聖書には、いくつか、私たちが日常的に何気なく使う諺の元になった言葉が記されています。たとえば、「目から鱗」。これは、後にキリスト教の大伝道者となるパウロという人が、初めはキリスト者たちを迫害する者であり、そのためにダマスコという町に向かう途上で、キリストの光に打たれ、目が見えなくなってしまった出来事、そして、キリストの弟子であったアナニアという人の説教の言葉によって、たちまち目から鱗のようなものが落ち、元通り見えるようになったと語る使徒言行録の記述に基づく言葉です。
また、「砂上の楼閣」という諺も、聖書に由来します。やがて学ぶことになるマタイによる福音書7:24以下に記された「砂の上に家を建てた愚かな人」という言葉に基づくものです。
その他にも、「働かざる者、食うべからず」、「狭き門」、「羊の皮を被った狼」など、聖書が元になった諺、日本語になったと言って良い慣用表現がいくつかあります。
その中でも、今日の個所は、もっともよく知られている言葉だと思います。もしかしたら、まさか聖書の中にある言葉だとは気づかないままの人も多いかもしれない。それほど浸透している言葉だと思います。
「豚に真珠」です。
説明するまでもない諺だと思いますが、一応、辞書を引いてみました。広辞苑にはこうありました。「高い価値あるものでもそれの分からない者には無価値に等しいことのたとえ。『猫に小判』と同趣旨。」
豚に真珠、猫に小判、同じ趣旨の諺です。価値あるものを、その価値がわからない者に与えるべきではないという教訓です。
よく知った言葉ですが、考えてみれば、あんまり人に向かって使っていいような言葉ではないと思います。
人様に向かって、あなたにとって、これは豚に真珠ですねなんていう使い方はさすがにできない。こういう言葉を使う場面というのは恐らく、自分や家族のことを謙遜するときに、用いることがあるくらいではないか、あるいは、一生で会うこともないだろうテレビタレントのゴシップを評価するときに、軽口を叩くように使うことがあるかもしれないと思うくらいです。
よく考えてみれば、それだけ使い時を限定する厳しい言葉であるように思います。そのような厳しい言葉を主イエスがお語りになるということは、直前で人を裁くな、人を裁く者は、自分の目に丸太があることを弁えるべきだと仰った主イエスに似つかわしくないことだと、聞く者を困惑させるほどの言葉です。
しかし、それだからこそ、そのような主イエスに、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。」と語られなければならない驚くべき事態が人間の中にはあるということなのだと思います。
明らかに主イエスはここで軽口を叩かれたのではありません。この厳しい言葉を謙遜や、軽口としてではなく、厳しいままにお語りになられた。
神聖なものを犬にやるな。豚に真珠を投げるな。
ここで、「神聖なもの」と呼ばれているものは、学者によると、耳輪、イヤリングのことではないかと考えられています。
主イエスのお語りになったアラム語と呼ばれる言葉では、神聖なものという文字と耳輪という文字の形がたいへんよく似ている。「犬にイヤリングを与えるな、豚に真珠を投げるな。」、この方が、確かに言葉としての収まりも良い。だから、おそらく、当初は、「犬にイヤリングを与えるな、豚に真珠を投げるな」という言葉であったろうと推測されます。
価値あるものをその価値の分からない者に与えるなという意味では、神聖なものであろうが、耳輪であろうが、何も意味内容の変更は起きません。しかし、なるほど、二種類の動物と二種類のアクセサリーが出てくるという形であったと推測することは覚えやすくわかりやすいことであったかもしれません。
しかも、そのような読み替えを行ってみると、これもまた、大きく意味を変えることではありませんが、たとえば、6節の後半の言葉、もし真珠を与えるならば、犬も豚も「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」という言葉がよりイメージしやすくなるかもしれません。
犬や豚が、人間に寄ってくる。なんで、寄って来るかと言えば、エサが欲しいからです。
エサを欲しがる動物の執念というのは、なかなかのものです。私が奈良にいましたころ、奈良公園に行くことがありました。奈良公園にはご存知のように鹿がいっぱいです。道路や、街中に鹿が歩いているなんて風景は、奈良くらいなものですから、間近に見て、その黒目がちな瞳を可愛い、触れ合いたいと感じるものです。もちろん、何も持たずに近づくと逃げちゃいますけど、鹿せんべいが色々なところで数百円で売っていて、それを買ってあげることができます。
お金の無駄と思いつつも、小鹿なんかがいると、思わず買ってあげたくなってしまう。ところが、小鹿にあげようと思って、小銭を出すと、湧いて来たのかというくらいに、たくさんの鹿が集まってきます。
それがまた、かわいらしくない鹿ばかり集まってきます。たとえば、子供が小鹿にあげたいと親にねだって鹿せんべいを買ってもらうのに、子どもの数倍もある雄鹿が寄ってきて、子どもが怖くて泣きだしてしまうなんて風景が見られます。
