週 報
聖 書 ヨハネによる福音書15章26節~16章4節a
説教題 余裕がなくても、忘れない愛
讃美歌 115,55,214,27
今年も、長い夏休みを頂きまして、心身ともにリフレッシュして参りました。ありがとうございます。今年もまとまった時間を使い、色々な人と出会い、また色々な本を読むことができました。まだそれらを消化することはできませんが、これらの出会いを通して、私は、さらにもう一歩、イエス・キリストの福音の深みに、連れ出されていくような予感がしています。
一つには、これは既に、一か月前の説教で、ルーマー・ゴッテンの『ねずみ女房』という童話をご紹介しながら語ったことですが、私たちキリスト者は、この世の只中にあって、どこか違った者として生きることを臆さないということが、さらに、大きな信仰のテーマとして、心に与えられました。
私たちキリスト教会というのは、この日本の社会の中にあってたいへんなマイノリティーです。肩身の狭い思いをすることがあります。けれども、案外、人は私たちの信仰がどういうものであるか、私たちが、何を喜びとしているのか、どんな言葉を語るのか、知りたがっているものだと思います。その手応えを覚えています。
この教会にも何度か来たことのある私の姉は、日本各地を周り、「対話会」というものを主催しています。
姉は、二つ目の大学で専攻した看護学の実習現場を通し、患者が医療だけでなく、対話を通してこそ、全人的に回復されていくということを学びました。自分の体なのに、自分の病気なのに、医療現場では、患者は非専門家として、口を出すことがはばかられる。自分の体なのに、自分の病気なのに、自分は置いてけぼりにされて、あれよあれよという間に事が進んで行ってしまう。けれども、本当は、病気の時こそ、それまで押しとどめていた本当の自分の心の声に聴くチャンスになる。
もっと大きな意味で、自分の本当の回復が与えられる。マーガレット・ニューマンという学者の考え方だそうです。
しかも、それが、病気の人だけでなく、ありとあらゆる人が、現代という社会の中で、自分を失っている。だから、そのような対話を必要としている。私の姉は、これを患者さんとの対話の経験、また自分自身の体験としても知り、日本各地に風通しの良い対話の場所を作ろうと、呼ばれれば、どこにでも行って対話の会を開いています。伝道者として、見習いたいことです。
対話と言っても、言葉のキャッチボールではありません。一つの焚火を囲むように集まった者たちが、その焚火に、薪をくべるように、ぽつりぽつりと、今、自分の感じていること、自分の思っていることを場に出すだけです。受け止め、応答しなければならないわけでもありません。それだけ自由、それだけ、自然な言葉の動き、心の動きに、身を委ねます。
そのような対話の場を心に思い浮かべながら、私は、パウロがロマ書8:26で、「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」との御言葉を思い起こします。
神が人を地の塵よりお造りになった時、最後に、その鼻に神の息、すなわち、神の霊を吹き入れると人は生きる者となったとあります。この創世記の記述からしますと、神の霊と共にある者はキリスト者に限りません。人間には、神の息が吹き入れられています。人を真に生かす神の息、神に吹き入れられ、人を生かしているその息、神の霊があります。だから、誰と対話する時も、神の霊の、微かな、小さな声が、そこでもう響き始めていると信じて良いと私は思います。
姉の活動に興味のある人、出会った人々が、次々と私の実家に遊びに来るものですから、夏休みの間にもいろいろな人に会いました。普段、牧師として生活をしているだけでは、なかなか出会わない種類の人々と会い、会話しながら、その方々が、私の語る言葉に聞き耳を立てていると感じました。牧師という珍しい仕事をしている弟夫婦にも、興味を持って頂くのです。この人は、何で、キリスト教を信じたのか?牧師になったのか?
