましい自分の姿に出会うこともあります。そんな時、自分には、こんな優しい気持ち、こんな美しい気持ち、こんな強さが隠れていたのかと、嬉しくなることがあります。

本当の私、私の可能性が花開いた本当の私ってどんな私だろう、誰しも興味のあるところです。

けれども、それだけではありません。

私たちは、ネガティブな意味でも本当の私に関心を持っいています。本当の私を知られたくないという思いです。世間で見せている私はきっと本当の私ではない。家族の前で見せている私の姿も、まだ隠している一面がある。私の内側には、誰にも言えず、分かち合えない惨めな思い、また、暗い黒い塊がある。自分に隠されていた優しさやたくましさに思いがけず出会い、喜ぶことがある以上に、ある出来事をきっかけに、自分の中に隠されていた貧しさや、嫌なものを目の当たりにして打ちのめされることがあります。そしてむしろ、それこそが、本当の自分であるような気がします。そういう私、そういう惨めな裸の私、黒い私を含めた、あるがままの私を隠しながら生きている。

そういう痛みを知っているというのは、神を信じているとか、いないとか関係なく、そんなに特別なことではない、とても人間らしいことだと思います。最も親しいはずの者の前ですら、私たちは、ずっと裸のままではおれません。この裸の身を隠すもの、この裸の魂を覆ってくれるものを求めずにはおれません。そのようにどうしても守りたい弱さ、どうしても隠したい恥ずかしい姿、墓場まで持って行きたい罪を皆抱えて生きています。

もしも、それを全部丸裸に見透かしてしまうような存在が、近づいて来るならば、急いで、身を隠したいというのが、私達人間の性でしょう。

創世記の原罪物語は、とてもリアルなものだと私には思えます。あるがままの本当の私を暴き出してしまう真理の前から、身を隠してしまいたいという自分の足りなさ、貧しさの自覚と、自分の罪を隠したり、人のせいにしたいと思うアダムとエヴァの姿は、本当に、私たち人間の姿であると思います。

けれども、最初に申し上げたことをもう一度申します。

真理、真実のもとに自分が明らかにされること、全てを見通される神の御前に、本当の私が露わになってしまうことは、原初的とも言えるほどの恐ろしさを私たちに与えるものであるでしょうが、キリストを信じる時には、実は、とても幸せなことです。

たとえ、そのあるがままの私が、自分が今、感じたり、考えたりするよりも、もっとずっと、どうしようもなく、もっとずっと貧しく、もっとずっと恥ずかしく、もっとずっと罪深い者であったとしても、キリストに出会う時に、知るようになる本当の自分との出会いは、本当の幸せを与えてくれるものです。

なぜならば、その情けない本当の私を見通している真理とは、イエス・キリストにあって、私たちに父として知られることをお望みになった神様だからです。

この地点にあって、本当の自分に対する、私たち人間の二つの関心は一つに集約します。

自分が誰で何者であるか本当の自分を知りたい私、誰にも知られたくない、見せたくない私、その二つが一つになります。誰にも知られたくない、誰にも見せられない本当の私が、神に受け入れられ、罪覆われ、何と愛されている私なのです。

だから、裁きと恵みは一つです。神の裁きと恵みは完全に一つです。

今日与えられた聖書の8節を、私の言葉で言い直すならば、私たちを持ち上げたり、また貶めたり、飴と鞭を使って私たちを虜にしようとする偽りの霊、その時代の霊、この世の霊が生み出す世界観、価値観を突き破って、真理の霊が来ると、主イエスは仰いました。

その真理の霊は、罪について、義について、つまり、裁き、最終的なジャッジを下し、世の誤りを明らかにしてしまうと言います。

つまり、主イエスは、私たちをあるがまま、丸裸にしてしまう霊が来ると仰いました。その霊が下すジャッジは、世の判断、私たちが恋焦がれ、追い求め、その基準に自分を達しようとさせ必死になっている世の営みの全体が、誤りであると判決すると仰るのです。

これはよくわかります。これもまた、信仰の有無に関係なく、私たちが死ぬ存在であるということを思い起こす時に、世の中で追い求められているたいていのことは、本当のところ、ほとんど役に立たない非本質的なことであることが、分かるものです。

