私たちの信仰は、しばしば、ご利益宗教ではないと言われます。私たちが主なる神さまを信じ、そのお方だけを拝まなければならない理由は、突き詰めて言えば、そのお方が、私たちに利益を与えてくれる私たちにとって都合の良い神さまだからではなく、ただ神さまが神さまだということが、私たちがこのお方を拝み、礼拝する理由だと言われます。それは、その通りであると思います。
たとえば、ここで、有名なヨブ記の言葉、息子、娘を失ったヨブが、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言った言葉を忘れることはできませんし、新約においても使徒パウロが、憐みたい者を憐れみ、頑なにしたい者を頑なになさる神の自由を「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」(ロマ9:20以下)と語った言葉を思い出しても良いでしょう。神は神であられる理由だけで、拝むべき方です。
けれども、主の祈りを私たちにお与えくださった主イエスが、そして父なる神さまが、その祈りの最後に近い部分で「我らを試みにあわせず悪より救い出だしたまえ」という祈りを、私たち人間にお与えになってくださったということは、私たち人間が試練にあわないこと、悪いことから守られることを、この神様が、ご自身の御意志としてくださるお方であるということを表しています。私たちが、この礼拝でも、また、毎日の生活の中でも祈る主の祈り、主イエス・キリストが教えてくださった主の祈りに含まれている一つ一つの祈りの言葉は、どれも大切な祈りの言葉でありますが、とりわけ、私たちが、切実な思いを込めて祈る祈りの言葉の一つは、この「我らを試みにあわせず悪より救い出だしたまえ」という言葉ではないかと思います。私たちは、試みにあいたくはないのです。悪の力に支配されたくはありません。しかも、私たちだけではなく、神ご自身がそのことを願っておられることが、主の祈りに示されています。だから、私たちは、自分勝手なご利益宗教ではないかと戸惑うことなしに、心から素直に、神さま御自身の私たちへの思いと一つとなって、「我らを試みにあわせず悪より救い出だしたまえ」と祈ることが許されています。
しかし、そうであるにもかかわらず、主イエスは、今日共に聞きました聖書の御言葉において、あえて、試練を、悪魔からの試練をお受けになるために、荒れ野に行かれたと語られます。
しかも、その悪魔の誘惑への道は、同じ個所ではっきりと”霊”に導かれて進まれた道であったことが同時に記されています。この”霊”とは、ダブルクオテーションマークで囲まれ、強調されているように、なんだかよくわからない雰囲気としての霊ではなく、神の霊、生ける神ご自身の意思をさやかに示し、主イエスを父の望まれる道へと導いていく神の霊に従った道でした。向こう見ずな危険な冒険ではなく、父の意思と一致した歩みでした。
私たちはその不思議な記述を心に思い巡らしながら、なお二つの方向で、黙想を進めていくことが出来ると思います。一つは、これは、ただ真の救い主であられる主イエスただお一人だけが、お受けにならなければならなかった特別な試練なのだと考えること、もう一つは、先週の説教から引き続いて、私たち人間と完全に一つになり切ってくださった主イエスの姿をそこに見、私たちが受けなければならない人生の試練を主イエス御自身がここでも引き受けていてくださり、しかもその試練に打ち勝ってくださったのだと読むこともできると思います。
私はこのどちらの方向に従って、私たちの聖書の読みを深めていくにしろ、それはいづれも、深い慰めに満ちた言葉を聞きうると思っています。そして、主イエスが悪魔の試みにあってくださったからこそ、試みと誘惑によって滅ぼされることのない私たち人間であるのだということがよくわかってまいります。たとえば、私たちは、主の祈りの言葉から、私たちを試練と悪の力から守ることを神さまはその御心としてくださっているということを信じながら、同時に、事実として、私たちの経験として、私たちの人生は、試練と悪の力の脅かしに満ちあふれているということをも認めないわけには行きません。私たちは苦しみも痛みもないだろう天国で、神の子として生きているのではなくて、この地上で、神の子として生きています。神に喜ばれる信仰者としての歩みを私たちが形作ろうとしているのは、真空地帯においてではなくて、この地上です。それはちょうど、旧約に描かれる神の民イスラエルが、神の子として神の民として生きるようにと、召された時に、試練と誘惑だらけの地上で、自分たちと神様だけではなく、それとはまったく違う論理と、価値観と、思惑で生きている人びとの間で生きなければならなかったのと同じではないかと思うのです。その中で、神さまは、神の民に対するご自身の近さを示し、また何よりも、生ける御自身の御心を示す言葉を賜り、それによって試みの世にある神の民を導こうとされたということを思い起こします。
そこである人は、今日の聖書個所を読みながら、こういうことを言います。主イエスが荒れ野でなさった40日40夜の断食は、まさに旧約においてモーセが、あの大切な大切な十戒を授かった時の記述とリンクしているものではないかと。40日40夜モーセは断食し、そして、神の民が試みの世にありながら、それに従って生きるべき神の基本的な言葉を賜った十戒授与の出来事と、マタイはそのことに重ね合わせながら、この主イエスの誘惑物語を書いているのではないか?私はこれは面白い指摘ではないかと思いますし、そう思って読んでみると、なるほど、色々な発見があります。
