輝く誇りと輝く悪魔にご用心

6月20日 コリントの信徒への手紙Ⅱ11章12節~15節

再び会堂礼拝を推奨できるようになったこの日に、神がこの教会に集め続けてくださっていた皆さんと、今日は顔と顔とを合わせて、共に礼拝を献げることができますことを心より神に感謝いたします。しかし、私たちは今日久しぶりに顔を合わせたからと言っても、久しぶりに共に礼拝をお献げできるようになったというわけではありません。先週までも、一つ教会として、神の御前に一つ礼拝を共に献げてきました。

 それは、コロナ禍の中で、取って付けた言い訳ではありません。召天者記念礼拝や、墓前礼拝の時には、もっとはっきりとした形で、もっと大きな大きな範囲で語られ、聴いてきた、私たちにとっては至極当たり前のことではなかったかと思います。この家庭礼拝推奨期間中、金沢市内の各所だけではありません。私が把握しただけでも、松任、野々市、福井、大阪、東京、香港、オーストラリアの広がりの中で、インターネットを通じて、私たちと一緒に礼拝を献げられた方々がおられました。しかし、実は、私たちは、もっともっと広い広がりの中で、一つの礼拝を献げていることを教会の当たり前としてきました。すなわち、この地上のもうどこにもいない人たち、天に召された先達たちと共に、いつも礼拝を献げていることを、今までも私たちは当たり前のこととしてきました。特別な時にしか、そのことを口にしたり、強く意識することはないかもしれません。けれども、私たちの礼拝は、いつだって、会堂に集まった人たちだけで献げている礼拝ではありません。

 今、私たちの教会の長老会では、教会員籍について、もう少しはっきりとした筋道を持って理解しようという取り組みをゆっくりと行っています。必ずそうしなければならないというわけではありませんが、亡くなった教会員の教会員籍を、除籍するのではなく、逝去者名簿に移す教会は、案外、多いということは知っていて良いことだと思います。その形は取らずとも、そう理解することは大切であると思います。そして、私たちは既にそのように信じてきました。今は天と地に離れても、今日この時も、先に召された懐かしいあの方、この方と共に、いや、天の方にずっと多くいる教会員の賛美と祈りに支えられながら、共にこの金沢元町教会の礼拝を献げています。

 この当たり前のことを、家庭礼拝推奨期間を過ごしながら、最近になってようやく私ははっきりと、理解できるようになりました。それだけに、私たちは、今までどれだけ、病を得たり、齢を重ねることによって、自由に主の日に会堂に集まって来れなくなっていった仲間たちに、この慰めの言葉を語ってきただろうかと、問われる思いがいたします。

 しかし、顔と顔とを合わせて、共に礼拝を献げる喜びは、格別な喜びであることは、言うまでもないことです。私たちは、天に召された方々と、やがて再び顔と顔とを合わせて、共に礼拝する日を、心の底から憧れつつ、今は、天と地のリモートで、一つの礼拝を献げています。だから同じように、この地上にある礼拝仲間たちとも、顔と顔とをあわせて礼拝する今日を待ち焦がれていました。兄弟が共に座りながら礼拝に献げる今日が、どんなに喜ばしい日であるか。しかも、この喜びは、やがて、天と地が結ばれて、全ての者が膝を屈めて「イエスは主である」と告白し、礼拝する、終末の礼拝の小さな、しかし、たしかな喜びのしるしです。今日の喜びよりも、もっともっと大きな喜びが、この世界を待っています。この場にいないあの人、この人、生ける者も、死ねる者も全ての者が、いや、万物が共に一つの礼拝を主にお献げする時が、やがて、やって参ります。

 このような小さなくても、確かな終末の喜びの先取りを、再び、ここに目の当たりにすることが許されたこの日、福音の神髄を指さすパウロの言葉が与えられたと感謝しています。

 しかし、これが福音の言葉かと、直ぐには理解できない言葉であるかもしれません。ずいぶん厳しい言葉です。福音の喜びを広げる言葉であるよりも、異端者を裁き見えざる教会の本当の内と外を、この地上においても可能な限り、はっきりと線を引く使徒の言葉のように聴こえます。確かにそのような意図と働きを果たす言葉です。教会の中に存在する、天使らしい顔つきをした教え、教会らしい装いを持った言葉の全てが、神の教会に正しく属する者とは限らないとパウロは警告しているのです。

