週報
説 教 題 働かれる主 大澤正芳牧師
聖書個所 ヨハネによる福音書第5章1節~18節
讃 美 歌 121(54年版)
エルサレムの都にベトザタと呼ばれる池がありました。
考古学者の発掘作業によると、50メートルプールのような長方形の人口の池が二つ並んだものであったようです。
今は失われたその二つの池は、当時、民間信仰の対象でした。
その池の水面が風もないのに時折、波たつことがありました。それはこの池に天使達が水浴びをしに来ることによるのだと信じられていました。
天使が水浴びを終えて、飛び立つ時、池の水面が揺れる。
その直後の池に真っ先に入る者は、どんな病も立ち所に癒される霊験あらたかな池として知られていました。
その池の周りには五つの回廊があったとあります。二つの池の四方と、二つの池の間の真ん中にもう一本、合わせて五つの回廊があったのです。
回廊というくらいですから、池の周りはしっかりとした道が整備されていたのです。
この不思議な池を中心に、療養所があったと説明する人もいます。
霊験あらたかな温泉や冷泉の周りがしっかりと整備され、そこに療養施設が設けられるということが、日本でもよくあります。同じように、このベトサダの池の周りも、そういう一大療養地になっていたというのです。
ベトザタとは、「慈しみの家」という意味の名前です。療養地らしい名前です。
五つの回廊に病人やその家族がひしめき合う「慈しみの家」です。
けれども、その名前とは裏腹に、いつもその池の周りには殺気だった雰囲気が流れていたのではないかと思います。
水面が揺れるのは時折のことです。水面が揺れた時に癒されると言われるのは、一人きりです。
病院や、接骨院の待合室で、患者同士、病気談義に花が咲くということがありますが、ベトザタでは、お互いはライバル同士なのです。
エルサレムで祭りがあったある安息日に、主イエス・キリストが、このベトザタの池をお訪ねになりました。
そしてそこで、38年間、病気に苦しんでいる人に出会いました。
どのような病気であるか記されていませんが、池の中に急いで移動することができない病です。
おそらく、聖書の中で、中風と表現されている、身体的な麻痺を伴う病を患っていたと想像されます。
回廊に煎餅布団のような床を敷いて横たわるその人の傍らに、主イエスはやって来られ、その人が長い間、病気に苦しめられていることをご覧になりました。
そして、その人に仰いました。
「良くなりたいか」
この物語を読む多くの人が、なぜ、こんな当たり前のことを聴くのか、少し意地悪ではないかとさえ感じ、戸惑います。
しかし、ある文学者は、これは質問の形を取っているけど、この病人に対する主イエスの無限の憐れみを読み取ることのできる言葉だと言います。
これを私たちの言葉で言い直すならば、「お前はなおりたいのだろうね」という同情の言葉になるだろうと言います。
「なおしてあげよう」と解決策を提示する前に、その苦しむ人の心に寄り添い、その心を代弁するように、「良くなりたいか」、「なおりたいよね」と。
その主イエスの言葉に硬い心がほぐされるようにして、この病人は苦しい胸の内を吐露します。
「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
38年間、満足に起き上がらないという生活は、本当に苦しく悲惨な日々であったと思います。
けれども、この人の苦しみは、重い病におかされているというだけではありませんでした。
誰も自分の癒しを願ってくれる人がいない。だから、誰も自分の癒しを手伝ってくれる人がいない。
今日の物語を読む時に、思い出すもう一つの物語があります。
マタイ、マルコ、ルカの福音書に記された中風の者の癒しの物語です。
今日の男と同じように、自分では歩くことすらできない者、ただ、床の上に横たわっていることしかできない者の癒しの物語です。
けれども、その中風の者には、四人の友がいました。
病気の自分を寝床ごと担ぎ、自分のために何でもする、屋根まではがす、たいへん心強い仲間がいました。
苦しい苦しい病の中にあっても、とことん寄り添ってくれる友がいる。それは、とんなに大きな励みであったかと思います。
けれども、ヨハネによる福音書で、主イエスが出会ったベトサダの池のほとりに横たわる38年間、病に苦しむこの男には、そのような仲間はいませんでした。
水面が揺れる度に、自力で水に入れる比較的症状の軽い者、また家族や友人の手によって、池の中に入って行く、病人仲間の姿を見て、苦しくて苦しくてたまらなかったに違いありません。
「良くなりたいか?良くなりたいよね?」という主イエスの質問、共感の言葉に、素直に「良くなりたいです」と応じず、「誰も私を池に入れてくれない」と応えるその言葉は、病よりも深い悲しみに心がいっぱいになっているような言葉に聴こえます。
私の苦しみの根は、体が癒されないことだけではない。誰も、私に関心を持ってくれないことだ。
そういう悲鳴に聴こえます。
このように読んで行きますと、少し前に読んだ、あのサマリアの女と主イエスの出会いの出来事と通じる物語であるように感じられて来ます。
誰もいない炎天下を目指して、井戸の水を汲みに来た孤独な女、38年間、誰にも気に掛けられない孤独な病人。
人種も、性別も、抱えている表面的な問題も違うけれども、その苦しみの根っこには、孤独がある。
主イエスは、そういう者達の元へ、一直線に歩んで来られます。
