限度を超えては誇らず

5月30日  コリントの信徒への手紙第二 10章12節~18節

最近ずっと頭の中に鳴り響いている讃美歌があります。残念ながら、この説教の後に歌う讃美歌ではありません。一昨日ふと気付いたのです。ああそういえば、最近ずっとこの讃美歌を口ずさんでしまうなと。古い讃美歌の356番です。「わが君イエスよ」という讃美歌です。特に第4節が、気付いたら頭の中を巡っています。

 こういう歌詞です。「わが君イエスよ、君いまさずば、/われはのぼらじ、あまつみくにに/いかにたのしき すまいありとも」。

 もしも、私の主人であるイエスさまがそこにおられないならば、天国には行きたくない。それがどんなに素晴らしい理想郷であったとしても、イエスさまがおられないならば、行きたくない。

 そういう讃美歌です。この讃美歌356番のメロディーは、外国のものですが、歌詞は、翻訳ではなく、奥野昌綱という日本人の手によるものです。

 この奥野という人は、横浜の宣教師ヘボンが来日した際に、彼の日本語教師になった方で、そこで初めてキリストに出会いました。

 北陸学院を作った我々に親しい宣教師トマス・ウィンの叔父であったS・R・ブラウンから洗礼を受け、その5年後に日本で最初の牧師の一人となりました。文語の聖書翻訳や、讃美歌編集にずいぶん貢献された方です。356番の歌詞はその方の創作です。

 讃美歌略解では、この讃美歌は、すべて否定的表現で書かれているので、「明治時代のキリスト者のきびしい自己否定の精神をあらわしている」と解説しています。

 けれども、私はそうだろうか?と思います。侍であった牧師らしく「武士は食わねど高楊枝」というような、悪く言えば気位の高いやせ我慢とさえ言われかねない心を表している歌詞なのだろうか?そうではないと思うのです。

 これは、「イエスさまがいらっしゃらなければ、天国には行きたくない」これは、キリストの愛に打ち震えている人の言葉ではないかと、私には思えるのです。

 中世のある神学者は、キリストが示してくださった愛のことを、「神の狂おしいほどの愛」(ニコラス・カバシラス)と言いました。十字架に至る愛です。ご自身の体と血を、私たちへの命の糧として差し出される不合理で、度し難い愛です。

 神の狂おしいほどの愛は、父と一つである、父の独り子、子なる神であるお方が、全く我々と同じ人となり、私たちの兄弟となり、十字架にかかり、神に捨てられる悲しみを味わい尽くすというなりふり構わない出来事となったのです。

 このキリストの狂おしいほどの私たちへの愛を思うと、イエスさまがいなければ、天国なんて行きたくないなってなります。

 少し変に聞こえるかもしれませんが、私たちにとっての本当の救いの喜びは、罪赦されたことだろうか?と私は思うのです。イエスさまを信じて、永遠の命を頂いたことが喜びなんだろうか?と思うのです。あるいは、生まれながらの自分では守れなかった神の言葉に、聖霊を頂いた今は、お従い出来るようになったのが救いの喜びなのか?と思うのす。

 なるほど、どれも信じられないような恵みだと思います。罪を赦されることも嬉しい。信仰者として成長することも嬉しい。永遠の命を頂けることは、もっと嬉しい。

 でも、本当に本当に嬉しいことは、狂おしいほどに私たちを愛してくださるイエスさまがいらっしゃるということ、このお方に、出会ったということではないでしょうか?

 私たちは、何か利益を得ようと信じたわけではありません。イエスさまに心がほだされてしまったのです。天の父なる神様に、ハートが掴まれてしまったのです。

 そういうものじゃないでしょうか?

 前にもお話したことがありますが、私が共に働いた鎌倉雪ノ下教会の主任牧師の川﨑先生が、洗礼の試問会の時に、よく最後に尋ねる言葉がありました。

 それは、「イエスさまのこと、好きですか?好きですよね?」という問いです。問われた人は時に顔を輝かせながら、また時に、はにかみながら、しかし、皆さんいつだって、「はい」って仰るんです。「イエスさまが好きです」と。それはこの教会に連なる皆さんも同じであると思います。

 なぜ、私たちは洗礼を受けたのでしょうか?私たちのためになりふり構わない父なる神様、イエスさまの狂おしいほどの愛に、ハートが鷲摑みにされてしまったからです。

 この教会の牧師になって、5年目ですけれども、私が何度でも立ち戻って頂きたいと思っていること、求道者に伝えたいと願っていることは、シンプルに言ってしまえば、これだけです。

 聖書に記された神さまの、イエスさまのなりふり構わない私たちへの愛を証言すること、そしてそれを聴いた人が、「私はイエスさまが好きだ。イエスさまにぞっこんだ」と言えるお手伝いをすること、そのためにこの教会に呼ばれ、仕えています。