教会に集まる人たちは、何を聞き、何を信じているのか?もちろん、そのようにして、その方々が、私の言葉に聴き耳を立ててくれるだけではありません。私もまた、お一人お一人の言葉に、聞き耳を立てさせられ、今、信じているもの、今、拝んでいるものは違えど、この時代を生きる同じ人間として、驚くほど同じ課題を担っているし、同じ問いの前に立っていると発見させられます。
私たちの生きる現代は、今、一つの転換期に来ていると思います。
これまでの当たり前の価値観が崩壊し、不確かな世界と未来が広がっています。親は子に、孫に、これが安心安全な生き方ですよなどということが、はっきりと語れなくなって来ています。けれども、それに代わるはずの、大きな物語も、当の昔に崩れ果てました。皆、暗中模索です。
しかし、少なくとも、成長、進歩、発達、発展、拡大の資本主義の時代精神が行き詰まりを迎え、その力の座から落ちようとしていることを、感じている者も多いのです。遠くの世界の話ではなくて、私たちの友人、子ども、知り合いのレベルで、一つの時代、一つの価値観の終焉を肌に感じ取り、別の生き方を実際に模索し始めている者たちが身近にいるのです。全員、右に倣えという時代は終わろうとしています。
この夏に語り合った人々、また、読んだ何冊もの本との出会いを通して、そういう雰囲気が、この時代に芽生えていることを感じました。
何かが終わろうとしています。そして、また新しいものが始まろうとしています。
それは、一見、不安なことですが、喜ばしいことでもあると思います。
その時代の、雰囲気や、常識となって誰も疑わないような空気感のことを、時代精神と一般に表現されると思いますが、この言葉を使った哲学者のヘーゲルは、これをドイツ語で、Zeitgeistと言いました。ガイスト、英語のゴーストのこと、「霊」のことです。時代精神とは、「時代の霊」とも言い換えることができます。
もしも、これまでの時代が、人間の命よりも、成長、進歩、発達、発展、拡大を追い求める時代の霊に支配されるものであったとしたら、それが掃き清められ、退場させられようとすることがあり得る可能性として見え始めている時代なのです。
オルタナティブな(代替の)生き方、別の生き方が、十分に市民権を得られる時代にです。
これは一見不安ですが、良い時代だとも私は思います。
しかし、同時に、私は、主イエスの次の言葉を思い出します。ルカ11:24以下の主イエスのたとえ話です。
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除して、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住む着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
汚れた時代の霊を追い出しても、その清められた部屋に、真の霊を迎え入れない限り、追い出した霊が、素知らぬ顔をして、しかも、他にもっと悪い七つの霊を連れて、戻って来るというのが、主イエスの警告です。
それゆえ、やはり、教会には使命があるのです。
多様なあり方、多様な価値観が認められる素晴らしい時代にあって、少数派である自分たちも少しは居やすくなったという程度で満足していては、申し訳ないことだと思います。実際に、私たち教会の言葉、キリスト者の言葉を、聴きたいという人は、確実に増えていると思います。
聴きたいはずです。真実のキリスト教会は初めから、成長、進歩、発達、発展、拡大を追い求める時代の霊と対立して存在してきたからです。私たちキリスト教会は、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」というこの世の霊に、真っ向から反対し、「ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなもの」である十字架に付けられたお方を私のキリスト、私たちの救い主と信じ、告白するものです。
これは不思議な群れです。不思議な信仰に生きる者たちです。
このような告白の中にこそ、七つの霊の再来を許さない真理の霊があるのではないかと、世の人々が耳をそばだてようとするのは、当然の道理です。私たちは、腰に帯を締め、人間を支配し、虜としていたこの世の霊が追い払われる時、もう二度と、人が奴隷とされないように、人の内に真の霊が宿るように、先に召された者として、真の霊をご紹介していかなければなりません。
いいえ、もう一度申しますが、その霊は、天地創造の霊です。
塵から造られた人間に、仕上げに吹き入れられ、人を生きる者とした神の息、神の霊です。
全ての人の内に、隠され、宿っています。
だから、色々なルールや、規則や、決まりごと、常識に縛られ、役割に追われ、自分を見失って、自分のことでありながら、自分のことが他人事のようになってしまう時、人の内にあって、心の深いところから込み上げてくる呻き、その隷属から解き放たれて、本当の自由な空気を吸いたいと憧れる私たちすべての人間の内にお住まいになる神の霊です。
古代教父アウグスティヌスの有名な祈りはこう言います。
「あなたはわたしたちをあなたに向かって創られたゆえに、わたしたちはあなたの御許に安らうまでは、平安を得ることがありません。」
どんなに小さく、押し込められてしまっていても、私たちを生きる者として神の息は、滅び切りません。自由な空気を吸おうと、心の深いところから込み上げてくる呻きによって語られます。
わが内にある天地創造の神の息は、私たちの内の深い穴倉の中にあっても、天を呼び求めます。その呻きによって、天を呼び込みます。同じ霊がもう一度吹き入れられること、体いっぱいに吹き入れられることを、わが身の内にあって、力の限り求めてくださいます。この神の霊が、主イエス・キリストの父なる神の霊と名付けられ、私達人間の心の中心にその座を得なければなりません。
この神の霊は、霊と言っても、あやふやなものではありません。
確かに、時代精神、時代の霊、時代の空気と同様に、霊でありますから、他の霊と同様に見えないものではありますが、時代の空気のように、私たちを動かす現実の力です。この霊がこの体の内に満ちるならば、抗いがたい力である時代の空気に逆らって、強烈に、私たちを突き動かす現実の力となります。
創造の初めにおいて私たちに吹き込まれ、私たちを生かすその神の霊、イエス・キリストの出来事において、もう二度と失われない形で、吹き込まれる神の息、神の霊、私たち人間を現実に自由にし、事実、息ができるようにする力の霊が、もう、この世界に来ています。
主イエス御自身が仰っています。今日の26節です。
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来る」
そしてその真理の霊が来る時、「その方がわたし、(イエス・キリスト)について証しをなさるはずである」。
この神の霊は二重の意味であやふやなものではありません。一つには、それは、私たちを現実に自由にする力があるのです。もう一つは、なぜ、それが時代の空気を打ち破り、新しい自由の空気の中に私たちをしっかりと生かすかというと、その霊が、イエス・キリストの出来事をはっきりと証しし、私たちの心にキリストの出来事を刻み付けるものだからです。
神の霊は、どのようにして、私たち人間を、時代の霊から解き放ち、本当に自由な人間に造り変えるのか?
