礼拝

10月23日主日礼拝

週報

説教  うわべをはぎ取るキリスト

聖書  ヨハネによる福音書7章10節~24節

讃美歌 2,294,29

先々週の水曜日、夜の祈祷会では、旧約コヘレトの言葉を読み終えました。毎週一週づつ、全12章、まとめを入れて、13週間かけて、この書物を読み終えました。今、話題の書です。NHK「こころの時代」で、東京神学大学の教授、小友聡先生がこの書を説かれ、それと相前後して、関連本も、2,3冊と続けて出版されました。

 

コロナ過において今まで当たり前だと思っていた生活があっという間に様変わりしてしまった。元気だったあの人が、この悪性の風邪によってあっという間に亡くなってしまった。

 

「空の空/空の空、一切は空である。」、「どの川も行くべきところへ向かい/絶えることなく流れてゆく。」

 

このような人の世を儚んだコヘレトの言葉に、一瞬の内に様変わりしてしまった日常を送る羽目になった私たち現代人の心が留まったのだと思います。けれども、小友先生は、この空しい、空しいと語るこの書を、人の世を儚む言葉、諸行無常、万物流転の言葉としては、語りませんでした。執筆された一つの本のサブタイトルになっています、「『生きよ』と呼びかける書」だと力を込めて、説かれました。

 

私たちの教会の祈祷会はあまり、解説書などを参考にせず、ただただ聖書本文それ自体に親しみつつ、聖書の言葉を素朴に、じっくり思い巡らしていくことを大切にしています。ああでもない、こうでもないと、好き勝手なことを言いながら読みつつ、その内に御言葉自身が光を放ち出して、この私の今に向かって語りかける生ける神の言葉として響いてくるのを待ち望みます。ただただ、コヘレトの言葉に聴いて行きました。ああでもない、こうでもないと出席者の皆さんと共に、黙想し続けました。

 

この書を読み終えて、私が聴き取ったことを、一言で言い表すならば、「我々は神ではなく、人間である。」ということです。

 

出席者のある方が度々仰いました。コヘレトは極端だ。あっちに行ったり、こっちに行ったり、どれが彼の主張か、よくわからない。なるほどと思いました。その上で、私自身の黙想も進み、極端から極端へと進んでいくコヘレトが、それでも決してぶれないのは、絶対者の前に、空である人間であり、この世であるという自覚ではないかと気付かされました。極端から極端への生き方を試みたとしても、人間のできることの枠からはみ出ることはできない。右の者も左の者も神の御前に立つときには、自分が塵あくたに過ぎないことを知る。我々は人であって神ではない。これが、コヘレトの信仰ではないか?

 

考えてみれば、これは、コヘレトだけに特別な理解ではなく、旧新約を通じて、神の臨在に接したすべての人の共通の自己認識であると思います。

 

コヘレト12:1にこういう有名な言葉があります。

 

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ない内に。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに。」

 

私は、今までこの言葉を、自分がこの世の主人公であるかのように思い込める輝く青春の日々は一瞬で過ぎ去るのだから、齢を重ねてもなくならない信仰の喜びを早い内に、身に着けなさいという程度に理解していました。けれども今は、創造主に心を留めるとは、歳をとってもなくならない信仰の喜びを勧める、転ばぬ先の杖のような言葉ではなく、人は人に過ぎないという、人の分際を弁えることを勧める言葉だと読むようになりました。

 

特定の信仰を持っていなくても、人生の過ぎ去りやすさ、その無常というのは、歳を重ねて行くごとに、人間誰しも、実感することでしょう。若い時は、人生はどこまでも続くと思っていたけれど、今振り返るとあっという間だった。光陰矢の如しだね。誰もがそう思うでしょう。 

しかし、主なる神の御前に生きる者は、矢のように飛び去って行く、時の移ろいを待たずして、無に等しい自分であることを思い知らされるのです。

 

たとえば、預言者イザヤは、自分を預言者として召そうとする神さまの権限に接した時、こう叫ばざるを得ませんでした。 

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ6:5)

 

