週報
説 教 題 「落胆しない秘訣」
聖書個所 コリントの信徒への手紙二4章1節から6節
讃 美 歌 95(54年版)
2020年アドベントの第3週になりました。次週はいよいよクリスマス礼拝です。この日に、神は「闇から光が輝き出よ」とお語りになった言葉をもう一度、聞かせてくださいました。
最近読んだあるクリスマスの説教にこんなことが書いてありました。救い主の誕生の知らせを最初に受け取ったのは、夜の暗闇の中で羊の群れの番をしていた羊飼いたちだった。今の私たちには考えられないような深い夜の闇の中で、訪れた天使が告げた第一声は、「恐れるな」という声だった。どんなに闇が深くなろうとも、深い闇の中でうずくまっていようとも、神は、「恐れるな」と告げてくださる。私たちが恐れなくても良い理由、それは、御子イエス・キリストがこの世界にお生まれになったということによります。
神の独り子は、人口調査をせよとの抗いがたいこの世の力の命令に翻弄されて、初めての子をほとんど外と変わらない、それよりも、惨めだとさえ言えるかもしれない旅先の家畜小屋で、初めての出産をしなければならなかった夫婦のもとに生まれてくださいました。キリストは安全な家庭の家族団らんの中に生まれたというわけではないのです。しかしだからこそ、このお方は寄る辺なき者の救い主となり、闇の中で「恐れるな」と告げることのできる神の救いとなられたのです。
外の暗闇にいる羊飼いだけではありません。寄る辺ないヨセフとマリアだけではありません。この一年、私たちも、抗いがたい力に翻弄された一年でした。不安と恐れの中でこそ、身を寄せ合って支え合いたいのに、自由に会うこともままならない状況に、私たちは置かれました。しかし、どんなに出口が見えないほどに暗闇が深くとも、私たちは恐れ過ぎる必要がありません。この世界の救い主、御子イエス・キリストの救いの知らせは、その闇の只中に、その方自身が闇のど真ん中に、来てくださった光なるお方だからです。
使徒パウロはこの福音を告げる伝道者でした。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内にも輝くんだ。」と、今日語りかけているのです。御子は暗闇の中に輝いています。どんな闇も、御子の光には敵わないのです。
それゆえパウロは、「落胆しません」と言います。少し後の言葉を先取りして言うならば、四方から苦しめられても、打ち倒されても、私たちは落胆し切るということがないのです。この印象的な言葉は、色々な翻訳の試みがなされています。中でも有名なルター訳では、「疲れない」、「疲れ果てない」というニュアンスで訳されているようです。
先が見えないことというのは、本当に疲れ果てさせることです。終わりが見えていたら耐えることができるものも、これからますます闇が深くなっていくその途上であると言うようなときは、私たちは絶望してしまって、疲れ果ててしまいます。
パウロという人もその闇の深まりというのを知らない人ではありません。初代の教会の伝道者として生きることは、困難の連続であったと思います。パウロがこの手紙の中でやがて列挙する状況は、ひどいものでした。「ユダヤ人から四十に足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが、三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難。荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともあった。」という壮絶な困難の歩みをいたしました。疲れ果ててしまう、嫌になってしまう、だから絶望してしまう経験に事欠かなかったのです。
しかもその伝道のための労苦の結果、生まれた教会は、このパウロの労苦をよく弁えねぎらってくれるわけではないのです。ユダヤ人にも、異邦人にも厳しい扱いを受けるけれども、教会の中では、大切にされているとは言えないのです。むしろ、パウロがこの「落胆しない」、「疲れ果てない」と語るのは、自分の苦労の注ぎ込まれた実りであるはずの教会、自分の子供のようなコリント教会が、パウロに反旗を翻しているという只中のことなのです。他の面では色々と思い通りにいかないことがあったとしても、自分が心を込めて、全身全霊を傾けて、育んできた相手が、自分に反抗し、反抗するだけではなく、福音の本筋から離れて行ってしまう姿を見るならば、がっかりするはずです。疲れ果ててしまうはずです。
しかし、パウロは、「落胆しません」と言います。なぜでしょうか?それは、パウロが「憐みを受けた者としてこの務めをゆだねられている」者だからです。ここには二つのことが語られていると思います。一つは、自分は憐みを受けた者であるということ、もう一つは、務めを委ねられている者だということです。
憐れみを受けたというのは、他でもない神の憐みを受けたといういうことでしょう。憐みというのは、よほどふさわしくない者に与えられる神さまの恵みのことです。恵みというのは、報酬ではなく、恵みが恵みであるためには、一方的なプレゼントであるわけですが、その上でなお、恵みではなく、「憐みを受けている」というからには、自分のマイナスということをより強く意識した言葉であると言えるでしょう。自分の貧しさ、惨めさ、罪、それにも関わらず、神が与えてくださる恵みこそ、憐みという言葉にふさわしいことだと思います。自分はこの憐みを受けているから落胆しないのだ、疲れ切るということがないのだとパウロは言います。
