4月12日イースター礼拝をお届けします。
聖書はマタイによる福音書25章31節~46節です。讃美歌は古い讃美歌集(54年版)の154番です。
200412金沢元町教会イースター礼拝説教
聖書 マタイ25:31-46
イースターおめでとうございます。改めて教会の古いイースターの挨拶をいたします。「主はよみがえられた。真によみがえられた。」
私ども教会の希望は、この復活にかかっています。この復活によってこそ、十字架による救いは真実の神の力であったことが、証しされているのですし、また、それだけでなく、このキリストのご復活が、ただこのお方だけの特別な事柄ではなく、この私たちのための復活であった。私たちもまた、死して後、滅びに消えずに、復活の命に生きるのだと、その希望の根拠です。
教会が語る希望は、単なる罪の赦しに留まりません。罪の赦しは手段であり、その目的は、神が人間を滅ぼさずに、よみがえりの命を与え、永遠に御自分との親しい交わりの内に生き生きと生かすということです。ここに教会の希望があります。
けれども、先週読んでいた本に次のような言葉がありました。それは「墓がなければ復活はない」という言葉です。復活の命とは単純な永遠の命ではないのです。はじめもなく終わりもない命ではない。断絶を知らない命ではない。死を知らない命ではない。復活の命は死を知っている命です。私たちキリスト者の希望は、単純に底抜けに明るいというものではありません。世の辛さや、罪の暗さを知らない明るさではありません。ご復活のキリストの両手と脇腹には、十字架の傷跡、槍で貫かれた傷跡、この方は、死を通って来られた方であること、神の怒りの裁きをその身に徹底して受けた方であることを、示す傷跡が残り続けているのです。
だから、その方が下さる希望に生きる私たち、その方と同じ復活の命に生かされることを待ち望む私たちも、当然、裁きを勘定に入れなければなりません。あるいは死を無視して単純な永遠の命を得るかのように生きることはできません。われわれに与えられるのは復活の命、我々が待ち望むのは、この体が贖われる復活の時。そうであるならば、私たちは、自分のことを死と無縁になった者と考えることはできません。中世の修道院のキリスト者たちも、宗教改革以降のキリスト者たちも、メメント・モリ「死を覚えよ」と語ったことを忘れてはなりません。墓がなければ復活はないのです。その意味では、教会は、誰よりも死のリアリズムに生きるのです。
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けれども、自然の命とは異なり、キリストに結ばれた死は、限界のない死ではなく、限界づけられた死となり、キリストに結ばれた復活の命は、限界のない命となっていることも見逃すことはできません。私たちも世の人と同じように、死を恐れ、命を愛します。しかし、教会の死の恐れ方には、限界があり、その命の愛し方には限界がないのです。
今日お読みした聖書個所、特別今日のために選んだ個所ではありません。淡々と読み進めてきたマタイによる福音書の続きです。けれども、良い箇所が与えられたと神様に感謝しています。この2020年度のイースターにふさわしい箇所を神さまが与えてくださったと思います。私たちが生まれ持っている限界のある命と限界のない死が逆転し、死と裁きに限界が設けられ、命が無限に重んじられる世界のはじまりを語る箇所だと思うのです。
キリストの命に結び合わされた新しい命は、どんなに重んじても重んじすぎるということはないのです。
34節以下、「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられ
るのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
これは、福音、良き知らせ、しかも、二重に良き知らせです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」一方において、私たちが小さな者にされる時、この世において自分の命が低く見積もられ、軽く扱われ、自分自身の目にさえ、自分は取るに足りないつまらない者、いてもいなくてもどうでもいい者、むしろ、牢にいるというのだから、あからさまな罪人として断罪されているようなそのような私たちが小さな小さな者となるとき、この世界の王である神は、私たちと無限に連帯されるというのです。この世界の王なる神が、虫けらのように小さくなった私とご自分を同一視されるというのです。「この小さな者にした親切は、私にした親切なんだ。この小さな者と私は完全に一つだ。」神に一つに結ばれる時、我々の命には無限の重みが加えられるのです。私たちの命には、どんなつまらないように見える者の命にも、罪人の命にも、神の命の重みがある。しかも、このことは、ただ口先だけのことではありません。
