週 報
聖 書 ヨハネによる福音書15章18節~25節
説教題 居心地悪くても、大丈夫
讃美歌 113,347,469,26
|
イギリスの童話作家ルーマー・ゴッデンの作品に『ねずみ女房』というものがあります。くまのプーさんやピーター・ラビットシリーズの翻訳をした童話作家である石井桃子さんが翻訳した隠れた名作です。
私は、キリスト者になりたての頃、この作品を紹介するNHKのラジオ番組を聞いて、そのあらすじが、洗礼を受けてキリスト者となった自分自身の姿と重なるように感じ、早速、近くの書店に注文して読んだことがあります。
あらすじはこうです。あるお屋敷に住みついているネズミの奥さんが、他のネズミと同じように、食べものを探していた時、家主が籠の中に捕えたキジバトに出会います。初めて出会ったキジバトは、外の世界に恋い焦がれながら、ネズミの奥さんに、その素晴らしさを熱に浮かされたように語り聞かせます。
ネズミの奥さんは、その話が忘れられず、来る日も来る日も、キジバトのもとに通って、友達になり、まだ見ぬ天上の世界に思いを馳せます。
けれども、籠に閉じ込められた鳥は、日に日に弱って行きます。家主の与えた豆を決して口にしないキジバトのために、ネズミの奥さんはパンくずをせっせと運んでやりますが駄目です。
普通のネズミの奥さんは、ある日、心を定めて、渾身の力を込めて、鳥籠に飛びつき、扉をこじ開け、キジバトを逃がしてやります。キジバトは、友人を振り返ることもなく、文字通り、外へ飛び出していきます。
ネズミの奥さんには、キジバトが来る前の日常生活が戻ってきますが、作者は語ります。
このネズミ、どこにでもいる普通のネズミだけれども、「どこかちがう」。
このネズミ、普通の生活をして、子が生まれ、孫が生まれ、ひ孫が生まれて、その生を終えて行きますが、その目には、生涯不思議な輝きが宿っていたって。
それからまた、何年も経って、この童話のことをほとんど忘れていた頃、トゥルナイゼンという牧師の書いた有名な『牧会学』という実践神学の本を読みました。
その時、次のような記述に出会いました。
病者の訪問、病の中にある者を訪問するときの、牧師、キリスト者のあり方を丁寧に語る言葉の中で、トゥルナイゼン牧師はこう語ります。
「たとえ患者の状態がどんなに思わしくない時でさえも、われわれは、病室に入る時、喜びの使信の使者らしく、既にいささかの光を放つことがゆるされている。それは、技巧的にすべきこと、なしうることとは、わたしは思わない。そうではなくて、あたたかく仲間の人間と共に生きる心の光が、われわれ自身のうちに燃えなければならないのである。」
たとえ、死なんとする者の病床を訪ねる時も、キリストに結ばれている者は、いささかの光を放つことがゆるされている。重苦しく、沈鬱な表情を作る必要はない。
しかしまた、この顔に湛えることのできる輝きは、技巧的にすべきことでも、できることでもないと言います。
それは、私たち自身のうちに既に燃えているあたたかい光の発露である。
人間仲間に対するあたたかい思い、死の床にある者の傍らにあっても、そそくさと逃げ出さず、いささかの光を放ちながら、そこに静かに共にいることができるようにする内なる光、それは、言うまでもなく訪問する者の内にあり、また、訪問される者の内にも、私たちが見つけることがゆるされるイエス・キリストです。
トゥルナイゼン牧師は、見舞われた人が望まないならば、必ずしも、信仰的対話をする必要はないと示唆します。こうあらねばならないといういうことはないんだ。他の見舞客同様に、病のこと、家族のこと、仕事のこと、世の中で起きているニュースのこと、ただ、普通の会話で構わないと言います。
何もなくても、キリストに結ばれている者のまなざしに宿る光がある。
そして、その人が望み、許してくれるなら、ただ最後に一緒に主の祈りをすれば良いと示唆します。
私はこの文章を初めて読んだとき、『ねずみ女房』のことを思い出しました。
キリスト者のまなざしには自然と、イエス・キリストの愛の光が宿るようになる。
だから、わざとらしさはいりません。それは、本能的とさえ言えるその存在全体から発する光です。
ロシア正教のある神父は、キリストを拝む者、礼拝に養われる者には、礼拝本能と言うべきものがその身の内に形作られていくという趣旨のことを言いました。日曜日、礼拝に行かないと何だか気持ち悪い。一週間が始まらない。礼拝に毎週、出ていると、そういう礼拝本能とも言うべきものが、この身の内に形作られていくと言うのです。
すると、単に、日曜日、礼拝に行かないと何だか、気持ちが悪いという心のあり方どころではなくなってくると言います。顔つきが変わってくる。歩き方まで変わってくる。声も、まなざしも、変わってくる。私はそれに加えて、呼吸も変わってくると加えたいと思います。