 罪人を招かれた主イエスであった。異邦人を招かれた主イエスであった。主イエスの十字架は、対立する者の隔ての壁を取り除き、一人の人のような一致をもたらしてくださった。

 しかし、私たちはこの当たり前と共に、もう一つの当たり前を知っているのです。それは、主イエスも、パウロも、この和解のために妥協はしないということです。「和をもって尊しとなす」という、私たち日本人に染み付いた価値観とは全く違う次元で生きていました。

確かに主イエスのお名前によって勝手に悪霊を追い出す人々を留めようとした狭い心に生きようとした弟子たちに、主イエスは、「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」と、御自身の仲間、味方を、弟子のグループの範囲を超えて、広く見ようとされました。私たちは目に見える教会の中だけに、主イエスの味方を限定するファリサイ主義に生きることはできません。しかし、その一方で、その同じお方が、どれだけ厳しく、ファリサイ派、律法学者、そして民衆、弟子たちにさえ、天の父の御心から逸脱することを、厳しく戒められたか?何よりも主のご受難、十字架の道を、押しとどめ、栄光の救い主を求めたペトロに対しては、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と、外の誰に対してよりも、痛烈にお叱りになりました。

 イエス・キリストの福音は和解の福音です。終末においては、天にある者、地にある者、全ての者が、膝を屈めて、イエスは主であると告白し、天の父を礼拝するビジョンを指し示す一致の福音です。けれども、この和解と一致がなるために、その途上で、神によって厳しく裁かれなければならない、サタンの声を、主イエスが野放しになさることはありませんでした。それは、律法主義のもたらす不寛容の厳しさとは別のものです。私たちの心が律法主義に落ちて行ってしまうことにいつも警戒し、毎日、悔い改め続けなければなりませんが、それは、すべてに寛容で、和を重んじなければならないということではありません。はっきりと「ノー」と言わなければならないことがあります。パウロが今日の個所において、私たちに目を覚まして警戒を怠らないようにと促していること、断ち切るべきものを断ち切るようにと勧めていることもこのことです。

 しかも、パウロがここで語っていることは、教会の外にある誤った教えや交わりというのではありません。教会の中にある偽の使徒、偽の福音に対しての警告です。それも、わかりやすい偽物ではありません。ずるがしこくキリストの使徒を装っていると言います。天使の輝きを身にまとっていると言います。

 私たちは、教会というのは、争いがない所と思っているかもしれません。確かに争うべきところではありません。神の御前に皆で膝まづくところです。確かに皆が招かれています。しかし、膝まづかなければならないのです。サタンと呼ばれた者はサタンのままでいることはできないのです。膝まづいて、イエスさまだけが主であることを告白しなければならないのです。偽りの天使であったことが暴露され、自分がサタンであったことを、認め、悔い改めなければなりません。

 けれども、これは、誰かに言うべき言葉ではありません。あの人、この人が悔い改めるべきサタンだと言っていれば、済む話ではありません。この自分自身です。主の弟子だと思っているこの自分自身です。この自分の心の中に、自分の理解の中に、自分の行動の中に、自分の言葉の中に、偽りの天使を装うサタンが顔を覗かせていることを、悔い改めるのです。

 しかも、それは私の内に意地悪心がないだろうか、人を貶め、罠にはめてやろうという心がないか、悪意を持って語っている言葉、取っている行動はないかということで、示される偽りの心ではありません。改めて誰かに指摘されなくても、そんなことは偽りであることはこの自分が一番わかっています。

 けれども、サタンが、教会を本当の混乱に陥れる偽りの福音とは、光り輝く天使としか見えないものです。つまり、偽りの福音が輝いているというのは、事実、輝いているんです。

 これから語られていくパウロの使徒である自分の立場の弁明の肝は何か?自分に与えられている輝きを語ります。神さまがくださった素晴らしい経験、神の者としての自分の多大なる働きを語っていきます。偽りの使徒たちと比べて、自分はその輝きにおいて劣るものではない。あなたたちが、これぞ神の人だと納得する輝きに、自分こそが満ちあふれている。誰にも負けないと語ります。ところが、パウロは、このように大使徒と自称する人たちを圧倒する自分の輝きを存分に語りながら、最後にはそれを全部捨てるのです。その輝く、使徒らしい、伝道者らしい、こういう人に自分たちの教会の教師になってもらいたいと私たちが願うすべてのパウロ自身が持つ光り輝きを、神が拒否される思い上がりだと示されたときっぱりと言うのです。

