週 報
説教題 あなたを罪に定めない
聖 書 ヨハネによる福音書8章1節~11節
讃美歌 3,294,24
本日は、年に一度の召天者記念礼拝です。
この教会の教会員であった方々、またご遺族の希望に基づき教会の責任において、葬儀を行った方々を思い起こしながら、神の御前に捧げる礼拝です。特にお一人お一人の名前を、この説教の中でお呼びすることはありません。そのお一人お一人を覚えながら、神に捧げるこの礼拝で聴くべき言葉は、その人たち自身のことであるよりも、むしろ、そのお一人お一人を生かした神の言葉です。
もちろん、その神の言葉は、既に召された愛する者たちとは無関係な言葉ではありません。今、申し上げましたように、そのお一人、お一人を生かした命の言葉です。そしてまた、その愛する者たちを通して、実は、ここにお集まりのご遺族また、友である者たちを生かしてきた命の言葉です。
この教会でキリストへの信仰に生きた一人一人、また、洗礼は受けていなかったかもしれないけれど、この人の葬儀はぜひ教会でしなければならないと、ご家族に思わせたそのお一人お一人の存在、その存在の奥から、神の言葉が聞こえてきていたのです。
私が葬儀や記念会を牧師として担当するとき、心がけていることがあります。それは、故人が語りたかったであろうイエス・キリストの福音の言葉を代わりに語りたいということです。
あまりに近すぎる関係性のために、真正面からはなかなか語りづらかったであろう福音の言葉を語ることです。
「父さんは、母さんは、おじいちゃんやおばあちゃんは、そんなことを言うけれど、その生活を間近で見せられている私たちには説得力がないよ」と、言われちゃうかもしれないなあと、面と向かって語ることを控えていた福音の言葉を語ることです。
つまり、なかなか親しい者と分かち合うことは難しかったかもしれないけれど、その人を生かしていた神の言葉、ここに私の命があると、力を得ていた聖書の言葉を探し、故人に代わって証しすることです。その聖書の言葉を通して、もしかしたら、ご家族の目にもそれまでは隠されていた愛する者の存在の深み、命の秘密に触れて頂きたい。
その言葉はきっと、その人と一体となった、だから、その懐かしい人の匂いがしてくるような神の恵みの言葉と信じています。
召天者記念礼拝も、同じことを願っております。
今日与えられましたヨハネによる福音書の言葉は、先週と変わらず、日曜毎に、たんたんと読み進めてきたヨハネによる福音書の言葉の続きでありますが、ふさわしい個所が与えられたと感謝しております。
複雑で謎めいた箇所ではありません。
子どもでも分かる聖書箇所だと言えます。
けれども、キリスト者であるならば誰でも、深く深く心に刻んでいる聖書の物語です。
なぜ、イエス・キリストを語る言葉が福音、良き知らせと呼ばれるのか?
なぜ、ここにいるキリスト者たちは、また、既に世を去った愛する者は、洗礼を受けてキリスト者となったのか?
その秘密を明らかにする忘れがたい主イエスとの物語、主イエスの言葉がここにあります。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
キリストを信じて生きるとはどういうことなのか?
それは、毎週毎週、毎日毎日、この赦しと励ましの言葉を聴き続けながら、生きることです。
物語は次のように始まります。
主イエスがいつものように、ご自身の周りに集まってくる人々を相手に、神の言葉を説いていると、ある人々が、姦通の現場で取り押さえられた女を、主イエスの前に引き出しました。
当時のユダヤでは、夫のある女性、または婚約中の女性と不倫行為を行うことは、かつての日本同様、姦通罪という刑事罰の対象となる犯罪行為として同じように、いいえ、さらに厳しく、男も女も、死罪に当たる罪として数えられました。それほどに婚姻関係が神性視されたのです。
その姦淫の現場で捕らえられた女が、主イエスの言葉を聴こうと集まって来た人々の集いの真ん中に、引き出されました。
この人をここに連れてきたのは、律法学者たちと、ファリサイ派の人々であったとあります。
この人たちは、当時の最高峰の聖書の専門家たちであり、裁判官、かつ行政官でもあるような人々です。
ただ聖書をよく知っているというだけでなく、人々が聖書の教えに適って生きるようになるために、公の生活、プライベートの生活、隅々に至るまで、聖書的な生き方ということを教えて人々です。
その聖書の専門家たちが、主イエスのもとに、姦淫の現場で捕らえられた女性をわざわざ連れてきました。
これは、主イエスを罠にかけるためでした。
「人々の人気を博する聖書教師イエスよ、聖書の教えでは、姦淫を行った者は、石打の刑に処さなければならないと書いてあるけれども、あなたは、この女をどうすればよいとお考えになるか?」
現代日本人である私たちは、たとえ姦淫の現場を捕らえられた者であっても、死ななければならない罪を犯してはいないと、当然のように考えます。
また、聖書の神を信じるキリスト者であっても、それが、神の創造の秩序を捻じ曲げる罪深い行為であったとしても、まさか、死に当たる罪であるとは思いません。
そして、おそらく、2000年前の信仰者たちにとっても、その法の典拠が聖書からではあるとは言え、実際には、死刑を執行しなければならないことだとは思っていなかったのではないかと思われます。
