週 報
聖 書 ヨハネによる福音書13章36節~14章14節
説教題 あなたの居場所を作る方
讃美歌 149,404,140,25
今日は、たいへん内容の濃い個所を一気に読んで頂きました。
三回にも四回にも分けて丁寧に聴くことができる箇所ですが、一度に読みました。
そうしてこそ、浮かび上がる主イエスのはっきりとした思いがあるだろうと思ってのことです。
そこで浮かび上がってくる主イエスの心というのは、一言で言ってしまえば、14:1の御言葉、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」という御言葉に集約されるものです。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。
心を騒がせないで良いんだ。わたしの父を信じなさい。また、わたしに頼りなさい。
そう言い換えることが許されると思います。
「心を騒がせるな」というのは、命令形で語られている断固とした言葉遣いではありますが、命令などではありません。
つまり、ここでは私たち人間が身に着けるべき、倫理道徳が語られているわけではありません。
「心を騒がせるな」と、顔と顔とを合わせて主イエス・キリストがその声を耳にする者にお語りになっているということが、特別に大切なことです。
ギリシアのストア派の哲学者たちが語ったように、人間が良く生きる上で、あるいはよく死ぬ上で、大切なことは、心を騒がせないことだ、不動の心を養うことこそが、幸福の道だというのではありません。
人生の四苦八苦を克服するために、人間は、心配を捨て去らなければならない。執着を捨て去らなければならないという真理を語るのではないのです。
「心を騒がせるな」という言葉は、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と続く言葉に、規定されています。
心を騒がせるな。天の父がおられるじゃないか。わたしがあなたと共にいるではないか。顔と顔と合わせて語られ、この耳に響いて来る主イエスの声です。
暗闇の中で「怖い怖い」と脅える子どもに、親がその手をぎゅーと握り、「怖くないよ。お父さんが一緒にいるよ。お母さんが手を握っているよ。」、そういう種類の声です。
だからある聖書学者は言います。これは命令の言葉じゃない。道徳の言葉じゃない。慰めの言葉だ。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。
主イエス・キリストと父なる神様が、私たちの守護者として、私たちの弁護者として、御自分を、差し出していらっしゃいます。
「怖くないよ。一緒にいるよ。」と、慰める声です。
今日の箇所には一言も「慰め」という言葉は出てこないけれど、聖書が、度々、語る「慰め」、ギリシア語ではパラクレーシスと呼ばれるものと同じものがここには語られていると、聖書学者は言います。
この「慰め」という言葉は聖書の中で、とても大切な言葉です。
私たち日本人は、慰めというと、何だか弱々しい、「慰め程度」なんて、軽い言葉として使うことさえありますが、聖書の元の言葉であるパラクレーシスには、「傍らに呼ぶ」、あるいは「傍らで語る」というニュアンスがあります。
主イエス・キリストと父なる神様が、私たちをその傍らに呼び寄せて、匿ってくださる。
それどころか、このお方が、あなたの隣にやって来られ、あなたの隣で立ち上がって、あなたの代わりに、あなたの弁護をしてくださる。
そういう強力なイメージを与える言葉です。
このような慰め、私の弁護者の約束は、「心を騒がせるな。」と、第一声で命じられてはいますが、心のざわめきを前提とするものです。
私たちの心は騒ぐのです。騒がないはずはありません。
私たちは人間であって、神ではないからです。
いいえ、子なる神であられる主イエス・キリストご自身が、どんなに心をお騒がせになることがあったか?
愛する者の死を前に、心騒がせ、また、涙を流すお方であったか、この福音書を書いた人は良ーく知っていました。
心は騒ぐのです。信仰があっても騒ぐのです。神は人間をそのようなものとしてお造りになりました。心あるものとしてお造りになられました。それは、神の善き創造に属する事柄であると私は信じます。
心は騒ぐのです。
しかし、その心騒ぐ私たちのために、私たちの傍らに、主は来てくださるのです。この心に向かって、語りかけてくださるのです。
「心を騒がせるな。神を信じ、また、わたしを信じなさい。」
「怖くないよ。一緒にいるよ。」
この主イエスの言葉を最初に語りかけて頂いたのは、文脈を見るならば、シモン・ペトロという12弟子の一人であったことが分かります。
心を騒がせていました。不安になっていました。だから、主イエスが、声をかけてくださいました。
なぜ、この人は、心を騒がせていたのか?
