週報
説 教 題 生ける主 大澤正芳牧師
聖書個所 コロサイの信徒への手紙 3章1節~3節
讃 美 歌 164(54年版)
今日も告白しました使徒信条の中に、主イエス・キリストが「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり」という言葉があります。
この言葉は全く単純に、たとえば、使徒言行録の冒頭に記録されたお甦りのキリストの身に続けて起きたこと、使徒たちの目の前で起きたことを報告している素朴な言葉です。
使徒たちの目の前で、天に上げられたという主イエス・キリストが、「全能の父なる神の右に座し」ているという言葉もまた、たとえば、使徒言行録において、ステファノという人が、民衆に向かって、恐れず大胆に福音を証ししている際に、突然に天を見つめ始め、そこで「天が開いて、人の子が神の右に立っておられる」と語ったステファノ証言に基づく素朴な言葉です。
このような証人達の証言の言葉に基づく報告に対しては、それを目にしたわけではない現代に生きる私たちが、一体どのようにしてか?とHowを問うことは、あまり意味のあることではないかもしれません。
なぜを問うことが、あまり意味がないのはどうしてか?ご興味のある方がいれば、そのためだけにじっくりと時間を取って共に、語り合いたいと願いますが、今日は、そのようなところで立ち止まったりするつもりはありません。ただ単純に、お甦りのキリストは使徒たちの目の前で天に上げられ、また、キリスト教会最初の殉教者ステファノは、石で打たれて絶命する直前、天の開きに与り、そこで、神の右の席から立ち上がって、ステファノにそのまなざしを注がれる十字架とお甦りの主、御子イエス・キリストのお姿を見せて頂いたと、信頼するだけです。
しかし、Howで立ち止まらず、それがなぜ?なんのために?何を意味するか?ということについては、積極的に問うこと、聞くことができるだろう、是非それをすべきだと思います。
そしてそれを問い始めるならば、私たちはここで次のように、信じるように招かれています。
イエス・キリストの十字架とお甦りの出来事こそ、私たち人間とこの世界に対する主なる神様の決定的な御心だったということです。
天に昇られたキリストは、天の門でも、中庭でもなく、天の父の右に座したもうのです。
天の王の右の座、それは跡取り息子の席です。私の心と父の心は一つである。私の語り、なすことは私をお遣わしになった父と共になす二人で行う真実の業であると、主イエスはお語りになりました。そのお方が、天に昇り、神の右の座にお戻りになられました。
それは、このお方が、地上でなしてくださった事が、この地におけるだけでなく、天においても、またある一定の期間のことではなく、過去現在将来に渡って、天の神の永遠の御心として、打ち立てられたということを意味します。
そしてそのようにして神の右の座にお着きになっておられるキリストは、今、現在、その点の座にお着きになっておられるのです。
過去でもなく、将来でもなく、今この時、私たち教会の王として、また天地万物の王として、統治なさっておられるのです。
イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかってくださったお方です。この方を愛し、重んじ、この方を自分のまことの主人と信じ、受け入れる者のために、十字架にお架かりになったのではなく、私たちがいまだ敵であった時に、この敵のために、十字架にお架かりになってくださいました。
このお方を十字架にかける私たちに向かって、主は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成してくださったのです。
しかも、それは怒れる神を宥める御子イエス・キリストの決死の孤独な執り成しではなくして、天の父の心と一つであるキリストの祈りであったと言われるのです。
私たちに向けられる神の御顔には、正しくも恐ろしい義なる神の御顔と、キリストにあって優しい神の御顔というような様々な側面があるというのではありません。
十字架とご復活のキリストが天の右の座についていらっしゃるということは、万物を統治される全能の神は、憐れみ深い私たちの父だということです。
このキリストにおいて示された神の御顔の後ろに隠された神の御顔というものはないのです。もっともっと深い隠された神の御心というものはないのです。これが神さまの本当の顔です。真実のお姿です。
