週 報
聖 書 ヨハネによる福音書13章31節~35節
説教題 主の弟子として
讃美歌 149,341,419,25
私がこの教会に遣わされてからの半分である3年間続いたコロナ禍での短縮礼拝をようやく終え、今日から新しい式順での礼拝を始めます。既に、数か月前にお知らせし、教会総会、週報の牧師室だよりで書いてきましたように、ただコロナ前の礼拝式順に戻るのではなく、昨年の10月に出版された連合長老会の式文に記載された主の日の礼拝式順を元にした新鮮な形での礼拝を今日から始めます。
しばらくの間は慣れないところもあるでしょうが、週報の式順をご覧頂くとご確認いただけますように、一時間の礼拝の流れの各項目において、自分たちが今何をしているのか、意識しながら、礼拝を捧げられるようになるのではないかと期待しています。
たとえば、小さなことですが、前奏と後奏を、礼拝式順のメインラインとは、少し分けた形で置かれていることに、お気づきだと思います。既に、牧師室だよりでお伝えしたように、これは、礼拝の始まりと終わりを仕切る神殿の垂れ幕のようなものとして、礼拝式順そのものの中には、数えないことにいたしました。ほんの小さな変更ですが、これによって、私たちが毎週捧げる神礼拝というものが一体どういうものであるのか、より明確になったと思います。
礼拝は神の招きの言葉によって始められ、また、神の祝福の言葉によって終わるのです。
神の招きによって日常の中から集められ、神の祝福によって、日常へと遣わされていくのです。
この礼拝の主人、ホストは、神ご自身であられます。
礼拝のことを英語では、サービスと言います。サーブする、奉仕する、仕える場であり、時間です。
誰が誰に仕え、奉仕するのか。
もちろん、私たちが神に仕え、神に賛美と祈りの奉仕を捧げます。
けれども、英語でも、ドイツ語でも、礼拝を意味するサービス・オブ・ゴッド、ゴッテス・ディーンストは、神への奉仕であると共に、とても素直に理解すれば、「神の奉仕」、神ご自身による私たちへの奉仕と、理解することも可能であり、事実、そのように理解されてきました。
今日から用いられる新しい礼拝式順、ここにも同じ理解が込められています。神がこの祝いの場へと私たちを招いてくださり、また、神が私たちを送り出してくださるのです。そして、その礼拝の真ん中にあるものは、神の言葉、イエス・キリストの福音を語る言葉、イエス・キリストをご紹介する言葉、今ここに集められたあなたのために、私のために、命を注ぎ尽くしてくださった十字架とご復活の主イエス・キリストを指し示す言葉と、そのお方との出会いです。
神が仕えてくださるのです。神がホストとなり、この場とこの時間を整えてくださるのです。
そして、この礼拝が、神の国の宴の先取りであり、始まりであるということを大切にするならば、そのメインディッシュは、神が私たちにお与えくださったイエス・キリストご自身であります。
今日お読みした聖書の言葉は、先週からの続きであり、それは、最後の晩餐の場面のことであります。主イエスが弟子たちの足を洗ってくださり、主イエスがパンを取り分けてくださっているのです。まさに、私たちの主の日の礼拝の先取りであり、モデルがここにあります。主イエスを中心に取り囲むその宴の食卓で、今日の箇所、主イエス・キリストはこのように仰いました。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
この言葉を聴く者の心にハッと止まるのは、この言葉が、完了形で語られていることではないでしょうか?