私はあなたに会いに来た。あなたを目指して来た。あなたに出会うこと、それが、天の父と、私の心からの願いだ。
38年間病と孤独に苦しむこの男は自分が誰と話しているかは知りませんでした。
この方が天の父と心を一つにするお方、神がお遣わしになった、神の言葉、神の心そのものであられることに気付いてはいませんでした。
そしてまた、そのようなお方が、孤独な自分の友となるために来られた神なのだと気付くことはありませんでした。
神がその御顔を向けていてくださるのです。
孤独な病人と顔と顔とを合わせて、久しぶりに会話の相手をしてくれたその人は、じっと病人の悲鳴のように漏れ出た言葉を聴くと、いきなり「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」とお命じになりました。
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き始めました。
信じるとか、疑うとか、そんな人間の側の反応は一つも記されません。
主イエスの言葉を聴くと、病人は思わず立ち上がって、床を担いで歩き出しました。
ここで多くの人が指摘するのは、ヨハネによる福音書におけるイエス様の奇跡の業というのは、その奇跡を身に受ける者の信仰をほとんど前提としていないということです。
人間の信仰が語られる時も、まず、イエス様の言葉や業が、先立つのということです。
その先立つイエス様の憐みの言葉、恵みの業が、人間の応答を作り出すという順番を取ります。
ここでも、同じです。病人の信仰は語られません。ただただイエス様の憐れみが、癒しを引き起こします。
それ以外にはないのです。「良くなりたいか」という問いも、実は、この視点からも読み解くことができます。
「良くなりたい」という主への願いすら、主によって、引き出して頂かなければ満足に願うことができない私たちなのです。
病の中、弱さの中、罪の中に、安住することを覚えてしまう私たちなのです。
だから、主イエスの御前に、その心の重荷を吐露できること、それ自体が、主イエスの「良くなりたいか」という御言葉の呼び水によって起こること、既に一つの奇跡を必要とすることなのだろうと思います。
ある説教者は、病人に命じられた主の「起きなさい。」という言葉に注目します。
この言葉は、新約聖書の中で、主イエスのご復活を指して使われる言葉であることに注目いたします。
すなわち、ヨハネによる福音書は、奇跡をしるし、あるものを指し示す象徴と理解していますが、この38年間病と孤独に苦しむ者の癒しを、復活のしるしとして行われたことと理解するのです。
主イエス・キリストに出会う時、そのお方の言葉を聴く時、神の言葉なるそのお方に捕らえられる時、私たちは新しい人間として甦る。
この奇跡は、そのしるしであるというのです。
そのためには、ただひたすら、イエス様に働いて頂くより他ありません。なぜならば、死者は自分をどうすることも出来ないからです。
死人を、枯れた骨を甦らせてくださる、神の命、神の霊、主イエスの命の言葉を吹き入れられなければ、人は起き上がり、床を担いで歩き出すことはできないのです。
38年間病に苦しむこの人のように、たとえ、命の水のほとりにあと一歩というところに置かれていても、私たちは、その残りのたった一歩さえ、踏み出すことのできない生ける屍のようなものです。
けれども、このような聖書の人間理解の一つの側面は、私たちを絶望させるためのものではありません。
その死者を甦らせる方が、私たちを目指して歩み寄って来られる。
私たちが失わないように、どこまでもどこまでも、探しに来られる。
実に、今日、司式者に読んで頂いた、9節後半以降の、ユダヤ人と主イエスとの間に起きた厳しい論争は、イエス・キリスト、このお方の、我々失われた人間の探索、探求が、どれほど、徹底しているものであるかを語るものだと言えます。
改めて、そこで話題になっているのは、この38年間病に苦しむ孤独な男が癒やされたのは、安息日であったということです。
癒されて床を担いで歩き回る、起き上がったこの男の姿を見咎めて、ユダヤ人達が、叱りつけます。
10節です。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
神のくださった十戒に記された、何の仕事もしてはならないという安息日です。
エジプトの奴隷から解放してくださった神を覚え、休息と礼拝の日として過ごすように神が与えてくださった日です。奴隷ではないから、週に一日、きちんと休むのです。
神の民、ユダヤ人達は、具体的に、何が仕事と見做されるのか?と論じ尽くし、安息日にしてはならない39の禁止された労働の定義を定め、その最後が「ものを運ぶこと」であったと学者は教えてくれます。
元気になった男は、このために咎められました。主イエスに命じられて、起き上がり、床を担いで歩き回ったのです。
咎められた男は答えました。
「わたしを癒やしてくださった方に命令されたのです。しかし、それが誰だかわかりません。」
この癒された男の答え、伝統的には、そんなに悪い答えとは、考えられて来ませんでした。
けれども、東京神学大学の学長であった、新約学者、松永教授は、素朴に読むと、これは良くない答えであると言います。
癒された男は、責任を癒やしてくださった主になすりつけているのです。
何で安息日なのに、荷物を担いでいるのか?