それは、十戒が、一方的な戒めではなくて、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という前提、大きな恵みの前提から語られていましたが、このマタイの物語においても、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの手放しの承認と愛の言葉が直前に書かれています。つまり、両者とも、戒めを守ったから、あるいは、誘惑に打ち勝ったからその褒美として、神の民となり、神の子となるとは語りません。それは、続いて語られる言葉、起こる出来事の前提です。
また、主イエスが悪魔にお応えになる聖書の言葉はことごとく、モーセを通して神が与えられた申命記に記されたお言葉であることにも目が留まりますし、それらの誘惑も突き詰めて言えば、10節に記される「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、十戒の第1の戒めであり、前半の全体を彩る戒めである「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」という戒めに対する攻撃であり、誘惑であることが窺えます。
それゆえ、ここで、私たちは、新しいモーセであるような主イエスから、私たちもまたこの方を通して神の子とされた者として、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という根本的な戒めを私たちが試みによって滅びることのないための防護柵を受け取るのだとも言えるのではないかと思います。
しかも、主イエスを通して私たちにこの戒めを与えられる神は、私たち人間が置かれている状況に目をつぶっておられるのではないということがここではっきりしています。悪からの激しい試みがあり、誘惑があります。主イエスを通して、神はどんなにこの世の生きる神の子たちが、激しい誘惑を受けているかを御存知でいてくださいます。それゆえ、私たちに改めて、主イエスの誘惑物語を通して、私たちが神の子として生きるのは、この地上であることを深く心に留めると共に、けれども、神は、その私たちがしなければならない誘惑と試練との戦いがどれほど厳しく、険しいものであるかをよく知っていてくださるお方であるということに励まされるのです。
そして、思います。神のみを神とすることが、この世にあっては、悪魔の激しい抵抗にあう戦いであり、十戒を頂いた旧約の民が何度でも失敗するほどの、厳しい戦いであることは、私たちキリストにある者たちにとっても同じであるかもしれないけれども、神はそのことを知っていてくださる。しかも、私たちは、この厳しい戦いを決して一人きりで行うのでもない。ただ、「ここから先は危険」という言葉の柵が建てられただけではなく、既に、真の人となってくださった神の子、イエス・キリストが私たちの只中におられ、この戦いの先頭に立っていらっしゃる。しかも、私たちがこの戦いに召し出される前に、今日の物語において主イエス御自身がまずこの戦いを戦われ、悪魔に対する命の防壁であり、鋭い剣である神の言葉によって勝利し、決着をつけてくださっている。その悪魔の試練に打ち勝たれた人間の代表として立ってくださった主イエスの勝利の物語を今日の聖書個所は伝えている。それは、やはり、この誘惑と試練の多い地にあって、どんな時も神を神とするように召されている私たちにとって、心強い物語であると思うのです。主イエスが共にいて、私たちの代表として、私たちの先頭に立って試みに勝ってくださったのです。
しかし、また、次に、この悪魔の試練が、主イエス固有のものであったという側面にもとても惹かれる思いがあります。この試練と誘惑はマタイによる福音書全体を見て行けば、確かに、唯一真の救い主である主イエスこそが聞き続け、戦い続けた試練であり誘惑であったのだということも無視できないことであると思います。
他の誰でもない救い主である主イエスがここで問われていたのは、人々の期待に応える救い主であるのかどうかということであったと思います。悪魔の誘惑はどれも、悪魔の言う通り行うならば、人々の関心を買い、救い主にふさわしい尊敬と期待を集めることが出来たものだと言えます。悪魔の試みは煎じ詰めて言えば、人びとの納得の行くしるしを主イエスに行えと誘惑する言葉でありました。
そして、この福音書全体を見ていくときに、このような誘惑と試練は、一度限りのものではなく、たびたび、しかも重要な場面で主イエスに突き付けられたものであり、この荒れ野での誘惑は、その一番目のものに過ぎないと言えます。たとえば、ペトロが、主イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です。」と目覚ましい告白をした直後、主イエスがご自身の受難を予告すると、その同じペトロが言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」すると、主イエスは、彼に厳しく答えられました。「サタン、引きさがれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)