たとえば、聖書の記述自身が、主イエスの父とるヨセフが、婚約者マリアが、結婚する前に、身重になっていることを知った時、それが公になることを好まず、ひそかに去らせようとしたという記述があります。
しかも、聖書は、そのヨセフを「正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と語っています。
つまり、この罪は、旧約聖書によれば死罪に当たる罪と言われていますが、基本的には、衆人環視のもとに露わにされて裁かれるようなことではなくて、当人たちの間で処理され、普通は、陽の目を見るようなことではなかったのだろうと推測されます。
聖書がヨセフを正しい人と言うのは、恥は隠すべきだということではなく、単純に裏切った妻を死なせたくないという愛の配慮を指して言うのだと思います。
そして、実際、聖書には、姦淫のゆえに死刑になった人の物語は私の知る限りはありません。
けれども、この女性は捕らえられ、人々の前に引き出されてしまいました。
怒り狂った夫に売られてしまったのかもしれません。そこを、どうにかして主イエスを罠に陥れて、人気を失墜させようという嫉妬に狂った聖書の専門家たちに、利用されたのかもしれません。
それだけレアなケース、どう答えても、納得できない人が出てきて、わだかまってしまうケース、賛否両論が湧き上がってしまうケース、結局、主イエスの人気に陰りを与え、その権威を失墜させるのにちょうど良い難問であったのでしょう。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
当時の正しい夫であるならば、このことが表ざたになることを好まず、ひそかに離縁し、去らせるのです。
しかし、表に出てしまったのならば、裁かざるを得ません。そして、その裁判は不当ではありません。
つまり、この女性は、自分の夫から、もう死んでも構わないと見捨てられた人であり、ファリサイ派、律法学者たちによって、主イエスを陥れるための手ごろな道具として、扱われてしまっているのです。
けれども、主イエスは、この正しいかもしれないけれども、普通は、適用されるようなことのない罪をどう裁くかという問いに対し、お答えになることはありませんでした。
問うてくる者たちを無視して、身を屈めて、指で、地面に何かを書き続けておられました。
そんなものは答えるに価しない。答える価値がない。神は、お前達に沈黙されると言わんばかりに、もくもくと指で地面に何かを書いておられました。
一体何を書いておられたのか?永遠の謎です。
自分が神に成り代わったかのような傲慢な人間の目の前に突然現れた神の指とそれが描く裁きの言葉という、最近の祈祷会で読んだダニエル書の物語が思い起こされますが、確かなことではありません。
けれども、あまりにしつこく人々が問うた時、主イエスは身を起こして、次のように仰いました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そして主イエスは、また身をかがめて、同じように地面に何かを書き続けられたと言います。
すると、この言葉を聴いた者は、年長のものから始まって、一人、また一人と立ち去り、とうとうその場には、主イエスとその女しか残らなかったと言います。
誰もが後ろ暗い思いを感じたのです。「年長のものから始まって」という言葉が非常に示唆的です。
歳を重ねれば重ねるほど、自分の罪がわかってくるのです。胸を張って自分は人様を裁けるような人間ではないことが、身に沁みるのです。
聖書を読めば読むほど、その神の戒めに照らし合わせれば照らし合わせるほど、脛に傷を抱えた者同士が、ひそかに許し合うことによって、あの罪、この罪、あの失敗、この失敗を勘弁してもらったこと、無かったことにしてもらったことがあったことが、身に沁みるのです。
そして、率先して石を投げつけることができる者は誰もおらず、その場から、とうとう、誰もいなくなってしまいました。
すると、主イエスは身を起こしてその女性に仰いました。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
その人が、「主よ、誰もいません」と答えると、主イエスは、宣言されました。
「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」
この主イエスのお言葉、「わたしもあなたを罪に定めない」とは、立ち去って行った人々と同じように、自分にも後ろ暗い所があるから、私もあなたを裁かない、裁けないということではありません。
既に、直前の女性の「主よ」という呼びかけの言葉が示唆していますが、このお方は今、この女性の主、主なる神の代理として、この人の前に立っておられます。
この方は主、主なる神の独り子、主なる神の遣わした神の言葉、神と心を一つにされる方、世に来られた神ご自身として、人間の前にお立ちになります。
たとえ、全ての人間が、脛に傷を持っており、神に代わって裁けるような、そんな厚顔無恥なことはできなかったとしても、立ち去らざるを得なかったとしても、この方は違います。この方だけは裁けます。
この女性が、このお方を主と呼ぶのは、今、そのような正しい裁きの場に自分が直面しているということを知っていることを示唆しています。
