見捨てない神

7月2日 主日礼拝説教 ヨハネによる福音書14章18節~24節 大澤正芳牧師

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」

イエス・キリストの約束です。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」

御子イエス・キリストは、今日、私達にこのお言葉を語ることを待っておられました。

わたし、イエスが、今、このわたしの言葉を聴いているそのあなたを、決してみなしごにはしない。これから後、あなたが一人ぼっちになることはあり得ない。いいや、今までもあなたがみなしごであったことはないのであり、わたしが共にいた。そして、このわたしは、これからも、あなたを捕らえて離さない。

今、私達に語られた言葉、今、私達が聴くように、招かれた主の言葉です。

今朝、私達が聴いている、私たちに語られた、この冒頭の主イエス・キリストの約束の言葉、断言の言葉が覆ることはありません。

なぜなら、24節後半の今日の結びの言葉において、この同じお方が、次のように、太鼓判を押してくださっているからです。

「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」

このわたしの約束は、わたし以上に父の約束だ。わたしの父であり、また、あなたがたの父ともなってくださった天の父なる神の約束だ。

この天地を造り、保持し、歴史を支配しておられる主なる神さまの究極の意思がここにある。

そうです。ここには、天地の造り主なる全能の父なる神の固い決意があります。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」

ここに、私たちの置かれている究極の現実があり、神さまの最後の啓示があり、他の何ものによっても凌駕されない、私たちの救いの現実があります。

私たちは、孤独な存在ではありません。

この体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのゆえに父なる神のものであります。

これは、神のまなざしにおける事実です。

神のまなざしにおける事実であるということは、まだ隠されている事実であるということです。

この世にある全ての人にとって、明々白々な事実としては明らかにされていない、神のまなざしと、信仰のまなざしだけが見出すことのできる事実です。

だから、19節に、語られています。

「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」。

あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの元に戻って来るとの、主イエスの約束が、この世のまなざしにおいては見えなくなるのです。

言うまでもないことかもしれませんが、「この肉眼で」という点においては、私たち教会も、この世と少しも変わらずに、戻って来られる主イエスの姿を現に見ているものではありません。

私たち教会もまた、クリスマスにお生まれになり、この地上を体を持って弟子たちと共に歩まれた主イエスの御姿を、せめて一目でもこの目で見ることが許されたならばと、憧れの内に、夢見る者に過ぎません。

けれども、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と、主イエスは仰ったのです。

この世のまなざしにおいては見ることができないお方、私たちの肉眼では捉えることができないこのお方のことを、それにも関わらず、はっきりと、「あなたがたはわたしを見る」のだと、約束されたのです。

将来の約束ではありません。20節冒頭の「かの日」、私たちが主イエスを見ることになる日とは、今ここで私たちが十字架とご復活の主イエス・キリストに出会い、このお方を愛し始める日のことです。

 

主イエスは仰るのです。

この世は、お前の主はどこにいるのかと言うだろう。この世は、どうせ、お前は一人ぼっちだと言うだろう。この世は、お前は見捨てられた者だと言うだろう。それは避けられない。なぜならば、この世にはわたしは見えなくなるからだ。しかし、あなたがたはわたしを見る。あなたがたにはわたしが見える。必ず見えるようになる。だから、わたしがあなたがたを見捨てず、決してみなしごにはしないことが、あなたがたには、よーくわかるようになる。

肉眼では見えなくなるのに、見えるようになるということは、主イエスがここで「見る」という比喩を用いられたのだということだと思います。

もしも、ここで、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを」、「知る」とか、「わたしの言葉を聞き分ける」とか、「わたしのことがわかる」とか、そういう言葉遣いがなされていれば、わかりやすかったと思います。

また、事実、この世、この肉眼が、戻って来られる主イエスを見ることがないということも、暗に語られているわけですから、それは、やはり、主イエスを「知る」、その言葉を「聴き分ける」、「わかる」ようになるということなのでしょう。

神秘体験として、信仰者の誰もが、幻の内に、主イエスを見るようになることが語られているわけでもないと思います。

なぜならば、ペトロの手紙Ⅰの1:8では、一見、今日の主イエスの言葉と矛盾するようですが、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉に言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と語られている通り、肉眼、幻、問わず、主のお姿を見ていない者に与えられた強い信仰、大きな喜びについて使徒が驚いている言葉が記録されているからです。

