週 報
聖 書 ヨハネによる福音書15章1節~8節
説教題 神と人との有機的一体
讃美歌 113,347,419,26
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」
主イエス・キリスト自らが、御自身と、天の父なる神をご紹介くださった言葉です。
しかも、改革者カルヴァンが、強調して語ったように、この神様を知ることは、ただ神を知るに留まらず、この私たち自身のことを知ることにここでも結びついています。
「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、御自分が誰で何者であるかをお語りになったお方は、続けて「あなたがたはその枝である。」とお語りになりました。
主イエス・キリストと私たちは、一つに結ばれています。
そして、天の父は、そのぶどうの木を手入れする農夫でいらっしゃいます。
有名な聖書の言葉です。教会に一度も足を踏み入れたことがなくても、キリスト教幼稚園や保育園、ミッションスクールに通ったことのある方ならば、必ず、聞いたことがある言葉でしょう。
たとえば、キリスト教主義の保育園や幼稚園にくと、ぶどうの木が描かれて、その幹から伸びる枝の一つ一つに、子供たちの名前が書いてある。写真が貼ってある。その先には、幼児たちが、クラフト紙を一所懸命に丸くくり抜き、色を塗った、ぶどうの実の工作が糊付けされている。
君たちはイエスさまに繋がっている一本一本の大切な枝なんだよ。この枝は、○○君、この枝は、○〇ちゃん。
温かく、心強い主の御言葉です。
天の父なる神様は、私たちで無関心ではありえないと信じることが許されています。
ぶどう農家が、自分の農園の中の、最上のぶどうの木に関心を寄せ、その世話を怠ることが決してあり得ないならば、主イエスに結ばれ、主イエスと一体とされている私たちは、この農夫であられる父なる神の世話を十分に受けられるのです。
そして、必ず実を結ぶ人生を送れるのです。
それゆえ、早い内に、今日の聖書箇所を読みながら私たちの内に沸き上がってくる疑問に答えておこうと思います。
2節には、この心強さに反するような裁きの言葉があります。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」
6節も同じような言葉です。
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」
これらの裁きの言葉だけを聴きますと、たとえ、私たちが、今、主イエス・キリストというぶどうの木に結ばれた枝であったとしても、あまり安心することはできないように思われます。
つながっていても、実を結ぶ生き方ができないならば、ただ、栄養を無駄に浪費するだけの枝であるならば、切り取られて捨てられてしまうのか?じゃあ、自分は、切り取られてしまう枝に違いない。
誠実な人であればあるほど、一度は、そう考えて不安になるに違いありません。
けれども、これは誤解した読み方だと思います。
なぜ、このような誤解が生じてしまうかと言えば、新共同訳の翻訳に問題があるからかもしれません。
2節の言葉をより直訳した翻訳はこうなります。
「わたしの内にあって実を結ばないすべての枝を父が刈り取る。そして実を結ぶすべての枝を父は刈り込む。」
つながるではなく、「内にある」というのが、原語です。このことを大事にしながら、読むと良いのです。
主イエス・キリストが、御自分と私たちを指さしながら、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と仰る時、ひょっとすると、今まで、イエス・キリストという太い幹にそれぞれの人間が接ぎ木された枝のようにつながっている姿を想像してきたかもしれません。
力強いキリストという命の幹があり、その幹に無数の枝が生えているのだけれども、ある枝は、太くて、時が来れば、たわわに実を付けるしっかりとした結びつきを持っている。
けれど、ある枝は、幹への結びつきが弱くて、十分に幹からの命を吸収することができないから、間引かれてしまう。
そういうイメージを持ってきたかもしれません。
けれども、主イエスと私たちの結びつきは、枝と幹が接している点や面にあるのではありません。
私たちと結びつくイエス・キリストは、主ご自身の言葉に従えば、「内にある」というような結びつき、枝である私たちの丸ごと全部をその内に取り込んでおられる結びつきなのです。
4節の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ということも、もしかしたら、繋がりが切れないように、必死になって、主イエスにしがみついている自分の姿を想像してしまうものであるかもしれませんが、より直訳風にすると、次のようになります。
「わたしのうちに止まれ。そしてわたしもあなたたちのうちに止まる。」
必死にしがみつくことによってかろうじて保たれているつながりではありません。
私たちは主イエスの内にすっぽりと入れられているのです。
また、先週の箇所が語っていたことに引き続き、今日の箇所においても、私たちが主の内にあるのみでなく、同時に、主イエス御自身もまた、私たちの内に、すっぽりと入っていらっしゃるという、切っても切り離せない相互マトリョーシカ状態にあるお互いなのです。