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
常識的に言うならば、礼拝とは、私たちの讃美と祈りと、服従によって、神に栄光を帰すことです。私たちの礼拝行為によって神様を大きくすること、神様を輝かせること、そうして、神さまに喜んでいただくことです。
タイのあるお寺では、参拝する者が、大仏に、金箔をお貼りするそうです。心を込めて丁寧に、祈りを込めて、金箔をお貼りするのだそうです。その像は、信者の多くの祈り、多くの捧げものによって、黄金に輝く姿に飾られています。
私たちの礼拝行為というのは、常識的に考えれば、このようなものと理解されると思います。
この理解は的外れすぎたり、完全に間違った理解というわけでもないとも思います。
けれども、主イエスは、こう仰いました。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
直前では、主イエスが弟子たちの足を洗い、また食卓のホストの役目を果たしていてくださる。その間に、私たち人間のサンプルであり、代表である弟子たちがこの方に示したのは、無理解と裏切りであります。それにも関わらず、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
つまり、神は輝いておられる。神の輝きははっきりと、神のものとされた。
そう仰るのです。
神は人の子によって、今、栄光を受けられた。神は人の子によって、今、輝いておられる。人の子もまた、神によって栄光を受けた。神によって、輝いている。人の子とは、主イエスのことです。父とわたしは一つである。わたしを見た者は、父を見たのだと語られる天の父と、御子イエス・キリストの、一体性です。キリスト教会が三つにして一人の神と信じ、告白する、三位一体の神様です。
だから、神は人の子によって、今、栄光を受けられた。人の子もまた、神によって栄光を受けた。
ちょっと変な表現だと思いつつも、分かりやすく言えば、神様の自給自足であります。言い換えるならば、神さまは、人間の奉仕なしで輝かれるのです。私たちの礼拝なしで、栄光に満ちたお方なのです。
しかも、その栄光は、隠されたままのものではありません。
私たち人間の目には隠されていて、天の金庫の奥深くにしまわれたまま、ただの人である私たちの大部分が知らないままの、遠くの輝きはありません。
神は、その独り子を世にお遣わしになりました。神は、世を愛し、その独り子をお遣わしになりました。
世が滅びないように、神の懐におられたその御子を、私たちのもとにお遣わしになりました。
御子が来てくださいました。私たちが御子を探し求めたのではなく、御子が私たちを探し求めてくださいました。
御子が私たちの名を呼び、御子が仕えてくださいました。
誰も暗闇の中に留まることがないように、光として、この方が来られ、光として、生きてくださいました。
私たちではなく、神がしてくださったのです。神が初め、神が完成してくださったのです。
しかも、私たちの真ん中で、私たちのために。
天の父なる神間が主イエスによって栄光を受けられ、また主イエスが父によって栄光をお受けになったとは、神さまの自給自足と申しましたが、それにも関わらず、私たちは全然蚊帳の外ではありません。
先ごろ読みました13:1にこうありました。
「イエスは、この世から父の元へ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。
神は、ここに輝いておられるのです。
その弟子たちを徹底して愛し抜くことにおいて、天の父は天の父として、御子は御子として輝いておられるのです。
神は私たちの奉仕なしで輝かれます。
けれども、私たちを愛し、私たちに僕のように仕え抜くことによって、その栄光を輝かせ、この無知な者の神、裏切る者の神となってくださることによって、その輝きを、この暗闇の世の中に、掲げてくださいました。
今、この時の私たちの礼拝において露わになる神様の栄光、主イエス・キリストの輝きも、この栄光、この輝きであります。
神さまは、神様ご自身の誰の手もお借りにならない、誰の手も必要としない力強いお働き、しかし、私たちに向けられた愛し抜く愛の貫きにより、輝いておられます。それは、過去形、完了形、私たちの奉仕も服従も必要とはされません。いいえ、それどころか、私たちの妨害、無理解、裏切り、不服従を突き破って、今、既に、輝いていらっしゃいます。
教会が掲げる十字架とは、まさに、そのような私たち人間の罪を突き破って立った神の愛の輝きの決定打です。
私たち改革派教会は、この神の愛によって、神のものとされる救いの出来事において、人間はほんの間接的にも、助力することはできないと、口を酸っぱくして、強調してきた教会です。
それは、こういう主イエスの完了形の言葉を、真剣に聴くし、私たちが、その言葉に激しく心打たれるからです。
あなたがどんな者であっても、私はあなたを愛し抜く。いいや、愛し抜いた。わたしのあなたへの愛は、もう二度と、覆ることがない。わたしの輝ける名は、あなたを愛する神、あなたを捨てない主人だ。わたしの名は「ある」、あなたと共にある者。