けれども、主イエスはどうしても、ここで「知る」、「聴きわける」、「わかる」では、しっくり来ず、「あなたがたはわたしを見る」と言わなければなりませんでした。

肉眼で見るわけではありませんが、どうしても、「見る」という比喩を使わなければ表しきれない出来事が、私たちの身に起こることをお示しになったのだろうと思います。

たとえば、それは、「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、ただ主イエスを聖書を読んで知識として知るとか、教理の言葉を信じるとか、そういうことを超えた、骨身に沁みた仕方、肚にストンと落ちるような仕方で、生けるキリストを私たちが経験するようになるという約束であるということだと思います。

もう少し突っ込んで言えば、ここで主イエスが仰る「あなたがたはわたしを見る」という約束は、誇張表現として「見る」という言葉が使われているのではなく、むしろ、この人間の貧しい言葉を用いたぎりぎりの表現であったと理解すべきだと思います。

人間の限られた言葉では、「見る」という言葉でしか語りようがないけれども、もっと素晴らしいことが起きるということではないか、そう理解知るべきだろうと私は今、考えています。

 

分かりにくいかもしれないので、もう一度、言い直してみます。

私たちはできることならば主イエスをこの目で見たいと願っています。

私たち信仰者だけでなく、実は、突き詰めて行けば、この世もまた、使徒パウロが、「被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。」と読み取ったように、主イエスの再臨をその目で見ることを待ち望んでいると言って良いでしょう。

けれども、この肉の目で主イエスを見ることによって、本当に私たちは満足するのだろうか?本当に、信じることができるようになるのだろうか?

おそらく、そうはならないのです。

睡眠不足か、酒の飲み過ぎか、集団催眠か、白昼夢、錯覚として、処理するでしょうし、おそらく、私も、その経験を喜び、神に感謝しながらも、そのように受け止めるでしょう。

それは、私達の肉の目で「見る」行為が、確かなものであるように思えながら、本当は、確実なものではなく、不確かなものであることを私たちはよく知っているからです。

しかし、ここで主イエスが仰る「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」との約束は、そんなあやふやな見方、見え方の約束ではありません。

 

この肉眼で見えなくても、主イエスをはっきりと見た。主がわたしたちを見捨てずに、共におられることは、まぎれもない事実だという固い、確かな信頼に私達を導いてくれるものなのです。

つまり、「見る」という約束は、誇張としての比喩ではなく、それ以上の経験を言い表そうにもそれ以上の言葉が存在しないので用いられる土の器としての言葉だろうと思います。

その土の器には、輝く宝が盛られています。

私たちは、この世のまなざしにおいて、この肉眼において、主イエス・キリストを見ることができなくても、実は、12弟子以上に、今この時、主イエスのことを見る者とされる。

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉に言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と、使徒ペトロが感嘆するほどの、主イエス・キリストとの顔と顔とを合わせた深い関係に生きることを始めさせて頂く、いいえ、既にそうさせて頂いているのです。

私たちはみなしごではありません。主イエスの十字架とご復活の出来事を経て、本当にもう、主のものとされました。

御子イエス・キリストの命という高い代価によって買い戻されました。罪によって、分離されていた私たちは、再び、天の父と結び直されました。

この十字架の御子は三日目にお甦りになり、私たちの元に戻って来られました。

その霊において、今も、私たちと共におられます。

ここで、この場所で、主イエスと、父なる神と、その方を間近に見るような関わり、膝を突き合わせた交わり、いいえ、間近に見るどころではありません。

23節後半、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」とありますが、これは、原語では、「その人を住居とする」と訳せる言葉が語られています。

 

この私の内に、神が住まいを得られる近さです。

近くて近くて、鏡を使わない限りは、私たちが自分の顔を、自分の瞳を見ることができないほどの近さにおいて、私たちと共におられるその交わりに、今、このお方は私たちを引き込んでくださっているのです。

とんでもない近さです。

私たち一人一人と神の近さというのは、とんでもない近さなのです。

もしも、皆さんが主イエスというお方と、父なる神の近さというものが、特別な近さであると信じておられるならば、主イエスは私たちを、御自分と父の間にある同じ特別な近さの中に、私たちを巻き込んだのです。

これは、主イエスの言葉でなければ、私たち教会にとっては、冒涜に響きかねない理解です。

 

けれども、主イエス御自身が、20節でも、そのように仰るのです。

「かの日には、わたしが父の内にあり、あなたがたがわたしの内にあり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたにわかる。」