毎週、招きに応え、礼拝に集い、主イエスの前に罪の重荷を下ろし、自分の力で何もかも背負わなければと張りつめていた息を緩めるのです。ほっと一息付きます。
そして、そこで、自分が、自分がという、余裕を失った浅い呼吸、詰めた息を、ぷはーっと吐き出した私に、今度は新しい命の息、私たちの本当の力の源となってくださる神の霊、命の霊、聖霊が、入って来るのです。
吸う息と共に、私の身の内に入って来られる聖霊は、私の血の流れと共に、私の全身を駆け巡る。新しい力がみなぎってくる。そういう深くて、新しい呼吸になる。
それ以来、週毎に、絶えず手放し、絶えず頂く。日毎に、瞬間ごとに、絶えず手放し、絶えず、頂く。
つまり、私たちの呼吸は、罪の告白と赦しと祝福を告げられる日曜毎のキリスト礼拝を重ねていく中で、すべての息もまた、祈りの呼吸になると思います。
これは、ここ数週間、この説教壇から語り続けていることと同じことです。
このような変化は、主イエスがお語りになった「わたしが父の内にあり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」という父なる神様と、主イエスと、そして私たちの間に、主イエスがお造りになる愛の一体、主が私の内におられ、また私が主の内にある、切り離しがたい相互マトリョーシカ状態の結果です。
また、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」との、主イエスの御言葉通りの実りのことです。
本日の週報の裏にも、夏期学校で本日、子どもたちに語る福音の言葉のご紹介として書きました。
最後のアダム、すなわち、キリストは、「命を与える霊」となられました。
命を与える霊は、私たちを求めて、近づいて来られるのです。
そして、私たちを見つけると、私たちの内から、不信仰を追い出し、神と切り離されて空っぽであった私の体に、流れ込んでこられ、私たちを聖霊の満ち満ちた霊の体、キリストの命がここから世に向かって流れ出る存在、土の器だけれども、それにも関わらず聖なる器とするのです。
取り立てて特別なところはなくても、一見すると、少しも以前の自分と変わったところはないようなのだけれども、けれども、よく見ると、よく付き合っていくと、その人は、どこもかしこも、どこか違った自分となり、それは、その人の内に住まいを定めた神の霊の働きです。
この神の霊の住まいとなり、礼拝によって養われる「どこかちがう」者とされる人々を指して、その者たちに語りかけて、キリストは、「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」その者たちであると、仰います。
今日の19節後半の主イエスの御言葉です。
あなたがたは世にありながら、世に属していない。わたしに属している。天の父に属している。
心と魂がこの体から抜け出て、天に結びつく者となったというのではありません。
体を持ってこの地上にあるのです。肉を取って、真の人と成り、この地上を歩まれたイエス・キリストのように、選び出された者たちも、この地上で、体を持って体ごと、主に属する者として歩み続けるのです。
体があるからこそ、目つきが変わります。声音が変わります。歩き方が変わります。呼吸が変わります。生き方が変わります。
キリストに選ばれ、キリストに結ばれた者は、この地上で、キリストに属する者として、見える生活を形作り続けます。
だからこそ、人は、その者たちを見て、「どこかちがう」と思うことができるのです。
「あの人はどこかちがう。どうやら、毎週、教会の礼拝に通っているらしい。聖書の神様を拝んでいる人らしい。」
この地上でこの体を持って神を礼拝し、そこで私たちの生活が、吹き込んでくるキリストの霊によって形作られて行くからこそ、教会とキリスト者の独自性が、見えるのです。
これが、神さまが地上に教会を建てられる意図でもあります。
2000年前のユダヤに一人の人としてお生まれになった、たった一人のキリストは、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目にお甦りになった後、そのご復活のお体を持って、この地上に留まり続けることをなさらず、体ごと、天に去って行かれました。
しかし、それは、この方に選ばれた教会をみなしごにするためではありませんでした。
別の助け主、キリストの霊である聖霊を送り、一体と言うべき関係に教会を入れるため、私たちにより近い存在となるためでした。
それゆえ、教会はキリストの体と呼ばれます。
体を持って天に昇られたキリストは、約束の霊を降し、選ばれた者たちを教会とし、その教会を、今、この地上における御自分の体とされたのです。
