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10月11日礼拝

週報

説  教  題  「神の確かさ」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙二1章15節から20節
讃  美  歌    244(54年版)
音  声  https://www.youtube.com/watch?v=cXuab4bU9ro

私たちの生活には、然りと否が混じっています。良いこともあれば悪いこともある。ポジティブなこともあれば、ネガティブなこともある。自分の生活も、自分自身の有り様に対しても、喜べる部分もあれば、これはちょっとこのままでは困るな、こんな自分は嫌いだというところもあります。

 主イエス・キリストへの信仰を得るということは、その否定的な部分を乗り越えて、ポジティブになっていくことだと思うかもしれませんが、実際には、自分の否定的な部分への、気付きが促されたり、さらに信仰を得たからこそ苦難が訪れるということもあります。

 今日は金沢元町教会創立134年を覚えながら神に捧げられる礼拝ですが、その発端となった、長尾八之門という武士と、卯辰山に流刑されていた長崎の隠れキリシタンとの出会い一つを考えてみても、信仰を得たがために、人がどんなに苦しまなければならないかということは、私たちの信仰のDNAに、深く刻まれている原体験のようなものではないかと思います。この教会の創立期の長老であり、北陸最初のキリスト者である長尾八之門という人は、まだ信仰を持たなかった時に、自分が監督することになった長崎のキリスト者たちが、金沢の寒い冬を、温暖な地方から出たままの薄い着物で、耐え忍びながら、ほとんどの人が信仰を捨てることなく、棄教を迫る責め苦、課せられた重い労働に不平を言わずに、耐え忍ぶ姿が、心に焼き付いたのです。

 しかし、これは何も長崎のキリシタン達だけの経験ではありません。聖書に出て来る信仰者は皆、苦しんでいます。皆、悲しみを通っています。やることなすこと全て成功、常に順風満帆という人は、聖書の中には出てきません。悲しみと喜び、挫折と回復、然りと否の両方を通ります。

 私たちがその手紙を読み始めたパウロも同様です。パウロ程、悲しみと喜び、挫折と回復、然りと否が混ざりあったような人も、そういないかもしれません。

 私たちはパウロのような伝道者は他にいないと思っています。その書いた手紙が、今や聖書として、私達に神の言葉を伝える言葉として、受け入れられ、読まれるほどの福音宣教者ですから、パウロの伝道や、伝道によって生み出された後の教会の教会形成は、どれほど素晴らしいものであったかと思いますが、決して順風満帆なものではありませんでした。

 自分が携わる教会の課題と向き合いながら、手紙のやりとりを通して、どうキリストの体として整えていくか、彼自身が四苦八苦しながら、時に失望し、時に怒り、時に喜び、時に驚きながら、書き綴った福音宣教者の、苦労の多い日常そのもののような文章です。

 この伝道者パウロ、キリスト者パウロの悲喜こもごもということ、私たちの読み始めたコリント信徒への第Ⅱの手紙には、良く表れていると思います。コリント教会はパウロたちの伝道によって生み出された教会です。けれども、生え抜きの者達でさえ、パウロに躓きました。

 宣教の戦いは、そのはじめから、ただ、主イエス・キリストの福音を受け入れてくれる人が少ないということだけではありませんでした。福音を聴き、主イエスを信じ、生まれた教会が、生まれた端から早くも崩れ始めるのを、どう立て直していくかに、力を割かなければならなかったのです。

 15節に、「このような確信に支えられて、わたしは、もう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました」とあります。このコリント教会再訪問を願ったパウロの心持ち、「もう一度恵みを受けてほしい」というパウロの願いは、ここでは何気ない書き方のようですが、また別の機会にガラテヤ教会に向けてパウロが語った「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と言った、伝道の一からのやり直しのような、産みの苦しみにたとえられる苦しい心持ちではなかったかと思います。自分はもう一度、コリント教会に、恵みの福音を語り直さなければならない。それは、もう一度、コリント教会を苦しんで産まなければならないという気持ちではなかったかと思います。

 やっとの思いで誕生した教会が、福音からずれていくのです。どんなに悲しかったか。どんなに、焦ったか。もう一度産みの苦しみをしてでも、取り戻したいと、強く強く思ったのです。

 しかし、その再訪問の計画はなかなか実現しなかったようです。直接、会って話をするよりも、手紙のやり取りで、自分たちの間に生じているわだかまり、またコリント教会の課題に応えることをしなければならなくなったようです。けれども、事態は悪化するばかりでした。