私も一度だけ、鹿せんべいを買ったことがありますが、案の定、すぐに、大きな雄鹿がやってきました。しかし、俺は怖がって袋ごと投げ捨てちゃう子どもや修学旅行生とは違うぞ。あの可愛い子鹿にあげるからお前にはやらんと袋を抱え込みましたが、執拗に追ってきて、とうとう噛まれてしまいました。それはそれは痛かった。子供のころ、ニンジン寄こせと馬に噛まれた時の次に痛かったです。
6節後半の言葉は、こういうことだと思います。犬や豚が寄って来る。エサが欲しいからです。その人は私と違って、心優しく、今、食べ物は持っていないけれど、せっかく寄ってきてくれたのだからと、自分が持っている高価なものである宝石を差し出す。すると、どうなるか?なんか、手に持ってこちらに合図しているから、食べ物をくれるだろうと、いそいそと近づいたら、食べられないものを差し出している。すると、怒って、食べ物を寄こせと噛みついてくるのです。
いくら高価なものであっても差し出す相手を間違えれば、かえって、怒りや憎しみを招いてしまう宝があるのだと主イエスは仰っているのです。
その主イエスが、憎しみを引き起こしかねないものとして見ておられる宝石とは何であるのか?何よりも、まず真珠として思い浮かべられるものは、主イエスの宣べ伝えられた「神の国」の福音のことではないかと思います。
マタイによる福音書13:45以下にこういう主イエスのお言葉があります。
「天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物を売り払い、それを買う。」
そして、この真珠にたとえられる神の国とは、地上の特定の領地というよりも、神の支配のこと、主イエス・キリストにおいて、神の独り子が世に来られ、神の支配が決定的に始まったということです。
だから、聖なるものであり、真珠であるものとは、「時は満ち、神の支配は、ここに始まった。方向転換して、この良い知らせを受け入れなさい」と人間に対する祝福を宣言されたイエス・キリストの言葉と、また、その支配を開始されたイエス・キリストそのお方そのもののことです。
最近読みだした本にたいへん印象深い言葉がありました。「キリスト教とは、キリストのことです。」という記述です。そして、その言葉の意味を次のように咀嚼します。「イエスさまのみ教え、イエスさまのみ言葉は大へん大切ですが、わたしたちはそのみ言葉だけでなく、そうしたみ言葉を語られたイエスさまそのものを大切にしなければならないのです。」だから、「キリスト教とはキリストである。」、イエスさまがキリスト、救い主として来られたことを信じることが私たちの信仰の要だと言います。
私たち教会に連なる者は、この言葉がよくわかると思います。なるほどその通りだと思います。私たちにとって大切なことは、一週間に一度礼拝に来て、聖書の高潔な言葉を聴いて、今週も背筋の伸びる良いことを聴いたと出ていくためではありません。人生を生きやすくする処世訓や諺を学びに集うのではありません。そうではなくて、救い主イエス・キリストに出会いに来る。礼拝における説教を通して、私たちを救い、私たちに語りかけてくださる生けるキリストの姿を鮮やかにする。それは、教えを心に刻むというような話ではないのです。私があなたを救う。あなたを守る。あなたは私のものだと聖書を通して語りかけてくださるお方の言葉を聴きながらその方との関係を深めていくのです。
それゆえ、植村正久という牧師は、説教の使命とは、イエス・キリスト自身を紹介することだと言いました。
それは、キリストの教えでも、キリストの救いの説明でもなく、生けるイエス・キリストその者を紹介すること、キリスト教とはキリストです。この生けるキリストが真珠であり、私たちの宝です。そうであるならば、その真珠であるキリストを、価値の分からない者に、与えることは、豚に真珠を投げるようなものだという厳しい言葉が、わかってくるのではないかと思います。キリストは真珠以上の方、宝石以上の方、私たち人間と今ここで出会いたいと願われる生きたお方だからです。
説教する、伝道するということが、私たちの言葉を通して、その方と人間との出会いの場を作る行為であるならば、そこで人格と人格の出会いが起こると信じるならば、私たちは、営業マンが、自社の商品を売り込むようには、キリストという真珠を人に与えることはできないのではないかと思います。生きた人間を安売りしたり、投げ売りしたりすることができないように、そのようにキリストを扱うことはできません。いくら親しい家族や友人であっても、このお方を紹介する時に、否定や侮辱が起こることが火を見るよりも明らかであるならば、キリストを無理してでも紹介するわけにはいかないのです。
たとえば、こういうことを考えてみれば良いかもしれません。自分の結婚相手を親に紹介しようとする。私の大切な人を家族として迎え入れてほしいと願い、紹介するのです。ところが、喜んで迎え入れてもらえない。「どこの馬の骨か」と反発される。けれども、そこで、子どもが共に生きようとする一人の人を、「どこの馬の骨か」と、否定し侮辱することによって、親自身が、獣のような姿を露呈してしまう。