コヘレトという人の言葉は、この預言者ほどに激烈なものではありませんが、同じ線の上にある言葉ではないかと思います。 

空の空、一切は空だ。神は、思い通りにならない日々を通して、我々人間もまた動物に過ぎないことを見極めさせようとされるのだ。すべては塵より成り、塵に返る。

我々のすることは、実は信仰も含めて、天地の創造者なる神様の御前では、空の空という他ないような、ささやかな営みに過ぎないんだ。

 

けれども、私たちの塵のような存在も、私たちの儚い日々も、創造者なる主なる神様が、御自分の御心として、お造りになったのです。 

自然発生でも、何か別の良いものを作ろうとしてたまたま生み出された副産物でもありません。  

永遠なる神様の御前に、煙のようなものに過ぎない私たちであるにも関わらず、あなたがいたらどんなに良いか、あなたがこの世に生まれ出ることを喜ぶと、その神さまが望んだからここに存在する私たちです。 

神の創造を信じるとは、そういうことです。

 

この人生、神さまが私たちにお与えになったものであるとするならば、その過ぎ去りやすく、壊れやすい一瞬、一瞬は、神さまからの真に貴い賜物、貴重な贈り物なのです。

 

なぜ、ヨハネによる福音書7:10以下を聴くこの日に、こんな話から始めたか。

 

それは、ある人が、この箇所をも含んだ聖書の言葉の全体を説きながら、この箇所に、「イエス、神のために生きる人間」というタイトルを付けていたからです。今日お読みしたヨハネ7:10以下の物語の中に、ただただ神のために生きている人間の姿が見える。神のためだけに生きた人間である主イエスの姿がある。

 

教会として集められたキリスト者たちは、神のために生きようとしている者たちです。自分のためではなく、神のために生きられるようになりたい。今日の箇所では、こういう願いを持つ私たちの目の前に、神のためだけに生きている人の姿が、描かれるのです。 

16節以下です。

 

「わたしの教えは自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」

 

ここに、神のために生き切っている人間がいます。自分の栄光ではなく、神の栄光を求める真実な人間がいます。わたしは自分勝手に話さない。自分のために、自分の栄光を求めて、話しているのではない。わたしをお遣わしになった天の父の栄光を求めて話す。

これは、コヘレトの見た人間とは、違う人間ではないでしょうか?

煙のような人間ではなく、真実な人間です。

不義のない人間、つまり、神の御前に胸を張って立ち得る人間がここにいます。

この人間はあれかこれかと揺れ動きません。極端から極端へと、前後左右しません。

天地の造り主なる神さまの御心通りに、一筋の道を歩まれます。

これは、コヘレトの語る塵あくたのような人間とは違います。

預言者イザヤのような者とも違います。

この方は、生ける神の御前に立たされても、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」などと言う必要がないのです。コヘレトの語るようなささやかな人間ではなく、神の御前に胸を張れる人間、こういう者に私はなりたいと、神を信じる者が願う人間の姿そのものです。

 

しかし、この16節以下の主イエスの御言葉を読みながら、ある聖書学者は言います。

 このイエス・キリストというお方において、歴史上、一回だけ、人間の腐った自己中心は打ち破られたのだ。自分の栄光を全く求めないで、神の栄光のみを求める人間が、歴史上、たったこの一回だけ、ここに現れたのだ。イエス・キリスト、ただこのお方のみが、神のために生き切った人間であり、それは後にも先にも、歴史上このたった一回きりのみだと、その解説者は言い切ります。

 

これとまったく表裏一体のことですが、この主イエスという人間から目を転ずると、今日の聖書箇所には、どうあっても、真実に生きられない、自分の栄光を求めてしまう人間の姿があるとまた別の人は言います。

それは主イエスと対話している者です。

15節で、主イエスの言葉を聴きながら、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう。」と言った人、20節で、「あなたは悪霊に取りつかれている。」と言った人たちです。

 その人たちはここでユダヤ人、また群衆であったと名指しされています。けれども、ここで私たちが聞き取らなければならないのは、この人たちがたまたまそうなのではなくて、いかなる人間も、自分の栄光を求めることから完全に自由になることはできないということです。

 