 17節後半に不思議な言葉が出てきます。「わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか。」

「然り」とは、「イエス」と肯定すること、「否」とは、「ノー」と否定することです。だから、この17節後半の不思議な言葉は、パウロの言葉は、イエスとノーが判然としない。否定と肯定が入り混じっている。そういう批判をパウロがコリント教会から受けていたことが背景にあるだろうと考えられます。

 確かに、そう思われてしまう部分というのは、パウロの言葉の中にしばしばあると思います。先週のところで言えば、人間の救いの知らせを語る福音宣教者であるはずのパウロが、人間の誇りを捨ててしまえと迫ってくる、そうかと思えば一転して、自分の誇るべきことについて語り始める。またコリント教会の人々に、自分が信仰を持っているかどうか吟味しろと強く迫ってくるかと思えば、あなたがたこそ、神の前での私の誇りであると言うのです。パウロ自身についても同じです。本物の使徒なのか?あるいは、使徒と呼ばれる値打ちもない者なのか?パウロ自身の言葉を聞いていても、どちらにも取りえる。煮え切らないことを言っているよくわからない人だ。

パウロの語ることは、ある程度までは理解できるのだけれども、否定と肯定、ネガティブなことと、ポジティブなことが入り混じっていて、最終的には一体、何が言いたいのか?要するに何が言いたいのか?よくわからない。

 こういう疑いが生じると、パウロの全てが疑わしくなってくる。そうして、パウロが、再訪問の約束を果たさないでいることが、批判噴出の最後の引き金となってしまいました。「そう言えば、私達のもとを訪問する訪問する、もう一度会いたいと言っているのに、いつまで経っても来ない。」パウロは、場当たり的な人間かもしれない。その時々に言うことが違う信用の成らない人間ではないか。おそらくパウロが17節で言うように、あまりにも人間らしい、人間的な考えで、生きているようだと、言われてしまったのかもしれません。

 電車があるわけではありません。飛行機があるわけではありません。だから、当時の旅行計画というものは、なかなか立てづらいものでした。常識的に言えば、約束していても、天候不順のため、治安の悪化のため、道が崩れたために、計画変更を余儀なくされるということは、当り前のことでした。だから、コリント教会の人が、パウロたちが訪問の約束を実現できないでいることを軽はずみで信用ならないとするのは、行き過ぎたことでありました。

 それにも関わらず、パウロの方では、教会と距離を置くということはせず、いよいよ、心配し、関係を繋ごうとし、状況がなかなか整わないのに、いや、だからこそ、ますます心迫られ、行きたい、行きたいと願い続けていたのかもしれません。

 だから、パウロは、こんな風に疑われていると聞いたら、どんな風に思っただろうかと想像します。どんなに悲しく、歯がゆかったかと思います。物事がこんな風に進んでいってしまった時、自分だったら、何と言って、誤解を解こうとするだろうかと想像します。自分がこの立場に置かれたらどうするだろうかというのは、色々と想像が掻き立てられる所ですが、現実のパウロの答え方は、思いもよらないような角度からの答えでした。

 18節以下です。「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったのです。」

 意表を突く言葉です。問題となっていたのは、パウロの誠実さです。神の誠実さではありません。訪問すると堅く誓いながら、いつまで経っても、やって来ないパウロの誠実さが問題とされたのです。それなのに、パウロは神の真実であること、神の誠実であることについて語り始めるのです。ずれているように感じられます。

 神は真実な方です。神があなたがたに語りかけられる福音宣教の言葉は、然りと、否が入り混じったもの、肯定と否定、ポジティブとネガティブが入り混じったものではなく、ことごとく然りです。徹頭徹尾、肯定です。あなたたちを殺す言葉ではなく、生かして、生かして生かし切る言葉です。あなたたちを肯定して肯定して、肯定する言葉だと。聖書に記された神さまの約束は、イエス・キリストにおいて、全部、あなたたちのものになったのだと。

 誰もが飛躍していると感じます。わざわざここで持ち出す必要のない神さまを担ぎだして、話を大ごとにしてしまっているとさえ思われかねないことです。

 けれども、なんでパウロの旅行計画が実現しないことで、パウロが非難されるかと言えば、

結局は、パウロの語る福音に疑いが持たれているからです。

 人間に対しての良き知らせ、福音を語ると言いながら、罪について、本当は滅びこそふさわしいというような人間の罪の自覚を促すことを常に語るからです。しかも、未信者に対してだけではありません。パウロが誇りを捨てろ、貧しさと弱さに徹しろと、語り聞かせたのは、パウロ自身を含めた洗礼を受けたキリスト者たちに対してなのです。