イエス・キリストの出来事を証しし、私たちに刻み付けることによってです。
イエス・キリストの十字架と復活の出来事が、新しい時代を作り、今や私たちの新しい空気となっているのです。
「あなたは生きて良い。あなたがどんな者であってもあなたは生きて良い。」
「あなたが良いものを生み出せる者でなくてもあなたは生きて良い。あなたがもはや、何の役に立たない者であっても、あなたは生きて良い。あなたが生きていてくれて嬉しい。あなたが喜んで生きるためならば、私は何だってする。」
「あなたの弱さ、あなたの貧しさ、そしてあなたの罪、どうしようもない罪、あなたがそのようなマイナスに染まり切っていたとしても、私はあなたが生きることを喜ぶ。どんなあなたでもあなたは生きて良い。」
これが、イエス・キリストの出来事において、天地の造り主なる神が、はっきりとお語りになっていること、私たち人間の置かれている世界の土台です。
ここにとどまりなさい。ここにとどまって良い。この言葉の内に、この霊の内に、この息の内に、私の全肯定、絶対肯定の内に、あなたたちはいるんだ。これがあなたがたが吸って生きるための大気だ。あなたがたを自由にする真の空気だ。ここにとどまりなさい。ここに堅く立って、もう何ものにも動かされないように。
「わたしは生きて良い。私には生きる価値がある。」
これは、神がくださる贈り物です。
何ができるから、何ができないから、何の関係もありません。
私たちを取り巻く空気は、もう「~しなければ、生きる価値はない」というものでは永遠にないのです。
「あなたは生きて良い。あなたには、全世界よりもはるかに重い、わたしの独り子イエス・キリストの命の重みが込められている。どんなあなたでも、どんな罪深いあなたも、わたしは、最愛の御子の命を支払って、あなたを買い取った。あなたはわたしのものだ。」
この世の霊は、神の言葉に逆らって、なお、しばらくの間は、嘘を語り、噓の空気で世界を縛り付けようとします。あわよくば、私たちのことをも組み敷こうとします。
それゆえ主イエスは仰います。16:1以下です。
「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」
なぜならば、今、しばらくの間、「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
この言葉に関しては、もはや言葉を重ねる必要はないと思います。よくお分かりになるだろうと思います。
主イエスによって現実となった神の言葉を、「あなたは生きて良い。あなたがいるだけで嬉しい」と仰る神の全肯定と、その神の言葉を吸って吐いて生きている福音の空気を、台無しにしようとする力、息の根を止めてしまおうとする力、古い霊が舞い戻り、連れてくる七つの霊に出会っても、躓かないように、騙されないように。主イエスは私たちを備えてくださるのです。
私の内にとどまりなさい。私の愛にとどまりなさい。福音に立ちなさい。
それどころではありません。少し戻った27節です。
「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」
偽りの霊の声が響くとき、身を固くして、縮こまってやり過ごすのではありません。むしろ、このわたしが、この私たちが福音の証言者とされます。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいた」12弟子だけではありません。この「あなたがたも」という小さな「も」という言葉の中には、私たちもいます。
なぜならば、今、私たちがこの福音を聞いて信じているのは、偶然ではないからです。天地の造られる前から、つまり、初めから、神の御心の内に選ばれている私たちだからです。それゆえ、どんなにマイノリティー、少数派の立場に置かれる時にも、臆することはありません。
空気を読んで黙る必要はありません。
神の霊が来られ、弁護者が来られ、キリストの福音をこの胸に吹き入れ、私たちが生き、また突き動かされて語るのは、ただただ、共にいてくださるこの神の息によるからです。そしてこの神の息は、今は、福音に敵対しているように見えるこの世をも生かす霊、本当は、この世が待ち望んでいる真理の霊、新しい風、人を自由にする明るい空気なのです。
この私たち人間の主、私たちを生かすためになんでもなさる十字架とご復活の主イエスこそ、最後の、また真の勝利者であられます。
コメント