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない。」と、主イエスに言われたからです。二度も言われました。
この言葉に、ペトロは反論しました。
「いいえ、主よ。わたしはどこまでもあなたについて行きます。あなたのためなら命を捨てます。殉教を覚悟しているのです。」
これはこの時のペトロの本音であったろうと思います。
けれども、反論するペトロに主イエスは断固としてお答えになりました。
「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
この主イエスのお言葉のゆえに、彼の心は騒いでいました。
その心のざわめきは、二つの気持ちであったろうと、想像いたします。
一つは、自分の熱意を否定されたことによるざわめきです。自分の覚悟、自分の愛、自分の主イエスへの情熱を、疑われたと思い、心が騒いだのだと想像されます。
もう一つは、置いてけぼりにされるような、不安な気持ちがあったのではないかと、想像いたします。
「私が行くところにあなたはついて来ることができない。」
主イエスに置いてかれてしまう。飼い主のいない羊のような、家族の間にいても、友人たちの間にいても、本当には分かり合えない、本当は一人ぼっちの自分であることが露わになってしまう。そういう心のざわめきであったと、想像することも、許されると思います。
一つの見方からするならば、シモン・ペトロの心のざわめきは、心のざわめき、不安、悪い予感に終わらずに、やがて、現実のものとなってしまいます。
多くの方がご存じのように、この後、主イエスが捕らえられ、尋問を受け、十字架の死へと突き進んで行かれる途中で、ペトロは挫折するのです。
共観福音書の中のよく知られた記述に従えば、「あなたのためなら命を捨てます」と熱く語ったペトロはその数時間後に、主イエスを裁くための裁判の野次馬に、「あなたもあの男の仲間だ」と指摘されると、主イエスを呪いさえしながら、自分が主の弟子であることを、鶏が時の声を上げる前に、三度、否定したのです。
それゆえに、主イエスの右隣、左隣の十字架にペトロがつくことはありませんでした。
彼は、主イエスの行く所に、事実、ついて行くことができませんでした。
それは、一つの見方からすれば、歴史的事実としてのペトロの失敗です。
けれどもまた、このようなペトロの人間的弱さ、ふがいなさ、主イエスを裏切り、最後まで主の十字架にお付き合いすることができなかったペトロの失敗の歴史的事実にも関わらず、「あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」との、36節後半の主イエスのお言葉もまた、ペトロの現実となりました。
なぜならば、14:2,3「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる。」ということもまた、現実となったからです。
しかも、この現実は、ペトロの失敗と並び立つ現実、コインの裏表のような対等な現実ではなく、主イエスに従いきれない、主イエスのおいでになるところに、ついていくことができないというペトロの弱さを飲み込み、凌駕し、支配する現実です。
「心を騒がせるな。神を信じ、また、わたしを信じなさい。」
「恐れるな。わたしがあなたとと共にいる。」
主イエスが、「今、あなたはわたしについてくることができない」と仰った言葉は、今日の箇所以降の箇所で、複数回に渡って、「しばらくすると、わたしを見なくなる」という表現で繰り返されます。
主イエスのお進みになるところで、私たちが決して踏み込めない領域がある。従いきれない地点があるのです。
そこには誰も着いていくことが誰にもできず、主はお一人で赴かなければなりません。
それは十字架です。神の呪いの死としての十字架です。使徒信条が「主は十字架にかかり、死にて葬られ、陰府に降り」と告白する、地獄としての十字架のことです。
ペトロがついていくことができない、私たちが見ることができないのは、この主の十字架であり、神の呪いです。
なぜ、ついて行くことができないかと言えば、もちろん、私たちが弱くて従いきれない者だからです。心揺らぐ者だからです。しかし、同時に、そのような弱い私たちが本当は引き受けるべき神の裁きを、主イエスが、私たちに代わって、一人で背負われようとされるためです。ただお一人で、味わい尽くしてしまおうとされるからです。
「あなたは、わたしについて来ることはできない。」とは、主イエスに置いて行かれて、一人ぼっちになってしまうことではないのです。