群衆に囲まれていた間は、仮にも、恥ずかしさと、夫に売られた悲しみと、お前たちだって、本当は私を裁けるような人間じゃないという恨みつらみが心に渦巻いていたとしても、そのような境遇に陥った自分の辛さと、憐れと、少しの正義に縋ることができていたとしても、今は違います。
一人、また一人と去って行った者たちと同様に、この自分もまた、裁かれるべき人間であることが、本当の意味で明らかになるのです。
みんなやっていることだから罪なんかじゃない。已むに已まれぬ事情でこうなってしまったのだから、自分は悪くない。
そういう言い訳は通用しない。
自分が悪い。自分が罪深い。自分の業が深い。
どの罪が重い、どの罪が軽い。姦淫が重い罪か、軽い罪か、そういう問題では全然ありません。
私たちは等しく赦されなければ生きられない。主なる神さまの前にも、隣人の前にも立てない者であることを語っているのです。
そしてその罪とは、簡単に言ってしまえば、人間関係の破れのことです。
たとえば、共に生きる者、聖書が二人は一体となるとまで語る最愛の人との関係においても、綻びと破れを抱えざるを得ない、私たちの人間関係の破れのことです。
もちろん、配偶者との関係だけではありません。
私たちの子どもとの関係、兄弟との関係、親との関係、これこそは神が与えられたと思える血の通った関係を代表としながら、ありとあらゆる人間関係において、むしろ、近ければ近いほど、近づけば近づくほど、どうにもならない破れを抱えざるを得ない私たちです。
子育てにおいても、親孝行においても、兄弟間の協力に関しても、本当は、誰かにアドバイスすることなんかできない、誰かを責めることなんかできない、口を噤んでその場から立ち去らざるを得ない破れてしまっている私たちなのです。
けれども、ただ一人、私たちをお裁きになることができる主なる神は、その独り子イエス・キリストにおいて、「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」と、宣言してくださるのです。
破れたままの私たちに向かって、「わたしはあなたを罪に定めない」と。
召天者記念名簿に名前を連ねるお一人お一人は、このような主イエス・キリストの言葉を聴きながら、その罪の赦しの宣言を聴きながら、皆さんと共に、生きていたのです。
開き直って生きていたのではありません。
すまない、すまないと思いながら生きていたのです。
プロテスタント教会には、カトリック教会のような懺悔室はありませんが、実は、この毎週の礼拝と長老が代表して捧げる祈りが、そのような罪の告白の場であり、この神の言葉を説く説教を通して、赦しを受け取るのです。
逆説的な言葉に聞こえるかもしれませんが、罪を認めて謝るから赦されるのではありません。
赦されているから罪を認めることができます。
そしてまた、不思議なことではありますが、このような自分の不誠実、自分の限界、自分の罪、自分の愛の薄さを知った時にこそ、その人の愛は、小さくても、僅かでも、神の愛の反映になり始めるのではないかと思います。
ただ一人、私たち人間を本当の意味でお裁きになることのできる方の御前で頂く神の赦し、神の愛に生かされることの内から新しい歩みが始まるのです。
イエス・キリストこのお方もまた、そのことを知っていらっしゃいます。
自分の罪にうずくまる者が、神に、裁くことのお出来になる方に、赦しを告げられるならば、立ち上がり、もう一度、新しく始めることができることをご存じでありました。
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
召天者名簿に名を連ねるお一人お一人は、この教会の礼拝において、主なる神様の前に、ここにお集まりの方、ここにはいらっしゃらない方々に対する自分の破れ、罪を告白しながら、もう一度、立ち直って愛し始める力を受け取り直していたのです。
主イエスを通して頂いた神の赦しを、神の愛を持って、もう一度、皆さんを愛そうと、この礼拝で立ち上がり、遣わされて行ったのです。
それがキリスト者です。それが成功したのか、失敗したのか、それがよく見えたのか、ほとんど感じ取ることができなかったのか、それは、それぞれの与えられた分に応じての歩みであったでしょう。
けれども、洗礼を受けてキリスト者として生きるということは、今日の物語が語る姦淫の現場を捕らえられた女の内に、自分の姿を見ることであり、主イエスより、「わたしはあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」と、語り聞かせて頂くことなのです。
今日、この礼拝に集められた私たちは、私たちの人生に与えられたその大切な一人一人を通して、その存在を通して、確かにあるいは微かに響いていたその言葉を、今、この私に語りかける神の言葉として、聴くようにと集められたのです。
裁くことができるお方が、赦しを告げられます。
どんなに深く、大きな破れを抱えていても、このお方は、受け止め、赦してくださいます。
そこから立ち上がることができます。立ち直ることができます。やり直すことができます。
もう一度、愛に生き直すことができます。
その力をもう私の内側に探す必要はないのです。
「わたしもあなたを裁かない。これからは、もう罪を犯してはならない」。
主イエスの赦し、主なる神の愛が、外から、上から破れている私に注ぎ、破れている私から流れ出し、夫を、妻を、子を、親を、兄弟を、姉妹を、あの人、この人をもう一度、愛そうと、自ら突き進んでいくのです。
コメント