誰にも奪われない喜び

9月24日主日礼拝 ヨハネによる福音書16章16節~24節  大澤正芳牧師

その日には、あなたがたがもはや、わたしに何も尋ねない」と、十字架を目前に控えた主イエス・キリストは仰いました。

23節に記された御言葉です。

「あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」。

つまり、その時には、「あなたがたが私に尋ねることは何もない」(協会共同訳)、知るべきことは、何もかも明らかになるのだということです。

なぜ、こんなことが?どうして、こんなことが?

これからどうなってしまうのか?神は一体全体、何をお考えになっていらっしゃるのか?主イエス・キリストにお尋ねしなければならないことが、何もなくなる。その日には、何もかもが明らかになるからだと、主イエス・キリストは仰っています。

主の弟子たちが知るべきこと、私たちが知るべきこと、いいえ、人間が不安の中で、神に問いたいと願うすべての問いへの最終的な答えが、その日には、与えられるのだというのです。その日には、隠されている神の御心などありません。

私たちの知るべきこと、その真実の上に私たちの生活が営まれていく世界と人生の土台、神の据えられた土台が明らかにされます。

その土台が明らかにされるまで、人は苦しみに苛まれます。

泣いて悲嘆に暮れる時を耐えなければなりません。

自分以外のこの世がキラキラと輝いて、喜んでいて、うまくやっているように感じなければならない時を、孤独に過ごさなければなりません。しかし、それはほんの少しの間です。

しばらくすれば、その悲しみは、喜びに変わります。必ず変わります。

主イエス・キリストは、あなたがたのその悲しみ、その苦しみは、産みの苦しみだと仰いました。

今、苦しんでいる者、今、悲しんでいる者、それはあなたに与えられた産みの苦しみだ。

新しいあなたの命が生まれ出るために、あなたに備えられた産みの苦しみだ。

ここを通って喜びが生まれる。ここを通って命が生まれる。

その時には、前の苦しみは、今の喜びに凌駕され、思い起こされることがない。

大きな喜びです。心からの喜びです。

そして、22節後半の言葉に注目してください。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」のです。

その喜びは奪い去れない。誰にも奪い去れない。

たまたま偶然、巡り合わせが悪く、この身に降りかかる様々な思いがけない試練によっても失われることがないだけではありません。

「奪い去る者はいない」とキリストは仰います。

つまり、あなたを目指して、あなたをこそ苦しめ、あなたをこそ悲しませようと明確な意志を持った人間、悪魔的存在も、この喜びをあなたから奪い去ることはできないというのです。絶対にできないと仰るのです。

だから、「その日」から後は、この世に由来する、思いがけない傍若無人な力に囲まれて、四面楚歌に敵に囲まれても、私はどうなってしまうのですか?私の心と体は殺されてしまうのですか?滅ぼされてしまうのですか?と、主なる神に、主イエス・キリストに真剣にお尋ねする必要がなくなるのです。

いいえ、もちろん、お尋ねしても良いのです。嘆いて良いのです。祈って良いのです。不安な心を、不安な思いをそのまま、このお方の前に、注ぎ出すことが許されているのです。

それは不在の神を呼び覚ます宗教の祈りではありません。

一人では持ちきれない思いが、流れ出す場所を得ており、あなたは、打ち叩くことのできる父の胸、すがることのできる父の胸の前にあるということです。

このように、私たちの主でいてくださる御父が、御子が、「あなたがたが私に尋ねることは何もない」、私たちの知るべきこと、その真実の上に私たちの生活が営まれていく世界と人生の土台、神の据えられた土台が明らかにされ、私たちから取り去られない心の底からの喜びを与えられる「その日」が来ると、約束なさいました。

その喜ばしい日とは、いったいいつのことでしょうか?

見えなくなった主イエスが見えるようになる日のことです。

この御言葉を最初に耳にした弟子たちにとっては、次のようなことです。

今まで、神様の御心を説き明かしてくださり、それによって、世界と人生の秘密を紐解き、生きる道しるべとなってくださっていた主イエスが、これから十字架にかかり、死んで葬られようとしているのです。

主イエスとの別れが近いのです。

それが悲しみと苦しみの原因となっています。

主イエスが去って行かれる。それゆえ、神さまの御心がわからなくなってしまうのです。飼い主のいない羊に逆戻りしてしまうのです。

しかし、また、弟子たちだけではありません。

主イエスが十字架に付けられた日には、全地は暗闇に覆われました。神の不在、神の日食は、全地を覆ったのです。

だから、これは、信仰者だけに関係のあることではありません。

世界が神の不在を経験したのです。神がその御顔を隠されました。つまり、この十字架の出来事の記述に従うならば、神の不在の経験は、ゆえなきものではなく、確かにある期間におけるこの世の現実であり、全ての人の暗闇の経験は、神の不在の経験として真剣に考えなければならないことなのです。