考えてみれば私たちが疲れ果ててしまう時というのは、終わりが見えないということと共に、自分の限界に直面した時ではないでしょうか?だから普通は、疲れ果てない人というのは、困難を乗り越える力と自信を持つ人のことだと考えます。逆にその自信が打ち砕かれてしまうと、簡単に疲れ果ててしまう。
しかし、パウロはそうではない。パウロは、初めから、崩れてしまうような自信を持っていなかったのではないか、それがパウロの落胆しない秘訣ではないかと思えてなりません。いや、パウロだって最初は、自分の働きによって、人々が大挙して教会に訪れるようになるという期待と自信を持って宣教活動に従事し始めたようですが、どうも、それは、早々と崩れてしまったのです。
コリント教会の誕生に直接結び付いたパウロの働きというのは、Ⅰコリント2:3以下を読むと、パウロが、アテネでの伝道の失敗により、完全に自信喪失し、衰弱していて、恐れに取りつかれていて、ひどく不安であったそのような心神喪失状態の中で行われたものでした。コリントでの伝道とコリント教会の誕生というのは、パウロが崩れた所で、パウロが疲れ果てた所でこそ、始まったものであり、まさに、マイナスであったパウロを神さまが憐みによって用いてくださり、結んだ実なのです。
しかも、自信がなかったけれど、思い切ってやってみたら、案外、上手くやれた。そんなに自分を卑下することなんてなかったと、自信を回復したなんて話ではないのです。パウロがそこでつくづくと知らされたことは、伝道の働きは人の知恵によらず、神の力によって、行われるのだということでした。その神の力とは、ここでそのまま神の憐みと理解されている神の力であります。神の憐みが私を生かしているんだ。神の憐みが、私を福音伝道者にしている。もしも、この憐みがないのならば、教会が立つことは決してないんだ。
言ってみれば、パウロは初めから自分にがっかりしているんです。落胆し切っているのです。ダメで元々、駄目で当たり前、しかし、神はそのパウロをお払い箱にはなさらないのです。そういうパウロであることを分かり切った上で、あえて御自分のものとされ、御自分の業に用いられるのです。
これをお前にして欲しいんだ。お前に任せたんだ。お前に預けたんだ。
神さまがそう仰てくださるならば、行き詰っても、もう一度立ち上がることができるんです。神さまが立たせてくださるのです。
また、第二のゆだねられた務めということも、いよいよ私たちを落胆から救うことであると思います。もちろんゆだねられた務めというからには、伝道者の務めというのはしてもしなくても良いというような種類のものではありません。自分の好きで始めたことは好きに止めることができるかもしれませんが、ゆだねられた務めは、簡単に投げ出すことができません。また、お預かりしているものには、自分の持ち物と違い好き勝手に扱うことは許されませんで、最大の注意と配慮をもって関わらなければなりません。その意味では委ねられた務めというのは、この上なく厳粛な務めです。
けれども、委ねられた務めですから、その務めに関心を持ち、最終的な責任を持つのは、委ねてくださった方自身です。預かった者の責任は私たちにありますが、神さまにも預けた責任があります。
しかも、私たちの貧しさ、罪深さをよくご存知の上で、神はお預けになったのです。費用対効果という経済的な観点から言えば、神さまは全く愚かなことをなさったのです。パウロもまた、わたしたち人間に福音伝道の業をお委ねになる神のなさりようを宣教の愚かさと言い、それどころか、神の愚かさとさえ申しました。
しかし、その愚かなように見える神の賢さは、確かに私たちにとっては、幸せなことです。なぜならば、こんな小さな者が、神さまのお働きに協力する者とされるという名誉に与ることができるからです。それゆえ、神の愚かさは人の賢さに勝ると私たちは賛美するのです。
これらの理由により、パウロは、落胆することがないのです。疲れ果てることがないのです。
自分のふさわしく無さをはじめから弁え、ただ憐みによってやらせて頂いている務めだから、自信を失うことから自由にされています。そしてこれが神さまが任命責任と、最終責任を負う委ねられた務めだから、自分一人の責任と背負い込んで、燃え尽きたり、パンクしたりする必要もありません。私たちにゆだねられた業は、神の御業であるならば、どんな妨害や、失敗に直面しようとも、神さまが最後まで責任をもってやり遂げてくださることに最終的にはお任せして良いのです。
このようにして私たちを落胆から自由にしてくださる神の憐みと、神のくださる使命の性質のゆえに、2節、パウロは、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」と述べます。これは、何も道徳的にすさんだ生活をしないということを第一に語っているのではなくて、福音伝道者としての自分の姿勢を語る言葉だと思います。そして、ここでパウロが語っていることは、自分は人たらしの技術は用いないということではないかと思います。