 パウロは、福音、福音と言うけれど、それのどこが福音なのか?自覚すらしていない罪に気付かされ、イエス・キリストの救いに縋り、洗礼を受けたのに、洗礼を受けた後も、自分を誇るな、神を誇れと言われ続ける。人間はイエス・キリストによって、神の子とされると言うけれども、その神の子というのは、永遠に未熟者とされ、永遠に善いこと一つできない罪人と宣言を受けるということなのか?

 そうではないのです。パウロの語る福音はその入り口だけでなく、その深みにおいても、そのように響き、そのように否定的な言葉として聴きとられる可能性を常に含みます。そして、パウロの語った福音の機微は、その危険を通らない限りは、全く十分には理解できないものであります。しかしながら、福音は、私たち人間を否定することそのものに中心があるのではないのです。

 なぜならば、罪の発見、罪人である自分の新しい発見とは、即座に、主キリストの憐みを身に受けている自分の発見、神の愛の中に捕らえられている自分の新しい発見だからです。

 キリストの福音は人間を裁きます。私たちを裁いて、私たちが握りしめているすべてのものをガラクタだと宣言します。いいえ、私たち自身が、空っぽの存在であり、いつでも、滅びに落ちていく存在であると宣言します。しかし、それは、カラカラに乾いており、滅びようとしている私たちが、主イエスから頂く命の水を、両手でしっかりと、受け止めることができるようにするために宣言される裁きです。さあ、空の手を差し出しなさい。空っぽのままで、主イエスの元に来ていいんだ。価なしに命の水を飲みなさい。これが福音です。

 しかも、キリスト者も手を空にし続けなければならないと言われるのは、神の恵みというものは、旧約で、出エジプトの民に与えられたマナという食べ物のよく表されたように、ため込むことができないものだからです。マナは保存しようとすると腐ったのです。新しく頂くために何度でも手を空にしなければならない。でも、全然不安なことではありません。神さまは、必ず、恵みを朝ごとに下さるからです。そのために、手を広げなさい。神の御前に貧しい者になりなさいと迫って来られます。

 そのような否定は、否定のための否定ではありません。恵みに生かしきるためだけの否定です。全肯定の踏切台としてだけの否定です。私たちの罪と貧しさをグッと掘り下げて、その上で、全肯定されるのです。深く沈み込まなければ、中途半端な肯定で終わってしまいます。罪の根っこの根っこを掘り出すことによって、私たちの貧しさが徹底的に明らかにされることによって、私たちの丸ごとが神の御前に受け入れられます。

 いえ、正しく言うならば、私たちが認めようが認めまいが、神さまの前には私たちの罪も貧しさも全部、わかり切っているものですから、福音による罪の指摘、貧しさの指摘は、私たちのためであり、それによって私たちが神さまに丸ごと受け入れられていることが分かるためです。

 愛される人間は変わります。ここが良い、あそこが良いと、愛する者から誉められている人は、輝いています。自信に満ち溢れています。

 けれども本当に本当に輝き出す人間は、愛する者に、自分の良いところばかりじゃありません。自分の弱さをも受け止めてもらった者ではないでしょうか?

 かつて村上昭夫という詩人がいました。宮沢賢治に影響を受けた詩人で、若くして亡くなった方です。動物詩集という本を出し、動物に寄せて、多くの詩を書いています。

 その中に、「ひき蛙」という一編があります。こういう詩です。

 

お母さん/もし私が醜塊なひき蛙だったら/あなたならどうします

おお 恋人ならば/たちまち目をまわしてしまう/燃えるように見つめてくれた目を/恐怖とにくしみにかえて/千里も遠くに去ってしまう

もしもまた妻ならば/子を残して家に帰ってしまう/なぜかというと/その子も私と同じひき蛙なのだから

でもお母さん/あなたならどうします/私がひき蛙だったなら/ひき蛙よりも/もっとみにくいいきものだったなら/きらわれるまむしだったなら/つられたあんこうのぶざまだったなら/もしもあなたに/それらが私であることを告げたなら

 

 重度のマザコンを患っている人の言葉であるようにも思いますが、私は、この詩人が飢え渇いているものが、何であるかはわかる気がします。良い子だ、良い子だって言われたって、不安なんです。自分に自信がないとき、自分の持つ良いところに目を向けろと言われたって、駄目なんです。私の醜さが、本当にありのままの醜さが、愛する者の目の前に明らかにされたとき、どうなるのか?