真理の霊が来る時、この世で一所懸命に私たちが追い求めている、自分を価値あるものにしてくれると思っている多くのものが、誤りであることが暴露されます。あなたたちが、頑張って手に入れようとしていたもの、無益なものだった。あなたの手の中には何一つ残らない。主イエス・キリストのお送りになる真理の霊は、ここで、死以上に、このような世の誤りの現実を、鋭く、私たちに突きつけられます。

主イエスの送られる真理の霊によって、明らかにされてしまうこのようなリアルは、夢から覚めた私たち自身のリアルであるにすぎません。けれども、このような現実に目覚めさせられてしまうことに、私たち人間はどんなにいらだってしまうことか?

自分の歩みの確かさ、自分の素晴らしさを夢見る夢を邪魔する主イエスが、憎くて仕方なく、私たちの先祖は、主イエスを十字架に追い立てたのです。

しかし、かえって、そのことによって、私たち人間の罪がいかに深いものであるか、真理の霊は、証言するのです。

 

けれども、このような呵責のない判決を下す真理の霊は、滅ぼすための真理ではなく、私たちの父が送られた弁護者の霊なのです。これが、大切です。

そうです。この真理の霊による判決は、ささいな瑕疵も見逃さず、絶対に有罪にして、人間を牢屋にぶち込んでやろうという冷酷無比な検察官のジャッジでもなく、公平で中立かもしれないけれども、肩入れしてくれることもない裁判官のジャッジでもなく、私たちの味方、私たちの弁護士のジャッジなのです。

私たちのこの身と魂の鎧をはぎ取り、丸裸にし、その誤りを明らかにする真理の霊は、私たちの弁護者なのです。

もちろん、この霊は真理の霊ですから、どんな敏腕な刑事や、検察よりも、私たちの罪咎のすべてをご存じです。この霊は天地を造られ、歴史を支配される神の霊ですから、世界の審判者そのものであられます。しかし、検察官であり、審判者でもあられる神の霊が、ただ弁護者として、私たちにその身を向けてくださるのです。

弁護者とは、元の言葉では、傍らにいるもの、慰めるものという意味でもあります。つまり、私の一番近くにいる私の味方です。

何かができるから、役に立つ人間だから、真理の霊は、私たちの味方になってくれるのではありません。この弁護者は、私たちがどんなに情けない者であっても、どんなに罪深い者であっても、生きていて良いてくださるのです。

こんなに幸せなことはありません。

この霊が罪を明らかにする裁く方でありながら、弁護者であるのは、この霊が、キリストの出来事を証しする霊だからです。なぜ、私たちがどんなに貧しく罪深い者であっても、神さまの祝福を確信して良いのか?神さまが私の味方だと信じ切って良いのか?

キリストの十字架が立ったからです。シンプルに言えば、神の独り子が命懸けで、私たちの貧しさと罪をお引き受けになって私たちを生かそうとされるからです。

天の父は、このキリストをお甦りにならせ、この罪の贖いが神の御心であり、私たち人間の最後の現実であることを、お示しになられました。弁護者である聖霊は、これを誰でも自分自身のこととして受け止めて良いと、教えて下さるのです。

このことを信じる私たちキリスト者も、ただ、聖霊が教えて下さる信仰の事実としてこれを教えて頂くわけですから、何の不足もありませんが、しかし、それでも、顔と顔とを合わせて、お甦りのイエスさまからこれを聴かせて頂けたら、どんなに幸せなことだろうと、私は空想しないわけではありません。

けれども、私が、今日の聖書箇所において、一番、心動かされた所ですが、10節の言葉によれば、主イエスが天に昇られ、そのお姿が見えないということは、実は、そのお方をこの肉眼で見たいとい私たちの願望以上に、大切なこと、もったいないことであることを、教えられました。

主は、主のお姿を見ることができないことを悲しむ弟子たちに次のように仰いました。10節の御言葉です。

「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたはもはやわたしを見なくなること」だ。

この御言葉を読みながら、十字架とご復活のキリストが、天に昇られたその理由を、私は、改めて、教えられた思いでいます。それは、わたしたちの義のためです。

なお、謎のような言葉ですが、ロマ書8:34の使徒パウロの言葉は、この主イエスの言葉を、言い換えたものであると思います。神に心動かされながら、パウロは語りました。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

