週報
説 教 題 「信仰による喜びと平和」 桶谷忠司先生
聖書個所 ローマの信徒への手紙15章7節から13節
讃 美 歌 546(54年版)578(讃美歌21)541(54年版)
今日の与えられた説教箇所ローマの信徒への手紙 15章7節-13節では「異邦人」という言葉が何度も繰り返し述べられています。
それに対して8節には「割礼のある者たち」即ちユダヤ人のことが述べられています。
ローマの信徒への手紙は、使徒パウロがローマの教会に宛てた手紙です。ここで何故、異邦人という言葉が何度も出てくるのでしょうか?初期のキリスト教、エルサレム教会が誕生した時は「割礼」の有無が信仰の証の条件となっていました。イエス様の後継の弟子達は「割礼」を大切にしていました。それに対してパウロは割礼の有無ではなく、ただキリストを信じる信仰」により救いに与ることができるのだと主張し、一時は意見が対立したことがあったのです。その意味ではキリスト教がユダヤ教の一教派としての存在に終らず、地中海沿岸地域に、そしてローマへと伝道されていった点ではパウロの功績は大きいものがあります。パウロはユダヤ人でしたが、ディアスポラと言われていた、散らされたユダヤ人であり、ローマの市民権を持っていたので自由な発想ができたのかもしれません。
「異邦人」とは元々ユダヤ人以外のユダヤ教を信じない異教の人々を指していますが、そのような異邦人にも救いがもたらされるのだとパウロは今日の聖書箇所で力強く語っているのです。
7節で言われている「神の栄光のためにキリストがあたながたを受け入れてくださった」というのは、イエス・キリストがローマの教会の人々を受け入れてくださった、イエス・キリストの十字架と復活によって罪がゆるされ永遠の命を与えて下さった、その救いのできごとを言っています。
使徒パウロは迫害する者から回心してキリストに従うものとなりました。パウロがキリストを迫害する急先鋒として活動していたにもかかわらず、回心に至ったことが使徒言行録9章に示されています。
ダマスコの回心と言われる出来事です。これはパウロ自身の悔い改めだけではなく、聖霊の働きによるものでありました。復活のイエス様がパウロに臨んだのであります。
「パウロ、パウロなぜ私を迫害するのか?」
の御声を聞いたのであります。そしてパウロはキリストを迫害する者からキリストを宣べ伝えるものへと変えられていきました。これは奇跡の出来事と言えます。
今、わたしたちはコロナ禍の中にいます。禍とは、わざわいのことですが、コロナ禍の中でいわゆる「自粛警察」という変な言葉が登場しました。営業している飲食店に「火をつけるぞ」と脅したり、マスクをしていない人を非難したり、自分が絶対正しいのだと彼らは信じ込んでいるのです。
この地上に絶対正しいことは存在しません。すべてのことは移りゆきます。パウロも「自粛警察」のように律法主義者として律法を守ることが正しいことなのだと確信して行動していました。イエス様の安息日を守らない行動や罪人といわれる人を招いての会食はゆるせませんでした。
パウロはキリスト教にに憎しみをもっていたのです。憎しみの反対はゆるしであり、愛です。「愛」を実践ものとしてパウロが変えられていったことは神様の御計画だったのです。
7節後半の「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」とは前述のようにユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者の対立を言っています。8節に記されているユダヤ人キリスト者は「割礼のある者」たちであり、異邦人キリスト者は割礼のない人々です。ここで、パウロは相手を受け入れなさいと勧告しています。信仰のプロセスは多少違っていてもパウロがローマの教会の信徒たちを受け入れたように互いに違いを認めて赦し合いなさいとパウロは語るのです。その「赦し」の基となるのがイエス・キリストの愛であり、キリストの十字架と復活です。9節以下の括弧のなかの御言葉は旧約聖書を引用しています。9節「そのためわたしは異邦人の中であなたをたたえ あなたの名をほめ歌おう」は詩編18編50節の引用です。これは異邦人が強調されています。異邦人がユダヤ人と共に神の御名をほめたたえる讃美の歌です。神讃美の詩編がベースになっているのが9節の御言葉です。10節の申命記32章43節の引用「異邦人よ 主の民とともに喜べ」、更に11節詩編117の1節の引用「すべての異邦人よ、主をたたえよ、すべての民は主を讃美せよ」と異邦人をここでも強調しています。パウロはローマ教会の中でのユダヤ人と異邦人のことを思い旧約聖書の引用を繰り返しているのです。これはパウロの熱い思いが根底にあるのです。パウロは信仰によって義とされる、いわゆる信仰義認を主張しました。