だから、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という主イエスの御言葉からは、どこからが幹で、どこからが枝であるかというような区別を付けることはできません。
ぶどうの木と、ぶどうの枝は一つのもの、主イエスのどの部分にもわたしの丸ごとの命が満ちており、私のどの部分にも主イエスの命丸ごとが満ちているのです。
このような主イエス・キリストと、私たちの一体は、将来のものではありません。
たとえ、そのことを初めて聞いた、知らなかったという者があったとしても、将来のことではなく、今、ある私たちの命の現実として、このお方は、今日、語りかけておられるのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝になるだろう」ではなく、「その枝である」と言い切られています。
たとえ、今日この時まで、この主イエスの言葉を聴いたことがないとしても、3節、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」のです。
「わたしにつながっていなさい」という4節のご命令を、初めて聞いた者も、後半で宣言される、「わたしもあなたがたにつながっている」という現実が、既に、今この時におけるその者と主イエスの現実となっているのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」とイエス・キリストは仰います。
私たちの方で、かろうじてつながっている、いや、切り離されていると思い込んでいたとしても、私がこの方の内にあり、この方が私の内にあるという切り離しがたい一体の現実は、揺らぎません。
もちろん、今日、私たちが聴いている主イエスの御言葉の中には、厳しい裁きの御言葉が響いております。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と仰るのです。
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。」と仰るのです。
極めつけに、「そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と、主イエスに結ばれていない者の結末をお語りになるのです。
私は、これらの御言葉を前に、額ずき、主よ、そのお言葉は真実でありますと、申し上げる以外の言葉を持ちません。
人間の分際である私たちの内の誰も、それ以外の言葉は持ち合わせてはいません。
神がお語りになるならば、どんなに私たちに都合が悪くとも、謹んで受け入れる以外はありません。それが、神が神であり、人が人であるということです。
御言葉通り、もしも、私たちがキリストから切り離された枝となるならば、それ以外の、将来はないのです。
けれども、次のように、問うこともまた、今日の週イエスの御言葉から促されるのです。
一体、私たちは主イエス・キリストから切り離された自分になることができるでしょうか?
自分が気付かず、知らぬ間に、ただ天の父の憐みにより、主イエスと、私たちは一体とされました。
私たちが気付かず、知らぬ間に、あの主イエス・キリストの天の父の御心への献身のゆえに、つまり、十字架による買戻しのゆえに、一体とされたのです。
これは、私たちが生まれるまだずっと前の出来事です。
キリストの十字架による贖罪、罪の贖いのことを英語で、Atonementと表現します。
アトーメントとは、アット・ワン・メントということ、ワンにすること、「一つの状態になること」、「一つの状態にすること」を意味します。
キリストの十字架が切り離されたものを一つにしたのです。
神と切り離されていた人間を、天の父と御子イエス・キリストの内にある深い結びつきの中に、あなたがわたしの内にあり、わたしがあなたの内にあるという、深い一体の内に、私たちを入れてくださったのです。
誰がそれを切り離すことができるのか?
少なくとも、私たちにはできないと私には思えます。
聖書が語る私たち人間の罪とは、そもそも意識しようが、意識しまいが、神から全力で離れて行こうとする私たち人間の罪の姿のことです。
その人間の神から全力で切り離されて行こうとする最大の罪の努力こそ、それと気付かぬことでありましたが、神の独り子キリストを十字架に付けることでした。
しかし、私たち人間が神から最も遠ざかったその御子の十字架で起こったことは、アトーメント、神が御自身と私たちを切り離しがたく結びつける、神の一方的な恵みによる神と人間の仲直りの出来事であったのです。
イエス・キリストがその十字架において、全力で遠ざかる人間を、人間の罪よりも強い愛の力によって、全力で連れ戻したのです。
その結びつきの強さを語るために、その執拗な愛に目を覚まさせるためにこそ、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と、主はお語りになったのです。
だから、主に繋がっていない者は、取り除かれ、捨てられ、焼かれるという極めて厳しい6節の裁きの御言葉も、このキリストの福音から聴き直すならば、まさに、直前の主の御言葉、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」という、今、私たち教会がしみじみと実感し、喜んで告白させて頂く、自分を小さくし、主を大きくする、賛美の言葉のバリエーションでしかありません。