 なぜでしょうか?イエスさまとは似ても似つかないからです。こんなパウロでは、イエスさまのことを証しできないからです。パウロが証しするように召されているのは、十字架にかけられたお方を私たちの救い主、神の独り子と証しする十字架の言葉だからです。

 マルティン・ルターという人の語った「十字架の神学」という言葉があります。難しいことではありません。神様が私たちと本当に出会ってくださるのは、十字架のキリストにおいてだけだということです。神様は御自身をこの世界に起きるもろもろの出来事によって私たちに知らせようとはされていない。神様は、栄光に輝く被造物を通して、御自分を知らせたのではない。また、キリストにおいても、御自分の輝きをそのまま、この方の輝きとして示されたのではない。神様は、ただ、十字架にお架かりになるキリストのお姿を見て、「わたしを知れ、わたしと出会え」と仰った。この信仰を、「十字架の神学」と呼びます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを叫んで死んだお方を、真っ直ぐに見つめながら、「本当にこの人は神の子だった」と、告白した百人隊長の不思議な信仰のことです。そして、パウロに啓示され、パウロが信じ語る福音も、この十字架にお架かりになった方を私の救い主と呼ぶ同じ不思議な福音なのです。異邦人には愚かなもの、ユダヤ人には躓きであるけれども、召された者には、神の力である十字架につけられたキリストです。

 それは十字架にお架かりになるキリストの痛ましいお姿によって、神と出会う道もあるし、それだけでなく、自分の生活の中に起きた良いこと、悪いこと、また、奇跡的なことを通して神と出会うこともあるというのではありません。唯一の道なのです。パウロも人一倍持っているそれらの不思議な輝かしい経験や、自分の賜物と呼べるようなことどもは、パウロは「損失」、また「塵あくた」(フィリピ3:8)と見做すというのです。

 しかし、私自身はこのように説き明かしながら、実はついていけないという思いがあります。どこか飲み込み切れない思いがあります。もっと違うところで、神様と出会いたいという本能的と言って良い思いがあります。だから、これは私自身のこととして申し上げます。私の中には光の天使を装うサタンがあるのです。なぜ、自分の弱さ以外を誇ろうとするのか?なぜ、塵あくたに頼ろうとするのか?自分の貧しさ、弱さ、愚かさをこそ、神の賜物として、誇りえない、自分の才能、弁舌、手腕を神の賜物として数え、それで神お働きに仕えようとする偽りの福音が巣食っていることを見るのです。手放そうとしてもどうしても手放せない。真の福音によって、十字架の主によって、裁かれなければならない光の天使と化している、それによってサタンと化している自分です。

 けれども、主の手にかかり、罪を指摘され、お前はつまらないことにこだわって福音を見失っていると裁かれることが既に福音なのです。自分の誇りと自信を剥奪されていくことが既に福音なのです。なぜならば、主が与えてくださる福音は、自分は貧しく貧しくなっていく時、代わって、十字架の主が、私を生きてくださる。私の力となってくださる。それがパウロが、語り続けていることです。

 こんな福音は嫌でしょうか?コリント教会は嫌がったのです。もっともっと輝いた自分になりたかったのです。けれども、立ち帰ることができました。なぜって、彼らが聴いて、信じて、洗礼を受けた福音、コリント教会を生み出した福音は、このパウロの語る福音でしかなかったからです。それは、簡単に言えば、「主我を愛す、主が強ければ我弱くとも恐れはあらじ」という子どもにも語ることのできる福音の言葉です。パウロは、この福音の妙味を知るとき、一切は損失となり、塵あくたとなる言いました。十字架の主を通して、出会う神のお姿は、少しもつまらなくありません。一切が損失となり、塵あくたと見做しても少しも惜しくないほどに甘い甘い福音なのです。

 この元町教会の伝道によって生まれた若草教会の、初めての専任伝道者でもあった神学者の加藤常昭先生が、最近説教全集の、第4期として、引退後に各地の教会で語った説教を中心に納めた説教集を、次々に出版しています。その中の一つにローマの信徒への手紙3:21以下の信仰義認を語る説教があります。私たちプロテスタント教会にとって忘れがたい大切な聖書の言葉を解きながら、次のような趣旨の話をなさっています。