天地万物の造り主にして、統治者なる全能の父なる神様は、この世界に対して、ただそのようなお方として、現在進行形で、いらっしゃってくださいます。
けれども、同時に、今日の聖書箇所における使徒の証言によれば、私共の命が、そのような神の慈しみ深い御顔の前に置かれた命であることは、神によって、キリストと共に神の内に隠されていることだとも言われています。
我々の命が、我々の生涯全体が、キリストと共に、キリストの父なる神の内に隠されているということは、先週、お話ししましたように、どんなことがあっても、私たちは、壊されないものとして、神さまがしっかりとその懐の内に抱え、守ってくださっているということが第一の意味だと思います。
しかし、それは同時に、未だ目にすることはできないこと、ただ信仰においてだけ、認められる事柄であるということでもあると思われます。つまり、今は、まだ目に見えるようなものではないのです。
今日お読みしている言葉の直後の4節では、「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と、語られています。
既に今、この時、私たちの命が神の内にしっかりと隠されて守られていること、神さまが、ひたすら、私たちと世界の歴史の全過程において、慈しみ深い父として、御子の命をもって私たちを買い取る愛の父であられるということが、今は信仰において受け止められていますが、「キリストが現れるとき」、すなわち、終末の時、はじめて目に見えるものとして露わになるのです。
その時は、我々の信仰が見ている神の慈しみは、もはや信仰の事柄ではなく、全ての者が目の当たりにする公然の事実となります。
しかし、それはまだ隠されています。つまり、まだ隠されているので、そのような神の慈しみを疑い、迷ってしまう余地が、私たちの生涯においては、いつでもあり続けます。
神の慈しみを信じられなくなり、キリストの恵みを十分理解することができなくなり、見たこともないただ聞いているだけのキリストの現れに期待するよりも、目の前にある現実、それに応じる私自身の内なる心の声に従い、もっとリアルで、もっと手応えのある何かを手にすることはできないだろうか?と、考え始めることはあると思います。
それは何も、信仰から離れてしまう人にだけ起こることではなく、教会の礼拝に週毎に連なり続ける私たちにとっても、いまだ、見て触れて確信することの許されない今は信仰に属する事柄であり続ける神の慈しみによる支配を、忘れてしまっているかのように生きてしまうことは、度々あると思います。あるいは、信仰が信仰のままに留まり続けることに我慢できず、何らかの手応えあるものによって、その埋め合わせをしようとしてしまうことがあります。
しかし、その結果、知らず知らずの内に、神がお示しになった信仰の筋道から外れて行ってしまうことがあります。
預言者と使徒たちの証言を通して、私たちに示されている神のお望みになる私たちの信仰を、私たちキリスト者も、後退したり、的外れな方向に向かってしまったり、日々の浮き沈みは、十分にあり得ることです。数か月単位、数年単位で、私たちが、神のお望みになる信仰の道から、どうやら、外れてしまったようだということも十分起こりうることだと思います。
けれども、私が今日このようなことを語りますのは、罪を指摘し、悔い改めを迫るためではありません。たとえ、そのようなことが起こらなければならなかったとしても、それよりももっと大事なこと、もっと決定的なことは、誤解を恐れずに言えば、私たちの迷いはちっとも致命的なことではないということです。私たちの後戻りや、迷子は、ちっとも取り返しのつかないことではないと私は思います。
なぜならば、「上にあるものを求めなさい」と押し出され、「上にあるものに心を留め、地上にあるものに心を引かれないようにしなさい」と、勧められる私たちの信仰生活というものは、これによって何かを実現しようと言うようなものではなくて、既に成し遂げられたキリストの出来事に基づいたものであるからです。
今日の聖書箇所において、我を忘れて、神の栄光のみを求めて生きるようにと私たちを招く聞きようによっては非常に厳しい倫理的生き方への要求を為す使徒の言葉は、よく見れば、成し遂げられ完了し、今も継続する事実と、それを宣言する言葉に、ずらっと取り囲まれていることに気付かされます。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」、「キリストが神の右の座についておられる」、「あなたがたは死んだ」、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」。
