礼拝

6月18日主日礼拝

週報

多く愛された者は、多く愛するようになります。

多く赦された者は、それだけ多く赦す者となります。

これは、イエス・キリストがある時、私たちに教えて下さった愛の真理を語る言葉です。

人を愛するようになるためには、まず、愛されなければなりません。

愛された者だけが、愛することができるようになります。

そして、またその本物の愛は、自分を越え出て行くことができる愛です。

自分にははっきりとした願望と意思があるけれども、その自分の思いよりも、愛する者の思いに耳を傾け、その思いに寄り添います。自分を越え出ます。それが本物の愛です。

それゆえ、主イエス・キリストは、仰います。

 

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」

 

わたしを愛するならば、自分の思いを越え出て、わたしの思いに生きる。

この言葉の中には、今、申し上げたことが語られています。

しかし、何よりも嬉しいのは、イエス・キリストというお方は、ただ、愛の真理を語る方ではないということです。

ここには、主イエス・キリストご自身の、愛の迸りが滔々と流れだしています。

わたしはあなたがたを愛している。わたしはあなたがたを愛し抜く、あなたがたの主である。

それゆえ、あなたがたはわたしを愛する。わたしがあなたがたを愛したから。それゆえ、あなたがたはわたしの掟を守る。わたしがあなたがたを愛したから。

キリストを愛する者は、キリストに愛されていることを必ず自覚します。

自分はキリストを愛しているのに、キリストは自分を愛してくれないということはあり得ません。

自分を越え出させる、我を忘れさせてしまうような愛で、愛されているのです。

あなたを愛するキリストの愛は、あなたが持つあなた自身への不自由なこだわりから、あなたを開放してくださるのです。

そして、愛するキリストの思いに生きるようにしてくださいます。

自分ではなく、キリストの思いに生きねばならないのではなくて、その方の喜びに生きたくなります。

それほど多く愛されるのです。

このお方の愛、このお方の大きな赦しの中で、肩の力を抜き、ほっと息を付いて、ああ、私は神さまに愛されているんだ。私がどんな者であっても、神さまは私を捨てないんだということを、キリストの内に実感した者は、キリストのために自然と生きたくなるのです。

これを使命に基づいた歩み、召命された者の歩み、献身の歩みと言います。

 

北陸地方唯一のミッションスクールである北陸学院には、Realize Your Mission.という、スクールモットーがあります。

このスクールモットーがペイントされたワインレッドのバスが、町中を走っているので、この言葉を目にしたことのある方も多いと思います。

本当にキリスト教学校らしい、スクールモットーだと思います。

この言葉が、表現しようとしているのは、キリストへの愛に突き動かされる者たちの姿であると私はには思われます。

つまり、Rearize Your Missionと、児童、生徒、学生たちに語る学校とは、「あなたは神に愛されている。あなたはどんな者であっても、本当にキリストに愛されている者だ」と、本気で信じ、語っている学校だと言えます。

なりたい自分になることを手助けするのではありません。

多く愛し、多く赦してくださるキリストのまなざしの中にある自分であることに気付いてもらいたいのです。

そして、自分の思いを実現する自己実現、selfrealizetoinではなく、神に愛される者として、神の思いを実現する召命、献身のRealizetionに共に生きようと励ましているのです。

キリスト教学校がそうであるならば、教会とはますますそのような人間の群れであります。

教会は自己実現の場ではなく、神の召しに応える、献身者の群れです。

小難しいことではありません。私たちが神に愛され、神を愛する者とされる時、私たちは、キリストの思いに心を注ぎます。

愛するお方が心にかけていることを、この私の心としたいのです。

そのお方が、わたしには一つの掟があると仰います。

15節です。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」

この「わたしの掟」という表現は、私たちが、このお方に向かって、「主よ、私は自分の為ではなく、あなたの為に生きたいのです」と申し上げる時に、この方が私たちにお望みになり、お与えくださる一つの生き方だと、まずは、聴くことができるでしょう。

「それなら、君にはこんな風に生きてもらいたい」と、キリストがこの私に与えてくださる、私だけのキリストからのオーダーメイドの使命のことと理解することができるでしょう。

天地の造り主であられ、一つとして同じ命をお造りにならない神は、他の誰とも変わることのできない私だけの、私がこの世界に生まれた唯一無二の使命を与えてくださるに違いありません。

けれども、この「わたしの掟」という言葉は、キリストが、私たち一人一人に与えてくださるオーダーメイドの使命を含むに違いありませんが、その根幹は、キリストご自身の掟、キリストが、御自分の心にいつもかけていらっしゃる、御自分への掟と理解する必要があるだろうと思います。