もしも、教会の使う言葉になじみがないのなら、ここは一旦、神という言葉を言い換えてみても、差し支えありません。

これこそが自分の生きている意味だ。これこそが、自分の人生の道しるべだと、支えにしている、支えになっているものが、誰にでもあるでしょう。

人生の意味、生きることの価値、もっと単純に言って、生きる喜びを持っておられるでしょう。

誰にでもあります。大それたことではありません。生きる意味を感じさせてくれるささやかな喜びがあります。

でも、それが見えなくなってしまうことがあります。

喜びよりも、悲しみ、苦しみの方が大きくなり、人生の輝きが、顔を隠して、毎日が暗闇のようになってしまうことがあります。

その最大のもの、どうにも出口の見えない人生の深い暗闇を、神の顔の隠れと名付けてみれば、これは信仰者に限らず、誰にでも覚えがあるし、誰にでも関係のあることだと思います。

信仰者とは、その神の顔の隠れを、言葉そのものの意味において神の顔の隠れとして、経験する者のことです。

しかし、その誰もが、経験する極めつけの暗闇が、しばらくすると終わると、主イエスは弟子たちに約束されました。

神の御顔の隠れをもたらした主イエスの十字架とそこから始まる不在が、しばらくした後には、決定的に終わると約束してくださいました。

その日が来るならば、そこから先は、もう二度と、この世界に、神さまの日食が起こることはないと約束してくださいました。

再び主イエスが来てくださることによって、その神の隠れが終わる。しかも、永遠に終わる。

「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」とは、つまり、そういうことです。

キリスト者たちにとっては自明なことでありながら、まだ教会と繋がりをもって日の浅い方にとっては、大胆な言葉として、響くのではないかと思います。

神の隠れ、すなわち悲しみが喜びを凌駕してしまう人生の日食が、永遠に終わり、もう二度と、繰り返されることがない。

それが、たとえ、全地を覆うような暗闇であっても、悲しみが喜びを凌駕する神の不在の経験は終わる。

それからの日々は、誰にも奪われない喜びに伴われる日々です。それをあなたがたが経験するのだということです。

主イエス・キリストを信じる者にとって、このような誰にも何者にも奪われることのない喜びの生活は、改めて、申しますが、22節で主イエスが仰るように、主イエスが再び来て、再び、私たちに出会ってくださることによって決定的に始まります。

むしろ、主イエスと共に居続けること、そのこと自体が、喜びの目当てです。

主イエスの弟子たちは、もう一度主イエスとお会いするのです。いいえ、もう一度お会いしたのならば、もう二度と、別れることはありません。それから後は、このお方とずっと一緒です。

主イエスに再びお会いすること、そのような希望に生きること、このことを教会は、再臨の信仰と呼んでまいりました。

たとえば、ルカによる福音書と、使徒言行録の記述によれば、十字架とご復活のキリストが弟子たちの目の前で天に昇られ、呆然と天を見つめていると、気付けばふと彼らの傍らに天のみ使いが立っていました。弟子たちは、その天使にこう告げられます。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたかた離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:11)

再臨の信仰です。そして、この再臨の信仰は、終末の信仰でもあります。

再臨信仰とは、世の終わりを待ち望む信仰です。丁寧に言えば、世の終わりと言っても、破滅の時ではなく、完成の時を待ち望むのがキリスト教の終末信仰です。

主イエスが、誰の目にも見えるお姿で、再び来られる再臨の時は、神さまの正義が、実現する時として待ち望まれます。

しかも、神はその独り子を賜るほどに世を愛されたという愛に満ちあふれた神の正義が、誰の目にも明らかになる形で、この世全体に見えるものとなって行き渡る日として待ち望まれています。

今日、共にここまで聞き続けてきましたところで、主イエス・キリストがお語りになるその日、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と仰るその日とは、この再臨の日、終末の日のことでしょうか?

今日、共に聞いています聖書箇所の16節、17節、18節、19節には、「しばらくすると」という言葉が、連発されています。

苦しみの時を耐えるように、悲しみの時を耐えるように、それは必ず終わるからと、一所懸命に励まそうとされる主イエスの思いが、この一言に溢れているようです。

「もうしばらくのことだ。」

励ましの御言葉、慰めの御言葉です。

けれども、主イエスが仰ったその「もうしばらく」が、千年を一日のように御覧になる永遠の神のまなざしにおいての「もうしばらく」であるならば、これは、なかなか厳しいものがあります。

時間の中を生きている私たちにとっては、主イエスの「もうしばらく」が、永遠と比べられる「もうしばらく」であるならば、それはあまりにも長すぎるという思いが湧かずにはおれないでしょう。

ところが、おそらく、ここで主イエスが仰る「もうしばらく」とは、神の尺度における「もうしばらく」ではなく、私たち人間の時間での「もうしばらく」であったのです。

ある聖書学者は、主イエスがここでお使いになった言葉を忠実に訳しまして、誤解なきように、「少しすれば」と訳してくれています。

「少しすればあなたたちは最早わたしを見ない。そしてまた少しすればわたしを見るであろう。」(16節伊吹訳)