教会とは、触れることのできる体を持った、キリストの霊の宿った、触れることのできる、見えるキリストの体です。
この教会という体を通して、主イエス・キリストは、この地上で、今も体ごと歩まれておられるのです。
だから、私たちは、生けるキリストに出会えたし、また、これからも教会は生けるキリストと出会う場であり続けることができます。
教会の姿を見て、そこに生きる者たちの姿を見て、礼拝者たちの姿を見て、人は、「まことに神はあなたがたの内に生きておらます」(Ⅰコリ14:25)との礼拝と、信仰の告白に、導かれることが可能となるのです。
ところが、キリストの霊が吹き込まれて生きる教会、キリストの霊に生かされるどこか違った人は、ただ、愛され、好意を持たれるだけでなく、憎まれると主イエスは仰います。
「世はあなたがたを憎む」。
しかも、「理由もなく、憎む」。
なぜならば、世はわたしを憎んだからだと、主は仰います。
「僕は主人にまさりはしない」。
だから、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」と、主は仰います。
あなたがたは世に憎まれるのだ。
もしも、私たちが主イエスに属していないのならば、世には憎まれません。
もしも、私たちが天の父に属していないのならば、世には憎まれません。
けれども、私たちと主の結びつきが、「わたしが父の内にあり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」という切り離しがたい一体であるならば、教会が、キリストの体であるならば、世に憎まれます。
今、この時代の教会に生きる私たちは、あまりピンとくることではないかもしれません。
むしろ、教会は、好意を持たれていると、言える時代に生きています。
本当はそれこそが健全なことであると思います。
なぜならば、世の主イエスへの憎しみが、理由のない不当なものであるならば、主イエスの御身体である教会と、キリスト者への愛や好意は、理由のあるもの、正当なものであるはずだからです。
それは確かに正当なものであるはずです。
キリストによって注がれた神の愛によって、自分を愛し、隣人を愛し、また、神を愛するのが、教会であり、信仰者です。
私たちがどんなに足りない者であっても、どんなに罪深い者であっても、神は捨てず、命がけで愛し、生涯の友となり、味方となり、永遠に父となってくださる。
その愛を味わい、このキリストに事実、結ばれ、そのキリストと一体となって、福音を告げるのです。
たとえ、私たちの言葉は不器用で、言葉足らずで、欠けの多い者であっても、この土の器にぴったりと寄り添い、この足りない者を用いて、必ず、輝き出てくださるキリストなのです。
どんな状況の中にあっても、このキリストと一体であるゆえに、語る言葉を持たない時にも、そそくさと逃げ出さず、いささかの光を放ちながら、愛に燃えるまなざしを持ち続けながら、隣人の傍らに座れる福音の使者を、世が憎む理由はどこにもありません。
けれども、それにも関わらず、主イエスが理由なく、憎まれたように、この方の体として選ばれた者もまた、理由なく憎まれる可能性があるのです。
もしも、そのような目に合う時も、驚くことはないと主は仰るために、あらかじめ、今日の言葉をお語りになりました。
必ず、憎まれるというわけではありません。原文には18節の頭に、「もし」という仮定の言葉が付いています。憎まれる理由はないと主が仰る通りなのです。つまり、受け入れられ、好かれる理由が十分にあるということです。
けれども、主イエスが理由もなく憎まれ、十字架に付けられ殺されてしまったように、主に属する者もまた、もしも、仮に、世に憎まれることがあっても、驚くことはないということです。
いいえ、むしろ、理由がないにもかかわらず、憎まれてしまうことも、主の深い一体の内に結ばれた恵みとして受け止める道すら、ここに拓かれていると言って良いでしょう。
使徒言行録第5章を読みますと、捕えられ、鞭打たれ、イエスの名によって話してはならないと命じられた上で、釈放された使徒たちが、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜」んだという記録がある通りです。
主イエスの愛に生きながら、その愛を全身全霊で伝えながらも、本当は一緒に喜んでくれるはずの隣人から、理由もなしに侮辱されて、理由もなしに嘲られる時、主イエスとの一体はますます深いのです。
このように、理由もなしに、主に結ばれた者たちを憎む世とは、今まで、それとはなしに前提として語りましたように、迫害者のことを第一には指しているでしょう。
この福音書を最初に受け取った者たちは、最初同胞のユダヤ人から、後には、公の権力から、迫害されるようになっていったのです。