これらは事実となった救いの出来事であり、私たちが何かを付け加えたり、減らしたりできる事柄ではありません。十字架の上で主は「成し遂げられた」と宣言なさったのであり、神の慈しみは、キリストの十字架により貫徹されたのです。神と人間の間に起こらなければならないことは、もう既に、起こったのです。
その上でなお、今、歴史が続いているのは、神の忍耐であり、また、その神の忍耐によって続く日々とは、神のユーモアであるとさえ、ある信仰者によって表現されるようなものです。
つまり、神が、自らの慈しみによって救いに必要なすべての事柄を成し遂げてくださったキリストの十字架と復活と昇天とが滞りなく遂行されたこの世です。後はもう、キリストが来られ、それが目に見える事実であることを知らしめるだけです。
それなのになお、歴史が続き、私たち神を信じえない人間の信仰が求められているのです。そのために、ご復活のキリストが信じない者たちに、なお一歩近づいて、私たちと深く関わり、その霊によって、私たちに信仰を与え、この私たちを目に見えない神の事実を事実として信じる人間として生かそうというのは、ただただ神が私たちのことが愛しくてたまらないからだと私は信じます。
この私たちがこの不器用な手と頭と口で、神をほめたたえ、証し、神の御業に参加する光栄に、信仰の奇跡に私たちを与らせたいとお望みになるからです。
終末前のこの世界においては、私たちの小さなまなざしのゆえに、私たちには、どんなに殺伐としたこの世に見えるまもしれません。神も仏もあるものかと思える世に見えるかもしれません。けれども、イエス・キリストの父なる神は、この世界を、私たちを慈しみ深い御手の内に囲っておられます。
私たちが、飼い主のいない羊のように、どんなに野放図に、逆方向に進んで行っても、神の慈しみの御手を越えて、そこから迷い出し、失われてしまうことはもはやありません。全ては成し遂げられたのです。
交通が遮断され、子どもたちの命を脅かす車が入って来れない保育園の園庭のような神の庭であるこの歴史、この世界の中に置かれているのです。だから、大丈夫なのです。私たちもこの世界も、この神の大きな慈しみの内に置かれ、そこで信仰者として、生きて行くのです。
それはもう一度申しますが、私たちの人生に、この世界に、嫌なこと、恐ろしいこと、思いがけない悲しみの出来事が、何も起こらないということではありません。
それは、終末前を生きる私たちにとっては、決定的で、最終的で、取り返しのつかない最後の出来事のように感じることがあったとしても、それは最後のものではない、どんなに深刻なものであっても、最後から二番目のものであるということです。
最後の最後は、私たちに対する神の御顔は、イエス・キリストにおいて神が示してくださったその慈しみであり、その後ろにはもう、秘密の顔は隠されていないということです。キリストは、天の父の右の座にお着きになっていらっしゃるのです。
それゆえ使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙3:12以下で、とても謙虚にこう告白することができました。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
私たちの誰もが、既に成し遂げられたキリストの十字架と復活の出来事と、やがて公然の事実となる神の慈しみの御手の支配の露わになる時の、時と時の間に生きています。
誰もが途上にあります。誰もが、満足のいく答えをこの目で見ているわけではありません。自分の本当の姿も、ましてキリストの父なる神の慈しみの真実の大きさも。
けれども、地に降り、天に昇られたキリストは、全世界を父より送られたお方、私たちを捕らえてくださったお方です。
神の右に座しておられるこのお方の支配が、今、ここにも見えない現実として及んでいるならば、致命的な後戻りなどありません。
私たちには見えないただ信仰の事柄に留まり続ける事柄ではありますが、私たち人間はキリストと共に死に、甦り、永遠の命に向かって歩み続けているのです。
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