イエス・キリストによる信仰によって救われる、行いを強調するのではなく信仰、わたしたちの心の中の信じる心を強調したのでした。しかし、わたしたちの心の中の信仰は個人によってそれぞれ違います。信仰は具体的に目で見ることはできません。「すべての民よ、主を讃美せよ」と言っても主なる神様の何を讃美するのかが大切です。
神様が全地全能の神で、すべてのものの創造主であるから讃美するというのが信仰の基本ですが、では、神様が私達にどのように働きかけ、私達が神様とどのように関わっていくのかということが大切です。信仰とは目に見えない事柄ですが、そのことを確信して初めて信仰が成り立ちます。パウロはローマの教会の人々、さまざまな民族的背景の違いや風俗習慣の違いを乗り越えて異邦人たちにも主を讃美してほしい、そして7節で語られているように互いに相手を受け入れて、ユダヤ人も異邦人も相手を受け入れ共に神を讃美してほしいと願っているのです。ここでの受け入れるということは、単なる妥協や協調ではなく、パウロが語る信仰による一致、信仰義認による一致です。そのことが具体的に示されているのが12~13節の御言葉です。これも旧約聖書イザヤ書11章10節の引用です。
エッサイの根から芽があらわれることというのはダビデの父であるエッサイから、すなわちダビデ家の子孫からメシア、キリスト、救い主が現われることを示しています。しかも救い主であるイエス・キリストが異邦人を治めるため、救うためにやってこられるのです。そして異邦人はイエス・キリストに望みをかけるのです。このメシア預言はイエス・キリストの到来を預言する希望のメッセージであり、私達日本人も異邦人ですが、キリストの救いに与っているのです。
今日は教団が定めた平和聖日礼拝です。今日おかれている状況は決して平和が保たれているとは思われません。新型コロナウイルスによって人々はいろんな不安を抱えています。感染者が増えて人々は恐怖を抱いています。そして「コロナ鬱」といわれるコロナのことばかり考える余り不安に陥る人々もいます。コロナ禍の禍はわざわいですが、この禍は人間が自ら招いてものです。科学の進歩によってもたらされたウイルスと言ってよいのです。コロナに感染して死ぬのではないか、また重症化するのではないかという不安があります。また、もし感染して人々から差別・偏見を受けるのではないかという不安もあります。
このような不安の中にある私達は、どこに望みを置けばよいのでしょうか。13節では「希望の源である神が・・・」と書かれています。主なる神様は、果たして私達の希望の源となられるのでしょうか?
信仰によって希望がもたらされるのでしょうか?信仰は私たちが努力して勝ち取る、聖書の勉強をして強めるものではありません。信仰は主なる神様とイエス・キリストによって与えられるものです。ただ、神の恵みと導きによるものです。そのことを受け止めたときに私達は希望が与えられ、喜びと平和に満たされます。それは物質的な喜びや平和ではありません。心の中に平和と喜びが与えられます。
真の喜びと平和をいただくことができます。そしてそれは聖霊の働きによるものだとパウロは語るのです。聖霊が私たちに働かれ喜びに満たされ平和が語れます。聖霊の働きは目に見えません。聖霊は神様とイエス様から与えられるものです。私達が神様と向き合い祈りをささげた時に働きます。自己実現のためだけではなく、他者のため、隣人のため、教会のため、世界の平和のために真剣に祈ったときに働くのです。
私達キリスト者が聖霊に導かれ祈りをささげたときに平和が訪れます。この地上に平和の使者として私達が用いられた時に私達自身にも平和が訪れ、この地上にも平和がもたらされます。
平和聖日は戦争を二度と起こさないという決意だけではなく、私達キリスト者がイエス・キリストによって平和が与えられていることを信仰をもって受け止める時です。
パウロの11節の祈り「希望の源である神が信仰によって得られる、あらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれて下さるように」の祈りが私達にすでに実現しているのです。
祈ります。
主なる神様 御言葉を与えられありがとうございます。この地上に平和が訪れますように、あなたが守り導いて下さい。労している人々や病の中にいる人々に癒しと平安を与えて下さい。この地にたてられている金沢元町教会をこれからも育み御守りの中においてください。今週も私達を平和の使者として用いて下さい。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン
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