 この神の愛を聞かされ、「もしも、イエスさまがそこにおられないならば、天国には行きたくない。それがどんなに素晴らしい理想郷であったとしても、イエスさまがおられないならば、行きたくない。」と、自分の利益を忘れて思わず言ってしまうほどに、私たちの心を鷲摑みにする神様を、証ししたいのです。

 キリスト者としての自分自身の歩みを振り返ってみますと、結局、自分が洗礼を受けたい、牧師になろうと思わされたのも、この神さまの愛を知ったからです。

 立派な人間になりたい、強い人間になりたいという願いをもって教会に足を踏み入れました。しかし、神さまの狂おしいほどの愛に出会った時、そういう思いは全部どこかにすっ飛んでしまいました。ただ、イエスさまのことが好きになりました。イエスさまのために生きようと思いました。

 信仰生活を続け、牧師となる訓練を受ける中で、聖書の豊かさ、複雑さ、色々な信仰理解、信仰の強調点の違いがあることを学び、身に着けました。しかし、今、結局、戻らされた所は、ここでしかありません。このことが、牧師としての私の割り当てなのだと思います。

 「イエスさまのこと好きですか?好きですよね。」この教会に関わる皆さんが、この問いに「はい」と初めて言える、また何度でも言い直せるお手伝いをするために、遣わされたのだと思います。

 パウロは今日の個所で、自分の限度、自分の範囲ということを語っています。自分には神が割り当ててくださった限度と範囲があると言います。

 神様は私たち人間を召され、協力者とし、御自分の使命をお授けになります。けれども、その使命は神さまの使命だからと言って、途方に暮れるほど無限なものではありません。

 一つの教会が、神の教会として立ち、その使命を果たしていくために、一人の人が全部完全に仕事をなし終えるということはありません。皆欠けがあります。皆割り当てがあります。

 パウロですら、自分の限度と範囲があり、自分以外の伝道者の助けを借りる必要があります。でも、それは、欠けではなく、恵みと言った方が良いかもしれません。

 そもそも人間の手を借りずとも、無から有をお呼び出しになることがおできにある神様が、私たちを協力者として召し出されるのは、愛以外の理由はありません。御自分の喜びに、私たちを与らせたいからです。ひたすら、もったいない話です。

 神様は、それを一人の人だけではなく、多くの人に味合わせたい。だから、牧師は変わっていくし、そもそも、長老たちがいる、いいえ、キリスト者たち全員が、王の系統を引く祭司(Ⅰペトロ2:9)と呼ばれて、教会が教会らしくなっていくために、それぞれの働きが与えられています。

 一人一人に割り当てがあります。それだからまた、一人の人の働きには、限度と範囲があります。当然のことです。悪いことでもありません。

 パウロほどの人もまた、自分の割り当てにも限度と範囲があると言います。それを越えて、自分の手にすべてが握られているとは考えません。自分だけがキリスト教会全体の命運を握っているとは考えません。

 13節にあるように、神様が割り当ててくださった限度と範囲の中でだけ、自分は誇るのだと語ります。

 やってもやってもできていないことばかりが目につきます。私たちの住むこの世界と同じように、パウロが置かれているのは異教社会です。

 しかも、コリントの町には、私たちの町とは違い、聖霊病院も、北陸学院も、そのたくさんのキリスト教保育園、幼稚園もありません。完全アウェーです。

 けれども、彼は自分の働きは、際限のないものではなく、神様から割り当てられた限度と範囲を持つものであることを知っています。だから、その範囲内を越えて、背伸びしようとは思いません。与えられた働きに誇りを持つ。満足いたします。

 そのパウロにとって、コリント教会こそが、神に割り当てられた自分の働きの場です。14節、「わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を越えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。」

 しかし、その自分の開拓地であるコリント教会に対しても、ここは自分の教会、これこそが自分の割り当てと、誰にも触れさせないというわけでもありません。そもそもテモテや、テトスらと一緒に複数人で仕えているのだし、また、アポロのような自分たちとは少々違った経緯をたどって伝道者になった人をも、重んじていたのです。

 その意味では、コリント教会という一つの教会が立つためには、伝道者、説教者という割り当てを与えられた人も、一人ではなく、何人も必要としているとパウロは考えていたということでしょう。しかも、それは、同じ教会で同じ訓練を受けたというのではない、少々毛色の違った伝道者達との協力を含んでいたでしょう。

 しかし、それは、自分の割り当てを疎かにしても良いということにはなりませんでした。パウロはコリント教会に対して自分が神様より割り当てられた働きを、きっちりと果し、「あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること」(15節b)を心がけました。

 むしろ、その割り当てを果たすために、コリント教会にやってきた伝道者全てを、交換できないそれぞれの割り当てを負った神の同僚と見做すことなく、偽りの福音を語る偽使徒と切り捨てることもしました。

