2024年3月10日 主日礼拝 ルカによる福音書15章 大澤正芳牧師
聖書の中のゴールデンテキストの一つを司式者に読んでもらいました。
ルカによる福音書第15章の主イエス・キリストがなさった三つのたとえ話です。
一つづつ読まれることが多いと思いますが、今朝は、三ついっぺんに読みました。
皆さんも司式者の朗読をお聞きになりながら、そうすることによってこそ、迫って来るものがあったのではないかと思います。
たとえ話を三ついっぺんに読むことによってこそ、はっきりと明らかになることがあると、私は思います。
たとえば、そうすることによって一番大きないわゆる「放蕩息子のたとえ話」と呼ばれる物語においても、主イエスが最もお語りになりたいことは、あなたの心を入れ替えて、神に立ち返りなさいということではないことが、三ついっぺんに読むことによって、はっきりするようになると思います。
たしかに三つの物語共に、「悔い改め」が主題となっています。
主イエスの話を聴こう、主イエスの傍らにいたいと、集まって来た罪人、徴税人たちに対して、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平不満を言いだした清く敬虔な人々に、主がお語りになったたとえ話です。
私の話を聴こうと、この人々が集まってきたことは、天の父の喜びではないか?
あなたがたが日頃から、世俗的な生活を送り、汚れにまみれ、神を顧みないどうしようもない奴らだと怒っている、その人々が、神の言葉を聴きたいと、今、ここに集まっているのは、こんなに喜ばしいことはないじゃないか?
死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだ。
一緒に喜んでくれ。一緒に喜び、祝ってほしい。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
だから、この三つのたとえ話をお語りになった主イエス様は、悔い改めについて語っておられる。それは間違いありません。
しかし、悔い改めについてお語りになりながら、「あなたの心を入れ替えて、神に立ち返りなさい」と迫ろうというのでもないというのが、三つのたとえ話を一篇に読むことによって、はっきりしてくると思います。
なぜならば、最初の二つのたとえ話を聴けばわかります。
迷い出てしまった一匹の羊は、自分で帰って来たのではありません。
羊飼いが、九十九匹を残しておいて、その失われた一匹が、見つかるまで、執拗に、しぶとく探し回ったから、その一匹の羊は、担がれ、連れ戻されたのです。
無くしてしまった一枚の銀貨は、銀貨ですから、当然、自分から転がって来て、見つけ出されたのではありません。
その家の女が、見つけ出すまで執拗にしぶとく、念入りに探したから、手元に戻ったのです。
そうです。
一人の人が悔い改めて、天の父なる神の元に立ち返るというのは、悔い改めるべき罪人の側にイニシアティブがあるのではありません。
悔い改めるならば、主なる神さまは、その悔い改めを爆発的に喜んで、迎え入れてくださるのだから、あの放蕩息子のように、悔い改めなさいというのではないのです。
常軌を逸した羊飼いであり、常軌を逸した家の女主人である父なる神様が、徹底的に追いかけ、探し出され、逃さないから、失われた者は、神様に担いで連れ戻され、悔い改めに至るのです。
それ以外ではありません。
そして、主なる神さまは失われた者を探し出してお見つけになると、周りの者たちを呼び集めて、祝いを始められます。
コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスを完全に度外視したパーティーを開かれます。
銀貨一枚1ドラクメ、日給一日分のお金です。
それを朝から晩まで探し回り、いいえ、見つかるまで探すというのですから、何日も、何日も、その失われた銀貨を探しまくっていたと想像したって少しも構わないでしょう。
いいえ、もっと本当のことを言えば、一人の罪人が悔い改めて、真の主人である神さまの元に立ち返るためには、何年も、何十年もかかるということを、私たちはよく知っています。
隣に座るあの人、この人のこととして実感しています。
いいえ、この自分自身のこととして、何年も、何十年もかかって、神さまが捜し続けてくださり、見つけ出してくださり、御自分のものとしてくださったこの自分なのです。そうとしか言いようがありません。
その1ドラクメの私が探し回った末に見つかると、周りの人を皆集めて、お祝いを始めてしまうのです。
コスパとか、タイパとか、そんなものは、完全に吹き飛んでしまっています。
それが、私たちの主のなさり方です。
失われている者を見つけ出すために、全てを注ぎこまれます。その独り子すら注ぎ込まれるのです。全世界、全宇宙と比較しても釣り合わない御子の命を注ぎ尽くされます。それゆえ、失われたものは必ず見つけ出されるのです。
これが、私たちの主のなさり方です。これが福音です。
この良き知らせを聞いたならば、この良き報せがこの胸に確かに届いたならば、悔い改めないなんてことはあり得ません。
私はそのように信じています。
もしも、一人の悔い改めるべき人が、まだ悔い改めに至らないということがあるならば、それはただ、まだ捜されている途中なだけだと、私は信じています。
見つかるまで休むことなく探し回り続けるお方は、悔い改めないその罪人を探し回り続けておられる。だから、やがて、その人を見つけ出し、必ず連れ戻されるのです。それは今日かもしれません。明日かもしれません。何年も、何十年先かもしれません。終末の日を待たなければならないかもしれません。
しかし、私たちの主なる神さまは、諦めません。必ず担いで連れ戻されます。私はそう信じています。
11節以下の放蕩息子の立ち帰りのたとえ話は、たしかに最初の二つのたとえ話とは異なるところがあります。
父のもとから失われている者は、弟息子ではありますが、意志を持った一人の大人の人間です。
人格と責任を持った一人の大人が、自分の意志で出て行き、また自分の意志で帰ってくるのです。
この点、獣や、コインとは違います。獣やコインにはできなくても、この弟息子は、自分の意志と、自分の足で帰って来られるとも言えます。
つまり、獣やコインと違って、弟息子は自分で協力できるわけですから、戻るのは、ずっと簡単だと考えることができるかもしれません。
我に返って、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そう言えるのではないか?