このような迫害は、2000年前だけの遠い世界の話ではなく、この金沢元町教会の草創期から、ほんの数十年前まで、この教会に結ばれた者たちの現実でもありました。
そのような迫害は、今も、小さな形で、私たちの生活の中に起こり得ますし、香港、中国では、今、この時の現実でもあります。
けれどもまた、キリストに結ばれた者たちを憎む世の力とは、ただ、迫害する人間に留まらないと思います。
そのような選ばれた者を憎む世とは、キリストの命の到来に逆らうありとあらゆる力と、広げて理解することが必要だと思います。
たとえば病気、たとえば災害、たとえば私たちがやがて死ななければならないこと、これらもまた、キリストの命に結ばれた者を憎み、迫害する世の力と捉えることができると思います。
これらの力は、私たち体を持って生きる人間にとっては避けがたい、肉の命を損なう力です。
しかし、これらは、世の憎しみの力とか、迫害者とは、無関係な、むしろ、神に近い自然的な力と見なされるかもしれません。
けれども、私たち人間とご復活のキリストの一体が、今日、聴きましたように、キリストの十字架に結びついていくような、体レベルの一体です。
キリストの体であるところの教会の一部分として組み込まれた体を持った私を住まいとされるキリストの霊は、十字架のみならず、お甦りの霊です。
キリストのおよみがえりの霊を入れた教会、そして私の体は、十字架前のキリストのお体ではなく、十字架を経て、死を滅ぼされたキリストのおよみがえりの体です。
そうであるならば、よみがえりのキリストの霊に満たされたこの体は、よみがえりの命に日々、接しているのです。
つまり、私たちにとって、神に愛され、自分を愛し、隣人を愛し、神を愛し、それゆえまた、隣人に愛されることが、本当は自然であるように、私たちの心も体も健やかであることは、とても自然なことであり、それは、素直に、神の恵みと喜んで受け止めることがゆるされるものです。
その逆に、このキリストの甦りの命を損なおうとする力は、不当で、理由のない世に属する世の力だと言うべきです。
それゆえ、損なう力を退けてくださるよう祈り、キリストのよみがえりの命に密着することを慕い求めることは、正当なこと、自然なこと、神ご自身の願いです。
しかし、ここでもまた、もし、世があなたがたを憎んだとしても、驚くには値しないという主の示唆は、そのまま、私たちに語られる言葉です。
体を持ってこの地上を歩まれた主イエスは、十字架を負われた主であられました。
「僕は主人にまさりはしない」と主は、体の痛み、体の病を負った私に語りかけ、世はわたしを憎んだから、あなたのことも憎むこともあると語り聞かせてくださいます。
これは、常識的な順番が逆転していますし、そもそも、常識を逸脱してしまっていると思いますが、
この体に痛みを負う時、病を負う時、それは、もはや、自然でも、必然的なものでもないけれど、主イエス・キリストとの一体の益々の深まりとして、経験されることを待っているのです。
使徒パウロが、第Ⅱコリント12章で肉体のとげを去らせてくださいとの神への執拗な祈りの中で、主から語られた、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との声を受け止め、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…わたしは弱いときにこそ強い…」と賛美したキリストの力の経験、新しい体験へと、至るのです。
主イエス・キリストは、今日の24節で、御自分がこの地上で誰も行ったことのない業を行ったと仰いました。
後にも先にも主イエス以外、誰も行ったことのない新しい業です。
けれども、その新しい業は終わっていません。主以外、誰も行ったことのない業を、主イエスは、続けられるのです。
それは何でしょうか?
それは、私たちのことです。私たちの身に起きていることです。私たちを通して、結び続けて行く主の業のことです。
神の愛のことです。すなわち、主と私たちの一体のことです。
世が憎んでも、もはや止められません。何ものにも止められません。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにます。/曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも/あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。(詩編139:8-9)
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(ヨハネ15:11)
祈ります。
コメント