これは現代のビジネスマン、セールスマンであれば、批判されるようなことではなくて、重宝がられることかもしれません。自分が伝えたいことや、売りたい商品を相手が受け入れざるを得ないような形を作る。その為に、ロビー活動をしたり、付け届けをしたり、根回しをしたり、素晴らしいCMを作ったり、心理学的テクニックを用いたり、現代であれば当り前のように使用されるテクニックです。
しかし、パウロはそれをしないと言います。誤解されてしまっても、神の言葉である福音を真っ直ぐに語ると、言っているのです。
「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」というのは、見栄を張って自分を大きく見せようとせず、小さな者のままで、自分をさらけ出して、神の御業に仕えるということだと思います。
自分の限界以上のことはできないのです。自分が聴き取ったことが少なかったとしても、それを語るしかありません。不器用でも、朴訥としていても、神の御業に仕える者は、飾り付けた言葉ではなく、自分が受け取ったありのままに語らなければなりませんし、その自分のありのままの言葉が、不器用で、不細工でも、聞く人の良心に期待して、意地悪に聴くのではなく、真っ直ぐに聴いてくれることを期待して、語る以外にはありません。
そうすることしかできませんし、憐みによって私たちを召し用いてくださる神は、それで良いと言ってくださるのです。神さまは福音という宝を私たち土の器に盛ることを良しとしてくださるのです。
ところがこのような伝道の言葉というのは、期待通りにまっすぐに聴かれるということは、ほとんどあり得ないという厳しい現実を、3節以下は語っているようです。パウロは自分にも示され、自分も味わい、自分も召された福音を足りないのは承知の上で、ただ神の憐みにより頼んで、真っ直ぐに語っているつもりですが、受け入れてもらえない。
何で受け入れてもらえないかと言うと、直前の個所でも語られていたように、福音とそれを聴く者の間に、覆いがかけられてしまったとしか言いようのない状況があり、語っても語っても理解されない、誤解が深まるばかりだということが起きてしまう。
何でそういう覆いが一向に取り除かれないかと言えば、主イエスの方に向き直らないからですが、今日の4節によれば、この世の神が人々の目をくらましているからだと言います。
しかも、この世の神が無実の民を騙しているというのではなくて、その人たち自身が、信じようとしない、その不信仰を補強する形で、この世の神が目をくらませているのです。
「この世の神」というのは、ここ以外には出てこない、とても特殊な珍しい表現のように思いますが、事柄自身はよくわかることではないかと思います。これは別に神の福音を聞くときに限らないと思いますが、私たちは往々にして人の意見を聞くときに、白紙ではないと思います。その語る人にしろ、語っている事柄に対してにしろ、先入観を持って聞きます。始めから語り手のことが気に入らなかったら、気に入らない部分ばかりがクローズアップしてくるような聴き方をします。そして、自分とは立場の違う人の意見を聞けば聞くほど、中立に寄って来るというよりも、自分の批判の立場をいよいよ頑固なものにしていくということが起こりがちです。
近年、フェイクニュースという言葉が一般化しましたが、あからさまに信憑性の薄い偽物のニュースが、一時的だけではなく、継続的に、ある人たちの意見を作り続ける力となるのは、まさに、真実ならざる力が、それを好み、求める人間の心にうまく合致し、補強しあうからだと思います。
パウロがここで言っていることも、そういうことだと思います。自分は自分がなすべきことを自分の限界の中で、誠実に行い、それぞれの良心に期待する他ない。わあわあわめいて誤解を解くことを潔しとしない。
しかし、それぞれの良心にゆだねると言っても、不信仰な者、頑迷な者、疑う者、誤解する者は、自分の心が、光よりも闇を好むから、ますますマイナスの方向に進んでいく。自ら滅びへと邁進していく。それはもう止めようがない。どうしようもない所がある。たとえば、自分はコリント教会の人たちが言うように、自己宣伝をしているのではなく、イエス・キリストを宣べ伝え、コリント教会の信仰を支配するのではなく、あなたがたの僕に過ぎない者だと、率直に語っているつもりだけれども、悪く捉える人は何を言っても悪く捉えるから、どうしようもない。パウロが置かれているのはそういうところだと思います。パウロが1-5節までで語っていることはだいたいこういうことであると思います。
これは、悲しいけれども、私たちの置かれている世界、私たちが人と人との付き合いをするときに、福音の伝道に限らず、経験しなければならない、人間と人間のコミュニケーションを分断しているいつものありさまだと思います。ただこういういつもの人間関係の中にあっても、信仰を持つ者の場合は、誤解されても、最後には私のことを分かってくださる神さまがいるから、慰められる、落胆し切らないで済む、まして神さまの御業に仕えていると思えば、実りが見えなくても、神にゆだねて疲れ果てないで済むということか?