わたしのせいじゃありません。恩人がやれっていうから、断れなかったんです。
しかも、その恩人の名前も知らないのです。癒されたことに夢中になって、歩き回っている内に、主イエスの行く先を見失ってしまったのです。
だから、これは、主イエスの恵みを捕え損ねた者の典型的な姿だと言います。
けれども、だからこそ、14節です。
主イエスの方からもう一度、出会いに来られるのです。
主は、神殿の境内にいた彼を見つけ、もう一度、出会い直してくださり、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」と、お話になりました。
この言葉も、ざらつく言葉ですが、今日は深入りしません。
複雑なことを単純化して言えば、体が癒されても、主イエスとの出会いを見失えば、意味がないということです。
ベトサダの池が動く時、誰も水の中へと運び込んでくれない孤独な自分を目指して来てくださった方を見失うことは、再び病気になることよりも、もっとずっと恐ろしいことなのです。
けれども、残念ながら、癒されたこの男は一番大切なものを見失ったのです。
15節以下です。
「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。」
松永先生は、この記述に至る9節以下の塊に、「通報者」という小見出しを付けて、この癒された男が主イエスを裏切り、売ったのだと解釈します。
それゆえ、甦りを思い起こさせるこの男の癒しは、あくまでもしるしなのです。
主の命に結ばれた人間の完全な甦りではなく、そのしるしなのです。
この地上においては、主イエスに見付けられ、主イエスによって、命を吹き込まれた者もなお、後にしたはずの病の床を担ぎながら、歩くより他ないのです。
やがてまた、その床を必要にする時が来る。いいえ、その本性において、なお、死の床を背負ったままであることを忘れてはならないのです。
けれども、これもまた、私たちを絶望させることでは全然ありません。
なぜならば、ここが今日の箇所の最大のポイントですが、17節の主の御言葉です。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
よろしいでしょうか?目と耳をいっぱいに開いて、この主の御言葉を聴いてください。
「わたしと父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
安息日だからと言って、神は休んではおられないのです。
起き上がった者がまた裏切るからです。自分と出会った方がどなたであるか、なかなか理解しないからです。神の民が、全力の神の元から離れて行くからです。
死んだような人間、安息日だろうが、祭りの日だろうが、その他の日だろうが、ベトサダ、慈しみの家で、隣人のことを出し抜くことしか考えていない人間です。
そんな者を助けてくれる仲間がいないなんて、本当は当たり前なのです。
けれども、主イエスは、見捨てない。自分が歩けることに夢中になって、主イエスを見失ってしまう者、主イエスに責任を転嫁する者に、もう一度、出会い直しに来てくださる。
私たちに、忘れられても、捨てられても、裏切られても、何度でも何度でも、出会いに来てくださる。
「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
どんなに思い通りの人生が回り始めたとしても、病がきれいさっぱり消えたとしても、わたしがあなたに会いに来たことを忘れてしまったら、あなたは不幸ではないか?
キリスト教とは、キリストです。イエス・キリスト、このお方がいついかなる時も、私たちの友であり、兄弟であり、私たちの主であられることが、すべてに勝る宝です。
しかし、私たちはそのことに気づかない。本当の意味で、そのことを理解しない。
けれども、だからこそ、このお方は、休むことなく働かれます。
安息日にも、働き続けられます。祭りの日にも働かれます。
「わたしと父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
安息日、天の父と主イエスは僕のように、奴隷のように働かれます。そうでないと、私たち人間は全力で滅びに向かって突っ走って行くからです。
今日のこの主のお言葉がきっかけとなり、18節、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうように」なりました。
神がそれほどまでに親しく、神がそれほどまでに心を傾けて、神がそれほどまでに苦労し働く、神にそれほどまでに、追い求められている自分であることを見失っている滅びに突き進む人間の姿がここにあります。
けれども、主イエスの歩みは、この人間の殺意にも関わらず、止まることはありませんでした。
人間の拒絶と神よりの逃走が頂点に達する十字架に至るまで、いいえ、あの十字架でこそ、根本的に、徹底的に、最高に力強く我々人間のために、我々人間に代わって、神は僕となって働かれたのです。
ドイツの讃美歌に次のような歌詞の歌があります。
「わたしが回れ右して、歩む方向を変えても、わたしはあなたからあなたに向かって歩んでいます。」
私たち教会はこれからも語り続けます。
終わりの日が来るまで、私たちは、起き上がったはずの床を担ぐようにしてなお、歩かなければならないかもしれない。
様々な問題にすっきりとした解決が与えられるわけではないかもしれない。
けれども、十字架とご復活の主が仰る。
「わたしと父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
この先回りして私たちを追いかけて来られる神のゆえに、わたしたちが血迷って神の御前から回れ右しても、よろよろと横道に外れても、私たち人間は、そこで主イエスと出会うのです。
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