 しかも、この厳しさは、特別な異端審問官の役を割り当てられていたから起きたものではなく、パウロも、また私たちにも託されたたった一つの福音、「狂おしいほどの神の愛」を、それぞれの個性を持って証しする中で、どうしても、異なる福音としか言いようのない証しと抜き差しならない仕方で、ぶつかったということなのです。

 それぞれに割り当てがあり、パウロにも限度と範囲があり、自分一人で、教会を立てるのではありません。しかし、異なる福音に関しては、私の果たせない役割を果たしてくれていると尊重するのではなくて、はっきりと異なる福音だと言わなければなりません。

 このパウロの批判は、第Ⅱコリントでは本当に呵責ありません。しかし、多分、その言葉と存在で異なる福音を告げている者に対して、いつでも、その人の存在100パーセントが、偽使徒だと、断定することばかりではなかったと思います。

 ガラテヤの信徒への手紙2:11を見ればよいと思います。そこでパウロによって非難される主の一番弟子ペトロのとった異邦人と食卓を囲むことを拒否するという態度は、ひどく福音から逸脱してしまった伝道者の姿でした。しかし、これを厳しく非難したパウロが、このペトロのことを、偽使徒と呼ぶことはありませんでした。

 ペトロがこのような福音から逸脱する態度を取ったのは、信じていることは正しいけれども、行動が伴わなかったというのではないと思います。彼が信じている福音そのものに、覆いが掛かり始めていたのだと思います。ペトロの中で福音が変質し始めていたのだと思います。

 そうでなければ、おそらくコリント教会には、推薦状を持った偽伝道者たちが入ってくることはあり得なかったからです。パウロには推薦状がないと言って、非難する偽使徒たちが持っていた推薦状、これはペトロをリーダーとしたエルサレム教会から得た推薦状であったと考えられています。

 一人の人が語る神の証言の言葉が、偽りの福音になってしまう時も、いつでも、その全体が偽りになっているわけではないのです。それまでの働きが、偽りだったと捨てられるわけでもありません。

 ある点がおかしくなり、ある点で福音が歪められ、ある点で、おかしな実を結ぶようになるのです。

 それらの点に関しては、たとえ、主イエスの一番弟子の言葉と実践であっても、徹底的に批判して、悔い改めに導かなければなりません。異なる福音ときっぱりと言わなければなりません。

 そして結局、ある人の福音理解、いいえ、自分自身の福音理解が、真の福音から、変質してしまったものであるかどうかは、「誇るものは主を誇れ」という言葉によって計られると思います。

 限度内、範囲内では、誇れるのだ、自分は主の弟子として働いたと、誇り、満足することが許されると語っていたようなパウロが、「誇る者は、主を誇れ」という言葉に至るのです。

 ある人は、「それは誇りとはいっても、神がお定めになったことですから、普通の誇りとは違って、神から与えられた使命を感謝する、ということになる」、「自分を誇るのではなく、神を誇ることになる」(竹森満佐一)と言います。

 つまり、結局は、福音に生かされているとき、私たちは、神の狂おしいほどの愛を受けて、自分のことを忘れてしまって、感謝を感じるのです。

 だから、この基準は、「わたしは主を誇っているから大丈夫」と安心するためのものではありません。パウロを含めて、直ぐに、自分を誇りたくなるのです。定められた限度と範囲においては、まあまあ良くやっていると言いたくなるのです。けれども、その自分から主に目を転じれば、我を忘れさせるあの神の狂おしい愛に、もう一度捉え直されるのです。

 15節に語られるパウロの語った福音を基に生じる信仰の成長とは、自分の手柄、自分の誇り、自分の成長を忘れて、神を誇ること、神を大きくすることです。そう考えますと、どの伝道者、どのキリスト者であっても、私たちキリスト者の割り当てというのは皆同じ、たった一つであります。

 なりふり構わず私たちを愛してくださるキリストだけです。このお方を証しするだけです。罪を赦しを告げることも、神の言葉に従うことも、永遠の命が与えられることも、その他どんな言葉によって、その恵みを表現するとしても、自分の利益を忘れてしまって、「イエスさまが好きだ。イエスさまがおられない天国は天国じゃない」と語らざるをえなくする神の愛を、この貧しい自分の言葉と存在という限度と範囲で、証しさせて頂くことだけです。

 

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様、会堂に集うこともできず、それぞれの場で、礼拝をお捧げしている私たちです。私たちは弱く、目に見えるもの、手に触れられるものを確かめることなしに、堅くあなたを愛し続けることの難しさを覚えます。どうぞ、世界中の信仰者たちをこの試練からお守りください。しかし、あなたの方では、私たちを追い求めるその愛が止むことはありません。一人の人の魂を失わないために、十字架まで、陰府まで、突き進まれるあなたであられます。これまでも、これからも、自分の信仰の豊かさや貧しさではなく、このあなたをもう一度見つめさせてください。イエスさまのお名前によって祈ります。

 

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