神が創ってくださる個性豊かな人間の、個性豊かな召しの形がありますが、その誰もが、そのどれもが、それぞれの在り方、それぞれの場所から、一つの方向、一点の方向を目指します。

それは、キリストご自身がご自分のものとして持っていらっしゃる掟です。

あれもこれもではありません。それは、一途な思いです。

キリストご自身が父と心を一つにしながら、これこそがわたし自身の使命、わたし自身の掟だとその使命に生きてくださったのです。

それは、ヨハネによる福音書の全篇の至る所に輝いていますが、たとえば、13:1「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」という、その愛のことです。

イエス・キリストは、天の父とその心を一つとされながら、私たちへの愛をご自分の掟とされました。

キリストが「わたしの掟」とお語りになり、私と一緒にこの掟、この使命に生きてほしいと、私たちに願っていらっしゃるのは、根本的には、たった一つのことです。一途な思いです。

わたしと父が愛する者を、あなたたちにも愛してほしい。重んじてほしい。大切にしてほしい。

身を屈めて互いの汚れた足を洗い合うような、互いへの愛に生きてほしい。

キリストを愛する者に、キリストがお与えになる掟、ミッション、使命、生き方とは、神が私たちにお与えくださる豊かな個性、豊かな状況の中にあって、一つのことです。

私がどこで何をしていても、どのような状況に置かれていても、学生であっても、浪人生であっても、職業人であっても、休職中でも、リタイアした後であっても、今、それぞれに神がお与えになっている、この体が置かれている現実のその場所において、力の限り、キリストが愛する者を愛する献身に生きることです。

多く愛された者は多く愛すのです。キリストを愛するならば、自分を越え出て、キリストの思いに生きたいと願うのです。

これが15節の言葉が意味することです。

 

しかし、これが、難しい。

もしも、キリストが私たちの目に見える形でここにおいでになり、私たちと共にいて、それどころか私たちに先立って、愛し始めてくださるならば、私たちも本当に分かりやすく後から追うように、愛に生きられるのにと思うかもしれません。私はそう思います。

不思議にも目には見えないキリストを愛する愛を与えられ、この方の喜びに生きたいという自然な願いが与えられ、そして、キリストの愛の掟にぶつかるとき、正直なことを言えば、私たちは戸惑わざるを得ません。

 

だって、キリストは今は見えないのです。だから、私は一人で、大きな愛の課題の前に、立たされているように感じてしまうこともあるのです。

途方もなく大きな愛の課題です。なぜならば、キリストがご自分の掟とされた愛は、裏切り者の罪人を愛する愛だからです。

そのような者の前にその身を屈めて、汗水たらして、その足の汚れを拭う愛だからです。

しかし、途方もないことだけれども、どうしても無視することができません。人間には無理だと、諦めてしまうこともできません。

なぜならば、他の誰でもないこの自分が、このような愛で、キリストに愛された当の本人だからです。

私がどんな者であっても、このキリストの愛に徹底的に愛され、決して捨てられることのない神の宝とされた、神に愛されている自分であることを知ったから、キリストのために生きないなどということは、私たちにはできないのです。

この罪人を愛してくださった愛する主のために生きたい。けれども、貧しい人間の分際である私には、どうしても、こんな愛には生きられないという苦しい板挟みが起こります。

これは、使徒パウロが、ロマ書第7章で語った有名な告白、「わたしは、自分がしていることが分かりません。自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と呻きながら語った言葉と、同じ種類のジレンマであると思います。

主イエスの大きな大きな愛を頂いてなお、そして、このお方にお従いすることをごく自然なこと、自分自身の心からの願いとさせて頂いてなお、実際に愛に生きることの難しさに、度々、足を取られ、しゃがみこんでしまうような私たち、これは、2000年間のキリスト教会のジレンマであり続けたと私は思います。

ところが、第7章から、第8章に続くパウロの言葉の展開と重なりますが、今日のたいへん短い主イエスの言葉においては、ここで起こらざるを得ない葛藤、激しいジレンマは、その場所を持たないのです。

 

主イエスは、去って行かれる。目に見える形では、私たちと共におられなくなる。やがて、再び、来てくださいますが、しばらくの間、この目で見ることはできなくなる。

けれどもそれだけじゃない。私たちをみなしごにはしておかないと約束されるこのお方は、将来の約束として、共におられることを約束されただけではありません。

私たちは、今ここで、今既に、一人ぼっちのようでいて、一人ぼっちじゃありません。

16節、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

この目で見、この手で、弟子たちが触れることができた心強い、慰め深い、安心の塊のような主イエスとは別の弁護者、けれども、主イエスと同じく弁護者が送られる。

 