ただの思想ではないのです。この歴史の中に立ったキリストの十字架が、この主イエスの言葉を出来事とした。誰も拒否できない、なかったことにはできない客観的な事実としたのです。キリストは罪人のために十字架に架かり、罪人に自分の命の重みをお与えになったのです。
更にこれが、福音であるのは、私たちの小さな小さな業が、大きく大きく評価されるようになったからです。主イエスが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とお語りになり、祝福された人々、神の国を継ぐ人々と呼んでおられるのは、大きな愛の業に生きることができた者ではないのです。愛の名に価することもないような、小さな小さな親切に生きた者達に対してなのです。小さな者の貧困を解消した者ではないのです。牢からその人を解放した者ではないのです。旅人を家族として迎えた者ではないのです。飢えているのを見た時パンを与えた者、喉が渇いていたときに一杯の水を飲ませた者、牢にいる者を見舞った者、旅人の一夜の宿を提供した者、ただそれだけの者です。それがどれだけ小さな業であったかというのは、本人が自分はいつそんなことをしただろうかと、忘れてしまうほどに、小さな業なのです。しかし、そのような小さな業に生きる者が、神の国を受け継ぐ神に祝福された者と呼んで頂くのです。なぜならば、その小さな者になす、小さな業は、小さな者に対する神の無限の連帯のゆえに、神に対してなしたことと数えられるからです。こんな喜ばしい知らせはありません。とるに足りないわたしの小さな小さな業が、神の注目される、神が大きく喜んでくださる行為とされているのです。
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主イエスはこの主イエスの言葉を聞く私たちを極度に神経質にしたいのではありません。古今東西、知らずにもてなした相手が、神の使い、聖なる者であり、その報いを期待したわけではない小さな者への親切によって、大きな大きな天よりの報酬を受けることになるという物語は無数にあります。けれども、いつでもその可能性を考えながら、自分がその傍らを通り過ぎてしまったあの人は、身をやつした神ではなかったか、あの人がそうではなかったかと、絶え間ない緊張状態に強いるような脅迫状態に私たちを陥らせるのが目的ではありません。
そうではない。むしろ、この小さな自分の小さな行いなど、一体全体、どんな価値があるのか?たとえば、社会の構造悪を覆すのに何の役にも立たない、政治的な大きな力が行使できない限り、抜本的な解決にはならないと、落胆し、良い行いについて、諦めてしまっている私たちに対して、私たちの置かれたその場における小さな行動の無限の価値というものを教えるのです。
あなたが差し出した一切れのパン、あなたが差し出したいっぱいの水、あなたの声かけ、あなたの訪問、たまたま出会った、たった一人の人になした小さな小さな業が、一体全体何になるのか?いいや、あなたのその小さな行為には、無限の価値があるんだ。それは、神であるこの私への、この私が喜ぶ奉仕であるのだと、元気づけてくださるのです。
これは、二重の福音です。小さくされた私への神の無限の共感であり、また、私の隣人への小さな行為を無限に大きくしてくださる神の祝福という二重の福音です。そして、この二つは、誰が受ける福音に与る者で、誰が与える福音に与る者であるかという線引きはないのだとある説教者は申します。
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確かに順番はあるのかもしれません。それは、私たちの誰もが等しく、まず、受けた者であるということです。神に無限の共感をして頂かなければならない小さな者、貧しい者、罪人であるということです。けれども、富める者になったから、今度は与える側に回るというのではありません。高みに立つのではありません。神より、与え続けて頂く必要のある貧しい者でありながら、しかし、その神の愛を知った貧しい者が、その貧しさの中から、隣人に与え始めるのです。決して十分とは言えないもの、愛の名に価しないかもしれない小さな小さな業を始めるのです。
今、私たちが置かれている状況下において、恐らくこの歴史上、今まで誰もそれを愛の奉仕と名付けたことはなかった、本当に小さな小さな業が、大きな大きな愛の奉仕であると言われるようになりました。つまり、若者たちの間で、不要不急の外出を避けて、家に留まる行為を指して、「おうちにいることがヒーロー」と、ハッシュタグをつけて、インターネットで発信されています。「お家にいること」、普段ならば、愛の業なんて決して呼べない、そんなことが、大きな愛の行為なんだ、人の命を守ることなんだと、そういう状況が私たちの目の前にあるのです。