ペトロと変わらない、ペトロよりもずっと信仰の弱い、私の罪の弱さのゆえに、主と共に生きることに、やがて、挫折してしまう他ないということではありません。
「あなたは、わたしについて来ることはできない。」「しばらくすると、あなたはわたしを見なくなる」とは、わたしイエスが、あなたの全ての呪いを十字架で引き受けるから、あなたが、それを味わったり見ることはない。私がそれを全部、背負い、味わい尽くすということなのです。
だから、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない。」、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とはっきりと主から言われても、心を騒がさないで良いのです。
いいえ、いつでも、弱い私たちの心は騒ぎますが、その私たちのために、主が共にいて、手を握っていてくださいます。
主イエスが、私たちの誰一人ついて行くことのできない十字架の裁きに赴かれるのは、私たちを取り残すためではなく、実に、私たちが自らの罪の弱さの内に、滅ぼされず、失われないため、主のものとなるためです。
2節、3節にこうある通りです。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
主イエスがいつも私たちと共におられるために、主は一人で、行かれるのです。
この2節、3節の言葉ですが、私は今日の準備をしながら、はじめて知ったことがあります。
私はこの言葉を、将来の約束として理解していた節があります。
これは、主イエスが再び来られる再臨の日に、私たちが天に迎え入れられ、その天国には、私たちの住まいが用意されている。
そういうイメージを語っている言葉だろうと、何となく理解していました。
しかし、そうではないようです。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」とは、単に天国に用意された私たちの居場所というのではなくて、この地上にも、私たちが主と共に住まう場所、主と共にある場所がたくさんあるということだと読み解く、学者の言葉に出会いました。
なるほど、これはたいへんヨハネらしい理解の仕方だと思いました。
永遠の命とは、死後、無限に延長される命というよりも、今、ここで、天の父と御子キリストとの、深い深い、血の通った、お付き合いを始めることだと理解するヨハネらしいことです。
同じように、今、ここが、主イエスと私が共に生きる、私の居場所になるのです。
どこにあっても、身の置きどころのない場所にあっても、私と共に主がいてくださる当のその場所となるのです。
たとえば、詩篇第23篇が、「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」と歌った、敵の前での祝宴が、私たちの経験となるのです。
「心を騒がせるな。神を信じ、また、わたしを信じなさい。」
「恐れるな。わたしがあなたとと共にいる。あなたを苦しめる者を前にしても、そこは、わたしがあなたと共にいることが、はっきりとわかる喜びのその場所、あなたを苦しめる者を尻目に、祝いの席となる。わたしの父の家には住まいがたくさんある。」
主イエスお一人だけが、歩み抜いてくださる十字架と陰府への道を通して、6節、主イエスが私たちがしっかりとこの足を踏みしめ、一歩一歩、歩んで行ける道となり、真理となり、命となってくださいました。
その先は、闇ではなく、天の父のもとです。
ペトロが心を騒がせても、トマスがわからない、わからないと騒いでも、フィリポが、不満だ、不満だと言い続けても、主と共にある道、主、ご自身が、どんな悪路も、私たちの道となり、命となり、真実となってくださる私たちの行き着く先は、天の父のもとです。それ以外にはありません。
主は、その言葉によって、その業によって、この十字架によって打ち立てた事実を、あなた方に示し続ける、この現実が、いよいよあなた方の、ただ一つの現実となっていくと、お語りになりました。
主イエスの言葉は、この世界を造り保たれる神様の言葉そのものであります。私たちが信じようが、信じまいが、それは客観的な真実です。しかしまた、私たちが新しく神のまなざしで世界を見直し、元気づけられることを、神は願ってくださいます。
悪い夢から目を覚まし、命の道を歩んでいると、知って欲しい。畏れ多い言い方になりますが、イエス様は、神様は、私たちを喜ばせたいのです。幸せでいて欲しいのです。
だから、このような言葉をもって、今日、私たちを送り出そうとされるのです。
13節以下です。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
祈ります。
コメント