安心して良いのです。
さて、このように、私たち抜きで、私たちのために、全てを為しとげてくださったお方が、こう仰います。
34節です。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ここに教会の使命があります。
互いに愛し合うことによって、主イエスの愛が、本当にここに実を結んでいることが見えるようになるのです。
主イエスの愛が感染してしまった、主イエスの信者、私たち主イエスのフォロワーの姿を通して、感染源の存在、その熱源を、皆が知るようになるのです。
皆が知るようになるとは、ただ情報として知るだけじゃありません。
ああ、あの人たちは、世にはない愛に生きているキリスト教徒だ。主イエスの弟子だ。とてもとても真似はできないという具合に知られるということではありません。
聖書の中の「知る」という言葉、とりわけ、ヨハネによる福音書における「知る」という言葉は、とても特別な言葉です。
深い深い繋がりの中に入れられること、人格的な結びつきの中に入れられること、つまり、知った者がまた、その愛に感染してしまう。
そういう知り方のことです。
私たちは教会の兄弟姉妹の主人でもなく、先生でもありません。私たちは、私たちの隣人の主人でもなく、先生でもありません。
同じ人間です。同じ人間の分際です。
その私たちのすることは、何をしたって、主イエスと同じ愛で、人を愛すことにはなりません。
しかし、それにも関わらず、そうであっても、この主の言葉に促され、この主の言葉に押し出されるのです。
私たちが、ほんの小さくでも人を愛するようになるのです。
その時、本当に、主イエスの愛が、波紋のように、人から人へと、伝わったのです。
愛せない私、赦せない私、心の貧しい私、罪人の私、その私が主に愛され、その愛が、わたしの心を通って、私の体を通って、私を越え出て行くのです。
このようにして、私たちの生活の様々な面で、様々な愛の実を結ぶと、その具体的な実りを忙しく数え始めることもできますが、それは、控えるのが賢明であると私は思っています。
もっと手前で、もっと私たちの足元で、最も驚くべきこと、最も、深い神と隣人への愛の出来事が、形となって、私たちの生涯に実を結んでいることにこそ、深く立ち止まり、そこに心を寄せることが、何よりも大切だからです。
主イエスの愛に感染した者の、主イエスに背中を押されて思わず、愛に生きてしまうその愛の最も大きな実りとは、今、ここで私たちが、隣人と共に神を礼拝しているという事実にこそ、本当に目に見えて輝いているものです。
神を愛しえぬはずの者が神を愛し、神を拝みえぬはずの者がこうして神を拝んでいる。隣人を愛し得ぬ者が、こうして、一つとなって神を拝んでいる。一つの食卓を囲んでいる。一つキリストの体とされて、ここにある。また、この福音を私は聴かなければならないとここに集まることによって、私たちはキリストの福音を告げ知らせている。
あなたがどんな者であっても、あなたはキリストの十字架によって、神に買い取られた神の宝である。わたしと共におられる神は、あなたとも共におられる。本当に安心して良いのだ。
今、ここで、キリストの体なる教会のメンバーとして、説教者を立て、皆さんが、この福音を世に向かって語っているのです。
熊野義孝という牧師は、私たちが聖化されるということ、聖なる者とされるということは、私たちが礼拝者とされていることの中に、一番はっきりと見えていると語りました。
この聖化、聖なる者とされることを、弟子とされると言い換えても、一向に構いません。
弟子とは、神を礼拝する者、この場に身を置き、この公の礼拝を捧げることによって、この世界に、神の徹底的に貫かれた愛の福音を響かせる者のことです。
最初に戻りますが、その礼拝は、神の招きにより始まり、神の祝福によって閉じられるのです。
神が、呼び集めてくださり、神が派遣してくださるのです。
これは、奇跡です。これは神業です。
この奇跡を、今日、今この時、その身に生きる皆さんです。
今、ここに私たちを一つ礼拝の民、福音を告げ知らせる民としてくださり、私たちを呼び集め、また祝福の内に私たちを送り出される主なる神は、共におられる主、私たちと共に、歩き出してくださる主でもあられます。
主に呼び集められ、主に派遣され、その主と共に、礼拝から礼拝への旅を、続けて行くのです。
33節、主が見える時も、主が見えない時も、主が共におられることを感じる時も、感じられない時も、主は、ひたすら私たちを愛し抜く業に生きてくださるのです。
神が始めさせてくださるこの旅を妨げることができるものは何もありません。
主イエスによって、洗われ、聖餐の食卓に着きましょう。
あなたの働き抜きで主が用意され、しかし、あなたのために主がご用意された洗礼の水があり、聖餐の食卓があるのです。
祈ります。
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