ある人は、言います。

神に召されたどんな誠実な預言者も、職務に忠実な聖人も、人間である限り、自分の栄光を求めることから自由になることはできない。この人間の分際を越えることはできない。

イエス・キリスト、ただこの人だけが、自分の栄光を少しも求めなかったのです。

この方だけが、許して頂かなくても、神の御前に堂々と立てるただ一人の人間であったのです。このような正しさは、今日の主イエスの御言葉によれば、聖書の言葉、神の言葉との、向き合い方においてこそ、露わになります。主イエスが自分の栄光を求めず、自分で語るのではなく、わたしをお遣わしになった方の教えを語ると仰った時、それは神の言葉である聖書の読み方に関してでした。

 

主イエスがご自分の唯一無二の正しさを証しするのは、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」とユダヤ人たちの非難を含んだ驚きを受けての言葉でした。この驚きは、律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになる主イエスの姿に対しての驚きという他の福音書に出てくる驚きのことでしょう。その驚くべきところは、「わたしは、このように語る。」というところにありました。しかも、そのように主が語る言葉を、聴く者が、そのまま生ける神の言葉として聴き従うことを求めたのです。

 

まさに、普通に聴けば、「あなたは悪霊に取りつかれている」と言いたくなるような、お言葉を天の父との一体の内にお語りになりました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 神の教えをお語りになった主イエスは、明らかに神の教えとして、御自分のことをお語りになりました。

 

わたしだ。わたしなんだ。わたしがあなたがたの命のパンだ。

 

「神はこう言われる」という、預言者たちの言葉遣いを用いることもなく、「わたしである」と。御自分のことを語りながら、なぜ、この方が自己中心ではないのか?

この方が、自分の栄光ではなく、父の栄光のために生きられたからです。神の栄光を求め、御自分のためには十字架のほか、得るものがなかったのです。

 

これは、もう一度申しますが、歴史上ただ一度きり、主イエスだけがそのようなお方であり、このお方だけが、真実な人間、不義のない人間であると、ヨハネによって、また教会によって信じられてきたのです。

 

私たちは、神の言葉に対して、こんな風な向き合い方はできません。

今日の箇所の後半部分でも、聖書に記された神の戒めの解釈に対しての主イエスの批判の言葉がありますが、私たちは、主が批判されたような読み方の延長線上にしかいません。

 

あなたがたは、神の戒めの言葉をうわべだけでしか理解できていない。

 

生まれた男の子は8日目には割礼を施されるという律法を守るためには、この日は一切の仕事をしてはならないという安息日規定を保留にする。

 

ベトサダの池のほとりで、38年間、病気に苦しんでいた病人を安息日にわたしが癒したということで、十戒の殺してはならないという第6の「殺してはならない」との戒めを破って、わたしへの殺意に燃えている。

 

結局はそのようにして、神の言葉を、解釈し、判断し、この場面にはこれ、この場面にはこれが重んじられると判断しているのは自分に過ぎない。あの戒め、この戒めが矛盾する時、何を神の言葉とするのか?結局、自分の読みたいように読んでいるだけじゃないか? 

やがて、わたしを殺すことによって、神の言葉に従ってそうしたと思っているかもしれないが、本当は、自分でも気付かぬ内に、自分の栄光を求める者であることを明らかにしてしまうのだ。

あなたがたの自覚することすら難しい、あなたと一体になってしまっている我が儘が神の言葉を覆い、私を殺すのだ。

 

後半部で主イエスが仰っていることは、そのようなことでしょう。

 

私たちも同じです。

純粋に神の御心を求めているつもりでいても、いかなる人間も自分勝手に話すことから自由ではない、自分の栄光を求める、つまり、自分の我が儘に神の言葉を奉仕させる聖書解釈から自由ではないのです。ああでもない、こうでもないと読みながら、結局、自分の栄光を求める読み方にしかならない。

 

それほど悪い願いには思えない、神の言葉に従いたい。聖なる者になりたい、義人になりたい、ファリサイ派、律法学者たちにも共通するこの願い、正しい宗教的願望に見えて、知らず知らずの内に、人間の分際を越えて、小さな神にならんと欲する、原初以来の罪の誘惑が必ず含まれるのです。ただ主お一人だけが、自分の勝手な読み、自分の勝手な語りを捨てており、自分の栄光を求めず、ただ神の栄光を求め、神からお語りになるのです。