主イエスがこのお言葉を最初に弟子たちにお語りになってから、少しの後、ほんの数時間後に、このお方は、十字架にかけられ、息を引き取られたのです。

ほんの少しして、弟子たちには主イエスが見えなくなったのです。

けれどもまた、ほんの少し後に、主イエスを再び見るようになりました。

墓の中に葬られ、見えなくなったこのお方は、ほんの少し後に、お甦りになられたのでした。

だから、今日、私たちが耳を傾けている聖書の言葉、主イエスの語りかけが見つめている、「しばらくすると、わたしを見るようになる。」、「わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」と約束される再開、そして、二度と取り去られない主イエスとの喜びの生活を始める「その日」とは、三日目のお甦りのその日のことであると、主イエスは仰っていると、聴くべきだろうと私は思います。

つまり、イエス・キリストのご復活以来、弟子たちは、このお方の御顔を見失うことがなくなっているのです。

それ以来、神の御顔の隠れは、永遠に終わっているのです。

神はもうその御顔をお隠しになることはありません。その御心を隠されることはありません。

どのような悲しみ、どのような苦しみの中にあっても、これからどうなってしまうのか?神は一体全体、何をお考えになっていらっしゃるのか?と、問う必要はもうないのです。

なぜなら、それは明らかだからです。

キリストは、陰府の淵より御父によって、甦らされ、弟子たちと所に戻って来られ、お会いし、たとえ、天に昇られようとも、むしろ、不思議にも、その昇天によって、ますます弟子たちの近くに来られたのです。

主イエス・キリストは、あなたと共におられることを選ばれました。

インマヌエル、神は我らと共におられる。

神はあなたと共におられます。

神の絶対的な御心として、最終的な御心として、誰にも、何者にも覆されることのない決定事項として、神はあなたの味方であり、あなたと共におられる主であられることを選ばれました。

雨が降ろうが槍が降ろうが、あなたの人生に何が起ころうが、日本がどうなって行こうが、世界がこの先どうなって行こうが、主イエス・キリストは、もう離れません。もう隠れません。

これこそキリスト信仰の奥義であり、不思議であり、神秘でありますが、もはや、隠された謎ではありません。

イエス・キリストのもう一つのお名前であるインマヌエル、このお方において、神は私たちと共におられるということ以上の秘められた御心も、これ以外に隠されている神の最後のご計画もなく、これが私たちが経験することの許されている今であり、神の御心です。

キリストの再臨とは、不在のキリストが戻って来られることではありません。

今、共にあるキリスト、私たち信仰者の目において、現に見られ、出会われている共なるキリストの臨在が、誰の目にも明らかになり、誰に教わらずとも、自分自身の目で、確かめることができる日のことです。

終末とは、山川草木悉皆、全被造物の自然、天然として、このキリスト復活以来の事実に、全てのものの目を開かれる日のことです。

神に見棄てられたと思い込んでいた者が、神を殺してみなしごになってしまったと思い込んでいたこの世が、棄てられていなかったし、神は隠れておられなかった、いついかなる瞬間も自分と共に生きておられたことを、受け取り直す日のことです。

しかし、その終末において、ただ一つの現実となってすべての者に味わわれるよう定められているキリストご復活以来の事実は、今も隠されておりません。

主イエス・キリストを見れば、少しも隠されていないのです。

主イエス・キリストの出来事の中に、はっきり、くっきりと、インマヌエルが、光り輝いているのです。

「その日には、あなたがたが私に尋ねることは何もない。」(協会共同訳)

それは、今日この日、この時のことでもあります。

問わなければならない隠された御心などありません。

いいえ、苦しみ、悲しみ、不安の中、問うことができるお方がいる。

私たちの心は、溢れ出す場所を持っている。向かうべき場所がある。

答えを待つ必要がありません。私が問える、このお方に問うている。

嘆いている。祈っている。キリストの名において、父を呼んでいる。

問わずにはおれない痛みは、私が問うている、問えるということにおいて、既に、私の丸ごとは答えに包まれているのであり、そこにキリストの名があり、インマヌエルがあります。

キリストは隠れておられません。

そのお方のお名前はインマヌエル、そのお方の中にわたしたちがいて、わたしたとの中にそのお方がいる。

この礼拝において、説教の言葉において、洗礼の水において、聖餐のパンと杯において、兄弟相互の交わりにおいて、密室で捧げる祈りにおいて、途方に暮れる悩みと、心の底から湧き上がるうめきにおいて、インマヌエル!!このお方は私たちと共に、私たちはこのお方と共に。

あなたと主は一つ。あなたの問いは主の問い、主の問いはあなたの問い。主のお答えはあなたの答え、あなたの答えは主のお答え。

23節「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。アーメン、はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは「喜びで満たされる。」

キリストの祈りは、私たちの祈り、私たちの祈りはキリストの祈りです。

アーメン、アーメン、インマヌエル、アーメン。神の喜びがここにあります。神があなたを喜んでおられます。

マラナ・タ、主よ、来てください。急いで来てください。

祈ります。

御父よ、あなたの、今、この時の臨在に、あなたが共におられる現実に、ここにいる者たちの目を開いてください。

この祈りを、主イエス・キリストのお名前によって御前にお捧げいたします。

 

 

 

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