神さまに造って頂いた頭とハートがあるんだから、手と足があるんだから、捜してもらわなくたって、帰れるでしょって。
しかし、だからこそ、立ち帰りは難しいとも言えるのではないかと思います。
なぜって、獣はちゃんと見張っていれば失われないからです。コインは、注意しておけば、自分で転がり出て行くことはないからです。
でも、私たち人間には、自分の意志と足があるから、見張りを振り切ってでも、自ら好き好んで失わてしまいます。だから、度々失われてしまう。見つけ出しにくいとこほに、いよいよ深く失われてしまう。
そうではないでしょうか?
だから、この三つ目のたとえ話を読みながら、実は、弟息子は、財産を分けてもらってその家を出て行く前から、失われていたのではないかという人がいます。
私もそうだろうと思います。
生前贈与を受けて、こんな家とっとと出て行きたい。大人になり、その権利が得られる前から、ずっとずっとそう思っていたのかもしれません。
きっかけさえあれば、直ぐに、この親の元から、物理的にも出て行ってやろうと思いながら、本当は、ずっと前から、心が離れてしまっていた。本当は、とっくに失われてしまっていたのではないかと思います。
財産の分け前を得て家を出て行く前に、失われていた。新しく開けた世界に幻惑されて、あれよあれよという間に放蕩でその身を持ち崩す前に、失われていた。身ぐるみはがされる前に、とっくに、完全に失われていたのではないかと、そう思うのです。
その家に身を置きながらも、そもそも失われていたからこそ、出て行った。
そう考えると、自分の意志と足を持った弟息子の失われ方は、最初の二つのたとえ話の羊と銀貨の失われ方よりも、ずっと深く、ひどい失われ方だと言えるかもしれません。
ずっと見つけにくいのです。ずっと立ち帰り難いのです。自分の力ではどうにもならないのです。
そのように三つのたとえ話を同時並行的に、ああでもない、こうでもないと思い巡らしていきますと、三つ目のたとえ話の父もまた、失われた一匹の羊を探し回る羊飼い、失われた一枚の銀貨を探すために明かりをつけて、念入りに部屋を掃きまわる女主人と、少しも変わらない活動的な探索者と考えてみるべきではないかと、心誘われます。
いいえ、ある側面から言えば、羊飼い、女主人以上のアクティブさをもって、失われていた息子を捜して取り戻そうとしていたのだと、考えた方が良いのではないかと、心誘われます。
三人の娘の父として、一人の人の夫として、また一つ群れの牧師として思うことは、一人の人の成長や、回復を待つことは、本当に、簡単なことではないということです。
手を変え、品を変え、しかし、許し、待つことも大切なことです。
それはあまり、具体的な例を上げずとも、ここにいらっしゃるお一人お一人が、御自分の経験としてよくお分かりになることではないかと思います。
親として、教師として、また友人として、一人の人が回復し、成長し、立ち上がるためには、手を変え、品を変え、関わり、しかし、また、赦し、スペースを開けて、待たなければならないということも必然です。
それはただがむしゃらにいじくりまわすよりも、ずっと忍耐を要すること、ずっと心と身体を使うことだとも言えるのです。
とっくの昔にすでに失われていた弟息子を取り戻すためには、父は、財産を分けてやらなければならなかったのではないか?息子が出て行くことを許さなければならなかったのではないか?帰ってくるのを戸口で来る日も来る日も、じりじりと待ち続けなければならなかったのではないか?
そのありかたは、ただ、どんと構えて待っているというのではありません。
引き絞られた弓のように、少しも動きがないようでいて、切れることも、弛むことのない緊張という見えないけれども、激しい活動の中に、あり続けることではないか?