私達教会が、今日の聖書個所において、主イエスより教えて頂いていたことを、この世が改めて教えてくれているような気がいたします。どんなに小さな業でも、小さな者に示した同じように貧しい私たちの焼け石に水と思えることでも、神様は、喜んでいてくださる。祝福された者と呼んでくださる。私の御国を継ぐ者と言ってくださる。なぜならば、同じように小さな受ける者にも与える者にも、今やキリストの命が注ぎ込まれているからです。貧しく小さくあり続けながら、同時に、神の最愛の者であるからです。もう一度、この愛と励ましの言葉を、このイースターに受け取り直したいと思います。
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41節以下の今まで話してきたことと裏返しの状況は、皆さんが特に気になる言葉であるかもしれません。しかし、これは、今まで語ったことが真実であるならば、コインの表と裏のように、当然の帰結を語っている言葉に過ぎません。神が小さな者に無限に共感してくださり、小さな小さな良き業を大きく大きく取り扱ってくださるならば、必然的に、私たちが小さな者に対してしなかった共感、しなかった親切は、神への背きそのものとなってしまいます。これは、コインの表と裏です。そう語らないわけにはいかない。
けれども、もう一度申しますが、この物語は、我々を愛の業へと脅迫しようとするものではなく、私たちが自分の小ささと貧しさに心折れ、自己卑下と自暴自棄に陥ることなく、慰め、励まし、整えようとするための言葉です。終末の裁きを想像させる言葉にも関わらず、ある神学者に言わせれば、決して最後の審判、永劫の罰などを我々が考える時の材料にはならないと言います。なぜならば、この言葉を語り終えた主イエスが、向かっていくのは、十字架だからです。
小さな愛に生きることにも疲れてしまう。まさに、それが隣人の命を救うことになるのだと言われても、家の中に留まっていることすらできない、自分の命も隣人の命も、神の重みがあることを知らない私たち、いや、神の子そのものを十字架につけて殺すことすら厭わない罪の私たちの罪を、担うために、キリストは十字架に向かって歩まれたのです。
そこで、左の山羊の列に分けられ、永遠の火の中に入れられる他ない私たちに代わって、十字架で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と裁きの全責任を負ってくださったのです。
ここで私が大好きな言葉、実践神学者ルドルフ・ボーレンという方が語った言葉を引用するのは良いことだと思います。ボーレンは、Ⅰコリント4:5の後半、主が来られるとき、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのはおほめにあずかります。」という御言葉を説いて言いました。
「来たりつつある神は、そのしもべたち、しもめたちをほめるために来られます。」そしてこうも言います。「失敗したことも、ほめていただくことがないというだけで取り去ります。」これが十字架とおよみがえりの福音です。そこに生かされる者の言葉です。
倦まず、恐れず、失敗しても何度でも、立ち上がり、赦しの中、神のほめようほめようとされるまなざしの中で、私たちは、欠けだらけの小さな業をキリストにおいて一つとなっている神と隣人のために献げさせて頂けるのです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、人と人とが隔てられることこそ、悪のなせる業であり、神と人、人と人との隔ての壁をなくすことこそが、キリストの十字架の御業であったことを告白する私たちにとって、距離を取ることこそ、愛の業に繋がるという今の状況は、正直に言って、戸惑うばかりのことです。しかし、今は、それこそが、愛の業だと信じます。けれども、私たちは、直ぐに、その愛の行為を逆手に取り、人を差別し、分断する罪の思いを満足させるために、用い始めてしまうと思います。主よ、私たちを憐れんでください。この世界を憐れんでください。そして、三位一体の神の間にある混同しない区別ときちんとした結びつき、ある神学者が表現したような、孤立せず、絆が断ち切られない、しかし、相手の足を踏まない、傷つけないダンスの距離を保つ知恵を与えてくださいますように。今、私たちは開かれた傘のような教会として、置かれたそれぞれの場で、この地域、日本、世界を包み込むような執り成しの祈りをし続けることができますように。
主よ、病める者、不安の中にいる者、悲しむ者、奮闘する者、疲れ切った者、どうぞ、その者たちと共にいて、癒し、励まし、慰め、力づけ、休ませてくださいますように。
この祈りを、死を打ち破り、墓よりよみがえってくださった。イエス・キリストのお名前によって祈ります。
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