あるいは、十字架にお掛りになった主イエスに向かい、人々が侮辱して言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(マタイ27:42以下)
この二つの言葉は、どんなに荒れ野の誘惑における悪魔の誘いに似ているものであるでしょうか。
そして、私は思うのです。これらの悪魔の言葉と似通った私たち人間仲間が主イエスに向かってはいた言葉を真剣に思うならば、主イエスを誘惑し、主イエスを試みる悪魔とは、私たちとは別世界の超人的神話的な存在のことではない。それは、私たち人間自身、そこには、主イエスの一番弟子さえ含まれている私たち人間自身のことではないのかと思うのです。私たちは、サタンと呼ばれたペトロからも、十字架にお掛になった主イエスをあざ笑った人々からもそう遠くないものではないかと思います。私達も聖書に記された主イエスの御言葉や行動が私たちのイメージから少しでも外れると、直ぐに幻滅したり、反感を感じたり、私たちの日々の生活に、思いがけない試練や躓きが生じるとすぐに信仰の心が萎えたり・・・。
ある人が、苦しい時の神頼みという言葉があるけれど、また、苦しい時の神離れというのもあると言いました。その通りだと思います。それは、信仰者に思いがけない困難が降りかかり、キリスト者であるのに、なんでこんな不幸なことが起こるのかと信仰から離れていくと言うばかりではありません。始めは喜んで教会生活に励んでいた人が、だんだんと教会生活が負担になってくる。この世の生活と信仰の生活が摩擦を起こすようなことが起きると、教会に通うことがなければ、信仰がなければどんなに楽かという思いが湧いてくるということもあるのです。率直に言ってしまえば、信仰が自分の利益に仕えてくれるものでなくなれば、その信仰が、いや神さまが邪魔に思えてくるということがあり得るのです。
悪魔の誘惑、悪魔の試みとして描き出される主イエスの戦いは、そのような側面から見れば、自分の利益のために主イエスを利用しようとする人間の思いと、主イエスが戦われたということだとも言えると思います。けれども、そのような我儘と言う他ない人間の思いが、主イエスにとってなぜ悪魔的な激しい試みになり得るのか?それは、主イエスが、他ならぬこの人間を愛していらっしゃる事によるのだと思います。
主イエスが愛される人間、主イエスが救おうとされている人間とは、まさに、サタンと呼ばれたペトロであり、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」という物言いをする人間であり、聖書を読んでは、この神の言葉は受け入れがたい、と神の言葉を自分の尺度に従って選別してしまったり、そのようにして、自分の気に入る箇所だけ、言葉だけ、受け取りたいと願う私たち人間そのものなのだと思います。侮辱されてもののしられても、誤解されても、主イエスは、そのようにして、本当のところ、神を神として拝み切ることのできない私たち罪の人間に軽く扱われても、決して捨てることが出来ない。そこに、主イエスのお受けになった試みの本来の形と、最も苦しい部分があり、すなわち、それは私たち罪の人間を愛するゆえの愛の苦しみであると言うことが出来るのではないかと思います。そして、それは、真っすぐに十字架に至る道です。あなたは私の救い主なんかじゃない、失望したと全ての人に捨てられながら、しかし、そこでこそ、人間のこのような恐ろしい罪を担い、取り去るために、父なる神の思いと一つとなり、その十字架を選び取られた十字架の主なのです。それは初代のキリスト者たちがはっきりと聞き取ったように、本当に預言者イザヤが述べた神の僕の姿であり、十字架の主イエスのなさりようであると思います。
すなわち、このお方は、「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きの為であり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。/彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:4以下)
そのことを成し遂げられたのです。私たちは自分の思い通りの利益に仕えてくれない主イエスと神に失望し、主イエスを十字架につけた裏切りの渦中にいる者としてではなく、私たちもまったく同じ人間でありながら、私たち人間の裏切りの窮まった十字架の出来事を、すでに成し遂げられた者として見返します。そしてこう思います。私たちの思い通りが実現されていくことよりも、神の思いが成るということは、それは私たちのためにもどんなに良いことであるかと。
私は、今日の聖書個所を学びながら、とても心惹かれる一つの翻訳を見つけました。岩波訳と呼ばれる岩波書店が10数年前に出した聖書翻訳が私たちが今日聞いている聖書の物語において、悪魔の誘惑に対して申命記の言葉で返された主イエスの御言葉をたいへん興味深い仕方で訳しています。それは特に、第2の誘惑、第3の誘惑の時に答えられた主イエスの御言葉でありますが、岩波訳ではそれぞれにこういう翻訳がなされています。
7節、”イエスは彼に言った、「再び〔こう〕書かれている、『あなたは、あなたの神、主を〔あえて〕試みることはないであろう』」。”