その待つことにおいても、激しく捜し続けていると言えるのではないかと思うのです。
そして、止むに止まれぬ状況に追い込まれて帰ってきた息子を、まだ遠くの方で見つけると、放たれた矢のように、20節です。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
これが、私たちの主なる神さまのなさり方です。
この私たち罪の人間というこんがらがった糸のような存在、たとえば、このお方を礼拝するこの礼拝の場に、その身を置きながらも、実際は、失われてしまっていることが、いくらでもあり得る、この複雑怪奇な私たち人間を、探し回る主なる神さまのなさり方は、このようなものでだと、主イエスは教えてくださいました。
天の父はあなたのことを、失われた一匹の羊のように、野を越え、山を越え、茨の道を越え、昼の日差し、夜の暗闇を越えて、追いかけて来られる。
天の父は暗く狭い穴倉に引きこもっているようなあなたのことを、失われた一枚の銀貨のように、灯りを付けて、家の隅々まで残る隈なく掃き清めて、見つけてくださる。
縄でも鎖でもつなぎ止めておくことはできず、それを引きちぎって出て行く、悪霊に憑りつかれたようなあなたを、許し、行かせ、戸口に立ってじりじりと、正気を取り戻すのを待ち続けてくださる。
それらすべてのことが、あなたちを探し回り続け、見つけ、連れ戻す、主なる神さまの本当にしぶといなさり方だと、主イエスは教えてくださいました。
いいえ、これで終わりではありません。これは、三つの失われたものの物語ではなく、四つの失われたものの物語です。
その四つ目の失われているものとは、明らかに、この物語を語りかけられているファリサイ派、律法学者と呼ばれる人々、そして、その仲間たちのことであります。すなわち、兄息子のことです。
今日、ここにいるすべての方々は、父の家から出て行った者ではありません。
神を礼拝するこの礼拝の中にいらっしゃり、それゆえ、父の家の内にいるお一人お一人です。
けれどもそうでありながら、天の父のなさり方に不満を抱き続ける兄の心に生きているところがあるかもしれません。
私もまた自分自身を括弧に入れて語っているのではなく、むしろ、ここにいる誰もが、兄息子の心がよくわかる兄息子を心に抱えて生きている自分なのだと言いたいのです。
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
父よ、主イエスよ、それは不公平ではないですか?あなたにずっとお従いしてきた私たちのことをこそ喜んでは頂けないのですか?
今、ここであなたを礼拝している私たち、あなたのものとして、10年、20年、30年、力と時と宝を捧げて、お仕えしてきた私たちをこそ、褒めてくださらないのですか?
その忍耐、その忠実、その成長を、認めてくださらないのですか?
私は、仲間とともに楽しむための子山羊一匹頂けないのですか?
こんなんじゃ、何年も、何十年も、忠実であり続ける甲斐がないじゃないか?
このような兄息子の気持ちがわかってしまう時、そして、それは痛いほどわかってしまうのですが、やっぱり私たちは、いつの間にか、父の家にいながらも、失われた者となっているのです。
あの弟、家族の財産を食い潰したあの弟、あいつが本当の悔い改めに至ることなんかない。また、残った財産を食い潰すだけだ。父よ、あなたの喜びはぬか喜びに過ぎない。
主イエスよ、あなたの周りに集まっているあの罪人、徴税人達は、ここから出て行き、あなたの目が届かないところに行けば、何をしでかすかわかったものではないのです。
獣のような心、血の通っていない冷たい金属のような心凍った者であることが分からないのですか?
このように怒り狂っている兄息子です。
ところが、天の父は、このような失われている者のために、あの爆発的な喜びの宴、天をどよめかせ揺さぶるような罪人の悔い改めを祝う宴をそっと抜け出してきて、失われている兄息子の傍らに立ってくださいます。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」
インマヌエル!!インマヌエル!!すなわち、神は、我らと共にいます。我ら罪人と共にいます。
聖書の証しする福音とは何でしょうか?自分が信仰者として成長していくを喜べることでしょうか?それによって神に褒めて頂けるということでしょうか?
たしかに、私たちは成長するでしょう。主なる神さまは褒めてくださるでしょう。
しかし、福音の本当の喜びとは、主であるこのお方が、わたしといつも一緒にいてくださるこのことです。
私を捨てず、絶対に私を諦めず、共にい続けてくださるお方が、私の主でいてくださるということです。
そのことに比べれば、罪の赦しも、永遠の命も、人間としての成長も、ささいなことです。
あるいは、罪の赦し、永遠の命、信仰者としての成長というのは、結局のところ、主がこの貧しい私たちと共にいてくださるということの、色々な側面からの、色々な言い換え、それも真実の一端を表すためのほんの小さな言い換えに過ぎないというのが正解なのかもしれません。
だから、それら全部をひっくるめて、聖書の福音とは何なのかと言うならば、インマヌエル、「神は我らと共にいます」、この一言に尽きると私は信じます。
インマヌエル、それゆえ、ただただこのお方によって、失われた者は、必ず見つけ出されます。必ず連れ帰られます。
死んだ者が生き返ります。
そうです。悔い改めと立ち返りとは、死者の復活です。
人間業ではありません。それは神の力によることです。私たちをどこまでも追いかけられ、立ち戻らせる駆け寄る神の力です。
この世界まで、十字架まで、陰府まで、私たちを追いかけて来られる十字架とご復活のインマヌエルの神さまです。
あなたをお見つけになったあなたの主は仰います。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」
必ずやり直せます。
あなたは駆け寄ってくださる神の者であり、神はどんなあなたであっても共におられるからです。
だから、あなたは立ち直り、真の父の元、あなたが本当のいるべき場所に帰ることができるのです。
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