だから、ある人は、この「豚に真珠」という言葉は、私たちの伝道の限界を示す言葉だろうと言いました。
ここで、主イエスは、無理をしてはいけないと言われる。自分の手にあまることをするな、と言われる。私どものなしうるところには限りがある。人の首根っこを抑えつけて、神に向けさせることはできない。あなたの力には限りがある、それでよいと仰っているのだと言うのです。
どんなに親しい間柄の者であっても、キリストを信頼することを強制することは決してできない。それこそキリストを真珠ではなく、馬の骨と見做されてしまうような、その現実の前に、私たちは途方に暮れる他ない。
ところで、福音の価値がわからない者は、犬となり、豚となってしまっているのだという主の御言葉を、キリストを知らない者ではなく、その方を知っている者として十分にその方のことを思い巡らしながら、聞くとき、私たちは一つ決定的なことに気付かされます。
なぜ、その価値がわからないかと言えば、確かに、見る目がないからだと言えます。真珠の前に犬や豚のような感受性しか持ち合わせていないからだと言えます。
ところが、聖書の語るところによれば、第一の理由は、別のところにあります。イエスというお方を、人間を救う救い主、価値ある真珠と認めることができないのは、その方の弱さと卑しさによるのだと語ります。
イエス・キリスト、その方の姿は真珠のような姿ではなく、石ころのような姿をしていました。主イエスは、馬小屋で生まれ、罪人と食卓を囲まれた方です。王の子ではなく、大工の子として生活されました。だからこそ、人間は、この方が、真珠であることに気が付きませんでした。だから、この方に向かった人間は、怒った獣のようになり、この方を踏みにじり、噛みつきました。
そして、そのようにして十字架に着けられた主イエスのお姿は、神の子の見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない弱さと無価値さそのものの極まったお姿でした。
イエス・キリストは卑しく弱い道を歩まれました。それがイエス・キリストというお方でした。クリスマスに始まり、十字架に極まるキリストの弱さ、これは、私たちの信じる福音の弱さと言い換えても良いと思います。
そして、福音の言葉が弱いというのは、聖書の中でここだけに語られることではなくて、それを貫くものであることを思い起こします。
たとえば、パウロという人は、コリントの信徒への手紙Ⅰの第1章の後半で、徹底的にこの福音の弱さを語っています。
「神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うことにされたのである」と語り、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と言いました。
この御言葉によれば、教会のなす福音の伝道もまた、その福音そのものであるキリストの弱さに性格づけられたものであることを知り、しかし、その弱さに包まれた福音の力、キリストの知恵に、信頼して、歩むようにされているのです。伝道のために、人を屈服させる強さを身に着けなければならないと思う必要はありません。
ボンヘッファーという牧師であり、神学者である人はこの福音の弱さを見ながら、言いました。「このみ言葉の弱さについて何も知らない弟子は、神の遜りの秘密を知らないのだ。罪人が躓くことにも甘んじるこの弱いみ言葉だけが、罪人をその心の底から悔い改めさせる、強く憐みに満ちたみ言葉なのである。その力は弱さの中に隠されている。」
弱さの中に隠された力、輝いていない真珠こそが、できる救いがあります。
キリスト教会の最も古い賛美歌の一つが聖書に記されていると言います。フィリピの信徒への手紙2:6以下の言葉です。それを読みますと、教会は、キリストの弱さの力強さを知り、それに圧倒されながら、神をほめたたえたのだということがよくわかります。私たちの先輩たちは、こういう風に歌いました。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である。』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)
キリストの弱さは何のためか?天のものも、地のものも、地下のものも、誰も、キリストの救いの外に漏れないためです。獣のような私たちが、神のものとなるためでした。
飼い葉桶に生まれ、十字架で死なれたお方こそが、私たちを下から支え、押し上げてくださる救い主であられます。この方を今は、私たちは真珠と信じています。
それは、本当に私たちの力ではなく、この方の弱さによるものです。神の弱さこそが、弱い人間に寄りそい、弱い私たち人間を救うことができます。弱いキリストだけが、弱い私たちまで届き、救うことができる。キリストの弱さは、真に有難く価高いものなのです。
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