もちろん、神に知られているゆえに、人からいくら悪く思われても耐え抜く力というのは、私たちは与えて頂けると思いますが、そのようなことに恵みは尽きないと思います。
6節です。『「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、私たちの心に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く栄光を悟る光を与えてくださいました。』とあります。
人の心は固い、本当に固いです。自分の思考パターンと、思い込みから抜け出ることはほとんど不可能だと思われます。好き好んで自分の誤解と思い込みを補強し、それによって、自分がますます惨めな思いになっていくだけだとしても、その惨めさを実証することに不健康な喜びを感じてしまうほどに、自分の思い込みの虜になってしまう者です。
けれども、パウロの宣べ伝える主なる神様は、「闇から光が輝き出よ」と、お命じになり、世界を創造された神さまです。闇から光です。「無から有を」生み出される神という表現もありますが、ここでは、「闇から光」です。つまり、白紙の状態、無の状態、フラットな状態からではなく、マイナスから光を生み出されるのです。
ここでパウロが引用した言葉はもちろん、創世記第1章の世界創造の物語です。そこでは、神の創造前に地は、「混沌」であったと書いてあります。創世記においても、無からの創造からではありません。ゼロから、あるいは一からの創造ではない。混沌からの創造、マイナスからの創造であります。
パウロがここで見ていたものは、人間のどうしようもない罪への傾きです。自分もそこから除外されているわけではない、人間の弱さと貧しさです。どんなに頑張っても、自分の無力のゆえに、また隣人の罪のゆえに、空しいものになっていくように見える福音です。徒労で、愚かに見えるけれども、責任者である神がそれを良しとされるなら、まあ、何とか忍耐できるかもしれない。私たちはそんな思いになってしまうかもしれません。
しかし、そこで立ち止まらなくて良い。人間からはそっぽを向いて、神だけを見ることに逃げ込まなくて良い。なぜならば、絶望的な自分と隣人を見ず、神さまを見ると、もう一度、自分のこと、隣人のこと、世界のことを見直す目が開かれるからです。どんなに私たちが罪深く、無力で貧しくとも、神は闇を光に変えることがおできになる。神はそれを望んでくださる。闇の中に御子を送り込んでくださる。そして暗中模索の私たちに「恐れるな」と語ってくるのです。
そこで、はたと気付かされるのです。この私がこの神の知らせを喜ぶ者とされている。恐れるなという声を聴きたいと願う者にされている。イエス・キリストをこの私の救い主として信じる者とされている。確かにこの身に奇跡が起きたのです。あの人も、この人も、そしてこの私が、キリスト者と呼ばれる者となっているのです。罪人の最たる者である私たちが変えられたのなら、どんなに固い心も神は造りかえることがおできになる。マイナスから光を創造することがおできになる。
そしてこのような固い岩盤を突き崩す神の福音に仕える福音伝道の使命というものは、伝道者に限らない働きです。全てのキリスト者が献身者としてこの神の福音を宣べ伝えるように召されています。そしてそのキリストの福音、神の言葉は、私たちの考え方、思いを変えるだけのものでもちろんなくて、私たちの生の全体に覆いかぶさってくるものであり、私たちの存在と生活の一切を神の支配のもとに移し替えるものです。
つまり、私と私の家族の関係、私と私の隣人の関係、私とこの世界の関係、私とこの私自身の関係、全てが、闇から光を作り出す神の支配のもとに置かれているのです。この歴史、この世界の全体がです。それゆえ、落胆したり、疲れ果てることがないのです。それは、気持ちの持ちようということではなくて、倒れんとする私たち、滅びんとする私たちを生かすためには、御子をさえ惜しまずに、十字架にお渡しになる方が、これまでもこれからも、私たちの主であられるからです。
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