 ルターの信仰義認論は誤解されている。ルターは、やってもやっても、神の律法は守り切れないから、神の義を恐れたわけではない。そうではなくて、律法を守ろうとすればするほど、神の義ではなくて、自分の義が立ってしまう。行えないんじゃなくて、行えてしまう。しかし、そこに、自分の義が立ってしまう。律法を守れたと言える自分の正しさが、そのまま自分の罪であるというジレンマに苦しんだのだと。そしてパウロも同じだと言います。パウロは生まれながらの人間には律法が守り切れないことに苦しんだんじゃない。むしろフィリピの第3章では、自分は律法を守る点においては模範的な人間、完璧な人間だとパウロは言っている。「守れる。自分の力で。そこが問題なのだ。」それが、パウロ、そしてルターが突き当たった問題だと。

 私は衝撃をもってその説教を読みました。今までもやもやしていたことが、よくわかりました。「私は神の言葉に従える」と胸を張れてしまうことをルターは、苦しんだ。パウロは、それを損失であり、塵あくたと呼んだのです。そこに立つのは神の義ではなく、自分の義だからです。相当端折って私の言葉で紹介しましたので、興味のある方は、ご自分で買って、是非、お読みください。

 コリント教会への手紙を読みながら、思います。この戦いは洗礼を受けて終わるものではないのだなと。聖霊を頂いていると言って、もうこの罪は犯しようがないと解決するようなものではないのだなと。むしろ、コリント教会にパウロが宛てた手紙から浮き彫りになることは、キリスト教会の中に、新しい形で、何度でも、新しい自己義認の教えが入ってくるということです。洗礼によって、聖霊によってまるで私たちの性質が変化したかのように、新しく生まれ変わった私は、律法を満たす生き方ができると言う時、私たちは自分の義を立てることになってはいないか?洗礼を受けた修道士、神学博士であったルターが問われたように、私たちも問われるのです。

 だから、私は何度でも新しく告白します。ルターと共に、この生涯をかけて、悔い改めに生きたいと願います。キリストが共におられなければ、私たちは何もすることができません。けれども、キリストは、何もできない貧しい私たちと共に、その霊において、本当にそば近くに、私たち自身良よりも、私たちに近いと言えるほどに、私たちのそば近くにいてくださいます。だから、恐れはありません。いいえ、怖がったって大丈夫です。傷付いていたって大丈夫です。この主が私たちの命となってくださいます。主が私たちを生きてくださる。主が私たちを生かしてくださる。

 しかし、その方は輝く天使のような存在ではなく、十字架にお架かりになったお方です。だから、目立たず、地味で、共におられるということは感じづらいかもしれません。それは終わりの日が来るまでは、感じることではなく、信ずべきことに留まり続けるでしょう。けれども、そのようなお方だからこそ、私たちが弱いとき、私たちが苦しんでいるとき、私たちが打ちのめされているとき、私たちが病める時、私たちが齢を重ね、力を失っていくとき、その時こそ、私はあなたと共にいる、私はあなたの神である、この私があなたと一つである、大丈夫、安心しなさい。私が最後まで、あなたを天の父の元にまで導くのだ。光り輝く天使ではなく、十字架にお架かりになったキリストであられるゆえに、この福音の約束が疑いえないものなのではないでしょうか?これこそ暗い死の陰の谷を行くときも、消えることのない一筋の光であり続けるのです。

 

祈り

 知らず知らずの内に、あなたの義ではなく、自分の義に頼り始める私たちです。我を忘れるほどにあなたを愛するよりも、自分の信仰の大きさばかりが気になります。傲慢も、自己卑下も、自分にこだわる私たちの罪です。サタンと呼ばれてしまうほどの私たちの罪の姿を暴露し、しかし、それによって、裁かれ小さくされた私たちを決してお見捨てにならず、私たちの命となってくださるあなたです。人と比べるのでもなく、自分にこだわるのでもなく、ひたすら、御子だけを見上げ続けることができますように。悔い改めの自由に生きることを得させてくださいますように。十字架につけられたイエス・キリストのお名前によって祈ります。

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