主イエスよ、その通りです。もしも、あなたが、来てくださらなければ、もしも、あなたが私たちに代わって、十字架にかかってくださらなければ、罪人である私たちを連れ戻し、結び付けてくださるのでなければ、私たちは、枯れ果て、薪とされる死んだ者に過ぎません。
しかし、あなたは、私たちと一つとなってくださいました。
2節の裁きの言葉も同様です。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」
これは、不可能な可能性です。
もしも、キリストにつながっていながら、実を結ばないならば、当然、その枝は切り取られるのです。
しかし、キリストが結んでくださるなら、私たちがそのお方の内にあり、そのお方が私たちの内におられる、一体の内にあるので、必ず実を結ぶのです。
5節後半の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」という主の御言葉があります。
一見、私たち人間がまず主イエスにつながることが、主が私たちにつながってくださり、実を結んでくださる条件として語られているようですが、聖書学者は、これは条件などではないと申します。
そうではなく、ここに語られているのは、「主に結ばれたあなたがたは、多くの実を結ぶ」という確約であり、断定であると言います。
ここには確かに勧めがあり、命令があります。
「わたしの内に止まりなさい。実を結びなさい。」
このお方は私たち人間を一人前に扱い、顔を持った対話相手として見做してくださるゆえに、このように勧め、お命じになります。
けれども、これは条件ではないし、聴く者を一人ぼっちに突き放す律法ではありません。
先週の水曜夜のオンライン祈祷会から、旧約エレミヤ書を読み始めました。
第1章を読みました。
私はその中の17節の言葉に目が釘付けになりました。
主が若い預言者エレミヤに命じられた御言葉です。
「あなたは腰に帯を締め/立って、彼らに語れ/わたしが命じることをすべて。」
特にここからです。
「彼らの前におののくな/わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように。」
主なる神が、命じられます。
エレミヤよ、わたしがあなたに授ける言葉を余すところなく人々に告げなさい。人間を恐れないで、全て語りなさい。
「おののくな!!」主なる神さまは、エレミヤにそのようにお命じになりながら、しかし、それで終わらず、転じて、独り言をつぶやくようにその命令に続けて語られるのです。
「わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように」。
「おののくな」とエレミヤに命じられた神さまが、直ぐに、自分自身に向かって命じられるのです。
「わたし自身があなたを/彼らの前でおののかせることがないように」。
これが、聖書の語るすべての命令の根底にあるものです。
「おののくな」とお命じになる神様は、「わたしがあなたをおののかせることがないようにしなければならない」と、責任を一身に引き受けられるのです。
「止まりなさい」「実を結びなさい」とお命じになる方は、「あなたの内に止まる」、「あなたの内に実を結ばせる」と、御自分を強いるお方なのです。
そして、それだから、人は、この方の内に止まり、実を結ぶことができます。
今から何十年も前に、ナチス政権に抵抗し、扱いに困ったナチスに危険な最前線に兵士として送り込まれ、そこで、捕虜となったシェーンへルという牧師がいました。
捕虜となって収容所に入れられてもこの人は、よく耐えました。
ただ生き抜いただけでなく、そこに神学校を作り、収容所内にあって希望者を募り、何人もの若者に神学教育を施したと言います。
このシェーンへル牧師が、釈放され、故郷へ帰る途上、自分の属する教会の教団本部に立ち寄って、指導者である監督にそのことを誇らしげに紹介したそうです。
すると、その話を静かに聴いていた監督が、最後に口を開いて一言こう言ったそうです。
「若い兄弟よ、キリスト者に成功はありません。キリスト者は実を結ばせていただくだけです。」
「止まりなさい」「実を結びなさい」「あなたの使命を果たしなさい」とお命じになる方ご自身が、この自分の身の内にあって、働いてくださるから、実を結ぶさせて頂くのです。
私たちが胸を張って誇ることのできる成功などはありません。
しかし、また、失敗もありません。
私たちが心に思い描く理想的な歩み、成りたい自分、作りたい生活を成功させることができないとしても、実を結んでいないとは言えないのです。
成功、失敗に一喜一憂することなく、自分の人生丸ごとを、自分の存在丸ごとを、十字架のキリストの命の実りと、受け止めることが許されているのです。
わたしがキリストの内にあり、キリストがわたしの内にある。この一つとされたぶどうの木を天の父は、丹精込めて手入れなさいます。
自分の人生の成功、不成功を思い患う心から解き放たれて、この方の願われる良き実を結びます。
それは豊かな実だと言われています。
この身もこの心もキリストと一つとされて生きる者の祈りは必ず聞かれます。
いいえ、これまでも、これからも、神の愛の真実、神の愛の誠実だけが、この私の身に豊かに実を結んでいくことがわかるようになります。
これまでも、これからも、キリストの命が充満し、キリストの命が結晶化していくぶどうの枝たるこの身、この存在、この命なのです。
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