執り成しとは、祭司のする罪の贖いのことです。キリストは、その執り成しをするために、天に昇られたとパウロは告白します。

つまり、キリストの十字架の贖いは過去のものではなく、御自分の捧げられた十字架の犠牲に基づき、キリストは、祭司として、執り成しを続けておられるのです。そのために、天に昇られたのです。だから、見えないのです。天で、父のもとで、私たちの罪の執り成しのために働き続けてくださっているからです。

だから、このキリストを信じる者たちは、自分は正しい、自分は間違っていないなどと、頑張らなくて良いのです。

ルターが言ったように日々の悔い改めに生きることができます。

もしも、このキリストの執り成しを知る者が、自分は神の民だ、自分は真の義人だなんて、威張り出したら、それは本当におかしなことです。

それでは、自分は正しい、自分は間違っていないと必死に自分の正しさにしがみつかなければならなかった古い生活と何も変わりがありません。むしろ、悪化さえしています。

けれども、ありがたいことに、今も天で全力で執り成してくださる御子のゆえに、本当に具体的に、朝に夕に、神さま申し訳ありませんと言えるようになっているのです。

自分の小さな生活を振り返っても思いますが、たとえば、本当に夫婦関係を成り立たせるものは、自分は妻に対して罪を犯していない、妻をあんなにもこんなにも愛したと嘯くことによってではなく、あれはすまなかった、これもすまなかったという心に生きる時にこそ、愛の関係に生き始めていると言えるのではないかと思います。

日毎のキリストの執り成しこそ、私たちの日毎の悔い改めを可能にする、一所懸命な神の愛です。このような一所懸命な神の愛の労苦の対象は、もちろん、キリスト者たちでありますが、同時に、この世です。

神はその独り子を賜ったほどに世を愛されたのです。

神の愛を理解しないこの世、キリストを受け入れないこの世、この福音書の中で弟子たちとは明らかに区別されるこの世、けれども、福音書自身の中に弟子と世の境界線にはブレがあり、この世とは、天地創造のゆえに神の民であったこの世であり、また、神の命の息によって、弟子としてまた新しく生まれることを待っているこの世なのです。

あるいは、私たち教会もまた、何度でも、この世そのものに戻るよう何度も誘惑されることがあるのです。いつでも、キリストの執り成しを忘れ、神の祝福を、自分の力で掴み取ろうとするのです。

教会とこの世は、しっかり分けられつつも、重なって行くものでもあります。それゆえ、未信者であろうが、教会であろうが、私たち人間が聴くべき良き知らせはただ一つです。御子の内にのみ、私に注がれている神さまの祝福を見るということです。

ただいまから聖餐に与ります。聖餐は、洗礼を受けた者だけが与る食卓です。

しかし、この聖餐に与る教会は、神が世を愛されるために、その祝福の知らせを、生きた声として、世界に響かせるために、この世の只中に立てられたものです。この聖餐において、教会は、キリストの命に与ります。聖餐に与る教会は、キリストの命に与り、キリストの体とされます。そのようにして、キリストの体とされた教会が、神の生きた声を届けるのです。この目に見える教会共同体を通して、その礼拝を通して、生ける神があなたに出会おうとされています。

あなたにも触れようとされています。

いいえ、神は既にあなたのことをご自分のものとして数えておられます。その愛の御手の内に入れておられます。

自分で自分を掴まなくて、良いのです。自分を生かすために、あれもこれも掴みに行かなくても良いのです。

それはもうおしまいです。神は、そのような私たちの誤った努力を裁かれ、もう、終わりにされたのです。

そして、今や、あなたがどんなに弱く、貧しい者であったとしても、その罪深い、あるがままのあなたを、あなたの天の父なる神は、現在進行形で愛おしがってらっしゃるのです。

 

生ける神の霊が、今、ここで教会を通して、この生ける声をあなたに語りかけておられます。この神のまなざしにおける真実を、あなた自身の真実として、あなたがきちんと裁かれ、正され、しっかりと祝福され、自由になること、また日毎の悔い改めの自由に生きられるようになることを、あなたの神が望んでおられます。

祈ります。

  

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