10節、”そのとき、イエスは彼に言う、「サタンよ、失せろ。実に〔こう〕書かれている、『あなたは、あなたの神、主を〔こそ〕伏し拝み、彼にのみ仕えるであろう』」”。
少しづつ、私たちの新共同訳とは違う部分がありますが、特に注目を引くのが、主イエスが引用される申命記の戒めが、いわゆる一般的な命令形ではないということです。そこには「~してはならない」、「~せよ」とは、書いてなくて、両方とも「~であろう」と、未来形で申命記の戒めが訳されています。原文を見ますと、確かに命令形ではなくて、未来形が使われていまして、だから、岩波訳では、こういう訳し方をし、そこにこういう注意書きを付しました。これは、「命令的要素を内包する未来形」だと。これは、命令のニュアンスを持った未来形で書かれていると。どういうことであるのか?その注意書きだけではわかったような、分からないような・・・と感じますが。
何で、ここで未来形が使われているかというと、実は、旧約聖書が書かれた言語であるヘブライ語には、はっきりとした命令形というのがなくて、戒めというのは、多くの場合、未来形というか、未完了形で書かれるという言語的特徴があることによります。申命記の言葉がそもそも未来形、未完了形で書かれている。だから、ギリシア語で原文に忠実に訳すならば、未来形を用いることになったのです。
旧約聖書の言語であるヘブライ語で、命令が、未完了形で書かれるということになった理由について旧約学者の関根正雄という先生が、とても興味深い説を唱えました。関根先生は、特に、旧約の十戒を念頭に置きながら、十戒をはじめとする旧約の戒めが未完了形で記されているから、たとえば、「盗むな」、「殺すな」と訳される言葉は、原文ではもともとこれから先「盗むことはない」、「殺すことはない」というニュアンスを含んでいるのではないかと指摘します。
つまり、神さまの命令というのは、神さまの恵みに基づいて、それから先、当然、付いてくる結果だから未完了形で書かれるというのです。神の恵みによって、エジプトから脱出して神の民とされたあなたは、盗まないだろう、殺さないだろう、そういうことは私のものとなったあなたにとって最早当然なのだという断定が語られていると言うのです。
これは、とても興味深く、また、よく味わいたいことであると思います。わたしたち、行いによってではなく、神さまの恵みのみによって救われると信じるキリスト者にとって、律法とはなんであるのか?神さまの戒めにはいったいどんな意味があるのか?私は、十戒が、恵みの宣言である前文の後に、「あなたはそうするだろう」、「そうしないだろう」という未完了形で書かれているということを私たちが良く思い巡らしてみる必要があると思います。
先立つ神の恵みによって救われた私たちが、その神を喜ばせようと、わたしたちを喜ばせてくださったそのお方を喜ばせるために生きて行きたいと願うのは当然ではないか?それは、今の私たちの心そのものではないかと、私達も、そう言いたいのではないかと思うのです。そして、私たちが今日聞きました聖書の御言葉においても、主イエスが引用為さった戒めは、申命記の引用は、旧約以来の戒めの特色がよく現れていて、未来形が使われているということにこだわって理解したいと思うのです。
私達は、十戒での用法を超えて、その上を行く三重の恵みに支えられて、神さまの戒めは、今、私たちに聞かれるものだと考えます。
それは、第一に、主イエス・キリストのゆえに、そのお方のお持ちになっている富みを分け与えられて、わたしたちも神の子とされた者であるゆえに、私たちにとって、神のみを神とすることは、どんな誘惑と試練の中にあっても、今は、当然のことであるということ。
第二に、私たちと共にいてくださる主イエスが、既に、悪魔の誘惑に勝利された方であるから、このお方の助けのゆえに、私たちは、どんな誘惑と試練の中にあっても、主イエスのように、主イエスの御跡を踏みながら、神のみを神とするだろうということです。すなわち、わたしたちはどんな試練の中にあっても主イエス・キリストに支えられて、これを戦い抜き、勝利するのです。わたしたちは、一人ではないのです。
第三に、それらの利益を、主イエスがどんな風に、私たちに実現してくださったか?そのことを考えざるを得ません。それは、そのお方に対して悪魔のように振る舞ってしまった私たち人間をなお愛するゆえの試み、苦しみを主イエスが担いきることによって、与えられた高価な、価高い恵みであることに気付いた私たちは、なお、この神はわたしの利益に仕える神かどうかなどという悪魔的な問いを抱くことからきれいさっぱり決別するのです。そして、わたしたちは、このひたすら私たち敵としか言いようのない者たちのために、仕え続け、苦しんでくださった主イエスをお遣わしになった、父なる神をわたしたちの神として心からお従いするという、そのような愛の応答を神にお捧げすることは、今や私たち自身の心からの願いだと、言わせていただくのだと思うのです。そして、そのような神への服従も私たちにとっては、苦しく険しい戒めではなく、恵みの一部でしかないと今は思うのです。
ここにいる者たちは、そのような自分であり、隣人であることを互いに受け入れ合い、ゆるしあい、私たちのために割かれ、流された主イエスのお体と血を覚え、祝うために、ただいまより聖餐の食卓を分かち合うのです。
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