主イエスと同じほど慰め深く、主イエスと同じほど力強く、主イエスと同じように、私たちの味方、私たちの慰め主、私たちの弁護者となってくださるお方、17節、真理の霊、すなわち、真実の霊、誠実な霊、三位一体の神の霊、聖霊が、主イエスの願いにより、天の父より、私たちの元に送られるのです。

 

わたしのことが見えなくなっても大丈夫。安心しなさい。別の弁護者を送る。あなたがたをひとりぼっちにはしない。

別の弁護者、しかし、主イエスの願いよって、天の父が送ってくださる弁護者です。

弁護者は弁護してくれるのです。主イエスのように私たちの失敗を、弁護してくれるのです。

より正確には、主イエスの十字架で成し遂げてくださった救いを、いつもいつも、今ここにおける私の現実としてくださるのです。

 

失敗しても、失敗しても、いいえ、朝ごとに、夜毎に、主の十字架によって、罪赦された者として、もう一度、やり直させてくださるのです。新しく生き直させてくださるのです。

この弁護者である聖霊が見えないのは、霊、風のような存在だからだということも、もちろんできます。

しかし、私は、それに留まらず、このお方が見えないのは、次のように理解することも許されるだろうと思っています。

 

17節、この弁護者である神の霊が、私たちと共にあるその在り方は、体を持ってこの地上を歩まれた主イエスとは違い、「あなたがたの内にいる」という在り方なのです。

私たちの傍らで、ぴったりと寄り添ってくださるどころか、私たちの内に入り込み、そこに住まいを得るという仕方で、この弁護者は私たちと共におられるのです。

どうして、この弁護者は見えないのか?風のように透明な霊だからだろうか?

いいえ、それだけには留まりません。私たちに近いからです。近過ぎるからです。

私たちが私たち自身の顔を見ることができないというのと似た意味において、余りにも近いから見ることができない。そのように理解することも許されると思います。

そのとき、この目で見、この手で触れた主イエスが去り、代わりに遣わされた私たちの弁護者を見ることができないということは、弁護者の遠さよりも、極めつけの近さ、神の不在ではなく、絶対に逃れることのできない臨在を、意味することになります。

それゆえ、主イエス御自身、先週お読みした14:12において、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とさえ仰ったのです。

 

神の霊、主イエス・キリストの霊は、ただ12人の限られた弟子たちとだけ共におられるのではありません。

どこにでも吹く風のように自由な霊は、全てのキリスト者と共にいることができるのです。

風のように自由な霊は、私たちがこのお方を探して、このお方の元に行こうとしなくても、私が呼吸をする時、自然とその風が、この体の中に吹き入れられるように、私たちの内に住まいを見つけてしまわれるのです。

17節後半の「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」とのお言葉通り、この霊は、この世の外から、すなわち、神の元から送られる霊です。

この世の理の外から来る霊です。

この世の論理、この世の道理、この世の常識では、見ることも知ることも、受け入れることもできない外から来る霊です。

しかし、たとえ、この世が、見ることも、理解することも、受け入れることができなかったとしても、この霊はこの世界の中に入って来てしまうのです。

事実、私たちの内に入って来てしまったのです。私たちもまた、この世にある者として、この霊を見ることも知ることも、受け入れることもできなかった者でした。

それにもかかわらず、不思議な神の選び、恵み、憐みにより、この霊に捕えられ、この霊の住まいとされ、神を信じ、キリストを愛する者とされているのです。

キリストが私たちのために天の父にお願いし、遣わされる弁護者は、遣わされて以来、この地上を住まいとされておられます。この私たちを住まいとされておられます。

実感できないでしょうか?実感は関係ありません。

なぜならば、「わたしは、自分がしていることが分かりません。自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と、自分の愛の貧しさを嘆き、なお、自分は古いままではないかと呻いたパウロが続けて申しました。

 

「同様に、”霊”も弱い私達を助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです。」(ローマ8:26)

 

自分の愛の貧しさを嘆く者のその呻きは、既に、神の霊の執り成しの内にあるのです。

もしも、皆さんの内に、このような呻きがあるならば、それは皆さんの内に住まいを定めた神の霊の呻きです。

ただただこの弁護者のゆえに、その呻きこそ、実は、あなたを愛の献身に生かす、はじまりの呼吸、自由な呼吸なのです。

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