 

主イエスだけが、この罪から自由であるのです。

 

しかも、それは、主イエスが、主イエスだけが、天の父から聖書の正しい解釈を教えられ、それを語ることができるというのではありません。主イエスという方が、神の律法を正しく解釈出来るというのではないのです。この方の神の言葉、神の律法に対する関係は、正しい解釈者ではなく、権威ある者、すなわち、共観福音書の言い方で表現すれば、安息日の主であります。

 

ヨハネがその始めからずっと語り続けてきた言葉で言えば、「神の言」(1:1)そのもの、「肉となった」神の言(1:14)、あるいは「父のふところにいる独り子である神」(1:18)であられます。イエス・キリスト、このお方は、神の言葉、神の思いそのものです。しかも、肉となった神の言葉、神の御心です。肉となったとは、人となったということです。

 

父のふところにあった神の独り子が、人となって、私たち人間の目の前におられたのです。ただ神としてではなく、肉となって、私たち人間の兄弟となって、私たちの目の前におられたのです。私たち人間の兄弟として、私たちの代表として、神の御前に、神の栄光のために生きてくださった。自分をお遣わしになった父の栄光を求めるわたしは、真実な者である。

 

神は、たった一度きり、このお方だけしかできない、このお方しか捧げられない、このお方の生き様、人生を、私たち人間が、神の御前に捧げた生き方と見做してくださるのです。

そのようなお方として、キリストは、天の父の御前に、また罪人であるユダヤ人の前に、群衆の前に、そして私たちの前に、今、立っていてくださる。

裁き、また、覆う方として。

 

なぜ、今日の説教をコヘレトの言葉から始めたのか?

人間の限界を語るコヘレトの言葉から始めたのか?

私たちの分際を弁えるためです。神のようになりたいという人間の原初的誘惑、宗教的装いで密かに潜り込みさえする甘く強い毒、自己中心、我儘の毒を解毒するコヘレトの言葉です。

我々は人であって、神ではない。時間の流れの前ではなく、天地の造り主なる御前にこそ、空の空の存在だ。

そのことを忘れると、我が儘になります。

我が儘は、罪です。現代人を深く捉えている罪です。

聖書は、旧新約を貫いて、このような人間の姿を、裁きの光の下に明らかにします。しかも、この罪は、神の民の中においてこそ、悪性のものになるのです。

 

しかし、主は、その罪人が滅びることではなく、生きることを望みます。

放置し、捨て置くのではなく、人となって世に来られました。

厳しく裁き、また、徹底的に覆うために来られたのです。

コヘレト以上に、私たちは確信することが許されています。

ああでもない、こうでもないと、神の言葉の周りをぐるぐると回り続ける私たちの真ん中に、必ず主イエスがやって来られ、語られます。

聖書が語るこの罪人はお前のことだ。

この脆く儚い者はお前のことだ。

裁くためではなく、救うために、私がやって来たこの世とは、お前のことだと、疑う余地なく、聴かせるのです。

 

この裁きの言葉は、そのまま赦しの言葉です。私たちはこのお方の御前で、そういう者であることが許されているのです。

天の父の御前に正しいのはわたしだけ、そのわたしの正しさの傘のもとに、あなたがたは、守られて、生きなさい。

このキリストの言葉を聴くとき、私たちは、現代に巣くう成長病、自己実現病から、癒されます。神の言葉であるキリストは、私たちキリスト者をも含めて、人間を病ませてしまっているこの病から、必ず立ち直らせてくださいます。

 

神は神であり、人は人である。私たちの罪は恵みよって覆われ、私たちは、ありのままの自分を生きることが許されている。神は神であり、人は人である。それはがっかりするようなことではなく、喜ばしいことです。主が教えて下さったように、羊飼いの懐に抱かれた羊の喜び、走り寄る父に抱き寄せられた放蕩息子の喜びを、与えるために、今、この時も、主は私たちの傍らにいらっしゃっているのです。

 

 

 

 

 

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