マトリョーシカのように、主イエス・キリストが、天の父の内にある。そして、私たちが、主イエス・キリストの内にある。

けれども、それでは終わらない。

今度は、主イエス・キリストが、私たちの内にある。

入れ子細工のように、あるいは、あやとりの糸の重なりのように、主イエス・キリスト、父なる神、そして、私たちの絆が結ばれているのです。

ある人は、今日の聖書箇所を説きながら、ここには、私たちの存在と、御子イエス・キリストの存在と、父なる神の存在が入り組んだ、「福音の鎖」、あるいは「愛の鎖」と言いうるような解き難い深い結びつきが語られると言います。

もしも、ここまでの話を聞きながら、このような深い結びつきに、どうしたら自分は入れるかということを問う方がいるならば、私は、誤解なきように、はっきりと申し上げたいと思います。

 

主イエス・キリストは、この言葉を、条件を満たすことによって、実現される将来の約束としてではなく、今、ここにある私たちの隠された現実として、お語りになったのです。

しかも、この御言葉において、その隠された現実の、覆いをあなたの前で取り除いて、あなたが生きているところは、ここだとお語りになっているのです。

必要なのは、これから条件を満たすことではなく、ただ、気付くこと、その現実を、手を開いて、受け取ることだけです。

このようなたいへん都合の良い言葉を聴きながら、あるいは、冷静に、今日の聖書箇所の一字一句に目を留める方は、この約束には条件が伴うではないかと、不安になって問われるかもしれません。

たとえば、21節で主イエスは、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と仰っているだとか、23節で、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と主イエスは仰っているだとか問うかもしれません。

いいえ、ここには、条件など書かれていません。それは木を見て森を見ない聖書の読み方です。

ここに語られているのは、動き出し、進んでいく、神と私たちの楽しいダンスのリズムであり、そのスタート地点などではありません。

そのスタート地点は、13:1「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という、キリストの一方的な愛の注ぎの出来事のみです。

それゆえ、22節のイスカリオテのユダでない方のユダという弟子の問いもまた、主イエスに問うことは的外れであり、それゆえ、直接、答えられることのない問いでした。

すなわち、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」という、神の選びの不思議、あるいは選びの不可解を問う問いは、主イエスの前では真剣な問いにはならないのです。そんなことは問題になりません。

なぜならば、主を見た者は、主と共に、踊り始めるのであり、この踊りは、世の終わりまで続いて行き、さらに見る者を、その輪の中に引き込まずにはおれない楽しく、麗しいものからです。

 

つまり、それは、私たちの礼拝であり、私たちの宣教のことです。

 

その礼拝、宣教が、歌い、踊るのは、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」という歌であり、また、「わたしが父の内にあり、あなたがたがわたしの内にあり、わたしもあなたがたの内にいる」という、福音の鎖、愛の鎖のダンスだからです。

 

あるいは、ここまで取り上げなかった主イエスのシンプルな、ごく単純な御言葉を紹介すべきかもしれません。

 

それは19節後半の御言葉です。

 

「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

 

イエス・キリストの福音というものは、語り尽くせぬほど豊かなものであり、私たちの言葉の貧しさがもどかしいほどのものでありますが、しかし、同時に、ごく単純に語ることもできるものです。

 

「わたしが生きているので、あなたがたも生きる。」

 

十字架とご復活の主イエス・キリストは今、生きておられ、この生けるお方が、私たちを今日、ここに招き、私たちに語り込まれています。

 

わたしは生きている。わたしは生きている。そのわたしがあなたを生かす。あなたがたがダメにならない。滅びない。あなたがたは生きる。

 

ただいまより聖餐を祝います。

 

聖餐とはまさにこの解き難い福音の鎖、愛の鎖の見える形です。

 

このパンと杯に与る時、主イエスが私たちの内におり、私たちが主の内にある、主と私たちの相互マトリョーシカ状態が具体化されるのです。

 

このパンと杯に与る時、20節の「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」という主の約束が、形となるのです。

 

生ける主イエスをこの身に頂き、私たちは生きることになるのです。

 

今、深い深い欲望をもって、この聖餐に与ります。

 

そしてまた、私たちキリスト教会は、この食卓によって力付けられ、この私たちの開かれた喜びの踊りの輪にあなたも招かれていると、主よりの招待状をもって、この世へと、新しい一週間へと送り出されてまいります。

 

 

 

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