 イエス・キリストの父なる神さまは、私たちの父となってくださった神様は、「そんなことは初めからわかっている」と仰ってくださるんです。「お前の弱さを知っている。お前の貧しさを知っている。お前の罪を知っている。お前が知るよりももっと深く知っている。ありのままに知っている。そのお前を捨てないんだ。そのお前を、私の独り子の命で買い取ったんだ。」と仰る。

 何の制限もなく、何の但し書きもなく、何の条件もなく、そういう私たちが、キリストに背負われ、贖われ、受け入れられ、今この時も受け入れられ続けているんです。

 イザヤ書49:15にこうあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」

 母親の愛だって、父親の愛だって、限界はあります。でも、主なる神様の愛には限界がありません。どんな否が、私を覆っていたとしても、私たちがどんなに罪深くても、キリストは、私たちに「否」と言われない。「否」と言っているように見えても、私たちが、まるごと、全部、残る隈なくこの方の「然り」に包まれるために、その為だけに、「否」を言われるのです。

 このお方の「然り」にすっかり包まれてしまうためだけに、わたしたちの「否」は、暴かれます。キリストが全てご自分の上にそれを背負うためだけに、私たちの「否」は、暴かれるのです。

 しかも、それによって私たちが、いつまでも自信なさげに、そわそわし続けるためではなく、そんなことはもう始めから全部わかり切ったことであることを告げ、私たちが深く安らうために、私たちが、心の底からこの方の愛を味わうことができるために、私達にも、私たちの否、つまり私たちの弱さ、貧しさ、罪をわかるようにさせてくださるのです。「然り」のためです。

 これで、今日の最後の言葉を聞く準備が整いました。洗礼を受ける前であろうが、受けた後であろうが、神さまの前では、分かり切った罪人であり、貧しい者である私たちの、行いは無であるのか?私たちが神の御前で無であるならば、私たちの言葉も行動も、意味あるものではなく、然りも否も色褪せてしまう、つまり、私たちの行いには、何の良いところもないのでしょうか?私たちは、神さまによって、無能を宣告されてしまったのでしょうか?

 そうではありません。確かに、私たちの言葉と行動が、永遠に耐えるものであるということは、もう言うことができないかもしれません。

 しかし、わたしたちの言葉と行動は、今まで聞いてきた神の真実、神の私たちへの誠実に対する、アーメンであり得るのです。アーメンとは、祈りの最後につける言葉ですが、これはもともと、「その通り」、「それは真実です」という意味の言葉で、相槌の言葉でありました。これは面白いですね。パウロは、神の真実であるキリストの恵みを身に受けた者は、神さまに相槌を打つというのです。キリスト者の行動、行いについてパウロが語っている言葉だと言えます。

 神の恵みを受けた者は、その神の恵みに「アーメン」と相槌を打ちます。それは言葉だけではないでしょう。その人の存在そのものが相槌になる。神さまの真実に対するアーメンという応答になるということでしょう。しかも、相槌ですから、やはり、そんなに自分を買いかぶることができるような大げさなことではないのです。小さな小さな業です。でも、決して無ではありません。マイナスではありません。

 この相槌は、少なくとも神様にとって小さなものではあり得ません。この小さなアーメンが聞きたいがために、その愛の応答を聴きたいがために、主なる神様は、キリストの全ての出来事を引き起こされたのだと言えます。神さまがキリストの命を込めて生み出された相槌です。

 つまり、神は私たちの小さな小さなアーメンを無視なさらず、喜んでくださるということです。この礼拝のことも、私たちの祈りのことも、私たちの平日の歩みにおけるアーメンの生活を、神様は無視なさいません。

 その為に神様は134年前に、ここにも教会を造られたのです。イエス・キリストにおける神の誠実、真実の愛を、受け入れて、後からそっとなぞるように相槌を打つ群れを、ここに必要としてくださったのです。そのような私たちのアーメンの生活は、どんなに小さくても、人を滅ぼすのではなく、生かすのです。

 その真実な愛の神に、私達も、全身全霊を挙げて、誠実に仕えさせて頂きたい、神の大きな然りの中で、隣人を生かす小さな然りでありたいと願います。

 

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