5月31日 マタイによる福音書26章47節~56節
イースターから一か月半、この日をどんなに待ちわびていたことかと思います。しかし、なお、自宅での礼拝を続けなければならない仲間がいることを忘れることはできませんし、今日ここに集えた方々にも手を取り合って、再会を喜び合うことは控えて頂くようお願いしなければなりません。
建物内では、言葉を少なく、礼拝前後も、人との距離を取り、礼拝終了後は、残れる方で協力して清掃消毒を速やかに行い、その他の方には、なるべく早く帰路に着いて頂く必要があります。それは既に連絡網や、HP上で、だいたいお伝えした通りです。
けれども、不自由を承知の上、なお礼拝に集った神の民がここにあります。礼拝前後に親しい友とのお喋りができないのに、なお、会堂での礼拝を慕い求め、今日、待ちかねたように集まった神の民がここにあります。
なぜなのでしょうか?
特に、今日初めて教会の礼拝に来られた方があるなら、なぜ、この人たちはこのような状況の中で、なお、ここに集まってくるのか?と、不思議に思って頂ければと思います。
ここにあるキリスト者たちは、自分でも、「この理由によるのだ」と、はっきり答えることはできないかもしれません。一人一人に尋ねれば、違った答えが返ってくるかもしれません。
けれども、そのさまざまな理由も、実は、非常に単純な一つの理由にまとめることができると思います。それは、礼拝に集うことは、洗礼を受けたキリスト者たちの本能だということです。
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ロシア正教会の長老、アレクサンデルという人は言いました。「キリスト者の魂は、毎日曜日、〈自動的に〉礼拝に向かわざるを得ないものだ・・・キリスト者が日曜日に礼拝に行くことを怠ると、一週間全部がむなしくなり、満たされないままになる」。
この人は、我々洗礼を受けたキリスト者たちには、「礼拝本能」と言うべきものが発達するのだと言うのです。
もちろん、このような本能は、人間の奥深くに潜んでいた宗教的本能が、洗礼によっていよいよ花開いたということではありません。
イエス・キリストの十字架から知られる最も深い人間に関しての一つの洞察は、生まれながらの人間は、どんな宗教的な人間であっても、本当のところ、神を殺してしまいたいのだということです。
当時の宗教者たちが中心となって、イエス・キリストの裁判と処刑が行われたのです。ニーチェのような無神論者だけではない、どんな宗教的な人間であっても、私たち人間は神を殺したい者だということが露になっているのです。
けれども、そのような神を殺したい人間が、神様を本能的に礼拝する人間へと新しく生まれ変わるのです。洗礼によって、その洗礼の水を用いて働かれる神の霊とによって。
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本日はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝です。教会に聖霊が降ってきた日です。ペンテコステは、教会の誕生日です。神の霊が祈りのために集まっていた人たち、一人一人の上に留まり、礼拝することを本能とする礼拝人間の群れ、教会が生まれた日です。
さて、この礼拝を本能的に慕う人間のことを、福音人間と言い換えた人がありますが、これは事柄に適った言い換えであると思います。
なぜならば、私たちの礼拝本能は、私たちの内側から湧き上がってきたものではなく、私たちの元に来てくださった聖霊が外から与えてくださった福音によるものだからです。
聖霊が降り、礼拝を本能とする人間が生まれるということは、降ってきた聖霊によって、何となく心が温かくなり、何となく神を愛する思いが湧いてくるというようなものではありません。聖霊は、主イエス・キリストの出来事を悟らせる霊です。
閉ざされて空気が淀んだ部屋の中にも、風が、わずかな隙間を見つけて入り込んでしまうように、聖霊はどこからともなく閉ざされた人間の元にやって来て、一人一人の上に留まり、キリストの出来事を我がこととして教えてくださる。それを私のための出来事であったと、わからせてくださる。
それは、炎のような舌であったと言います。燃えるように熱い神の舌です。舌は言葉の象徴です。だから炎のような舌とは、熱を持った言葉、生きている言葉、情熱的な言葉の象徴と言っても良いかもしれません。
聖霊が来られるとき、その神の情熱的な言葉が、一人一人の上に留まるのです。まるで母猫が子猫を優しく舐めるように、神の熱い舌、情熱的な言葉が、人間の上に留まるようになるのです。
閉ざされた部屋の中にいた人間の元にやって来て、一人一人を熱く抱きしめる神の霊、神の言葉、その神の情熱に温められる時、冷たくなっていた私たち人間の奥底は、新しくよみがえり、生まれ変わって礼拝を慕う人間とされるのです。
この神の熱い言葉をもたらす神の霊に温められる時、私たちはいてもたってもいられなくなる。神を礼拝せずにはおれなくなる。それが、今日、皆さんがここに急いでやって来た理由です。
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そして、今日、共に聴いている聖書個所、ユダの口づけによって裏切られるキリストのお姿を語る言葉、残りの弟子たちに見捨てられるキリストのお姿を語る言葉、私たち人間どもに、剣と棍棒を持って取り囲まれるキリストのお姿を語る言葉は、母猫のような激しく優しい愛を持って、私たち人間を愛された神の情熱の姿を語る言葉であります。
今日は長い話をできません。それだから、一点に集中し、簡潔に申し上げます。
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と仰った主イエスの御言葉。有名な御言葉です。この言葉を自分の生き方の座右の銘としていらっしゃる方も、あるかもしれません。
どんなに責められても責め返さない。それは個人の生きざまにとって意味があるだけではありません。たとえば、私たちの国の憲法の第9条には、実は、そのバックボーンにこの主イエスの御言葉があるかもしれません。
暴力は暴力を呼ぶ。力で押さえつけることによって獲得した平和は、もっと大きな力によって滅ぼされる。これは人間社会に通じる一つの知恵であると言えます。一つの正しい在り方だと思います。
けれども、このような理解の仕方が、私たちが主イエスの御言葉から聴きとるべき第一のことであるかと言えば、そうではないでしょう。
なぜならば、この言葉は、主イエスを捕らえに来た者たちに剣を抜いて切りかかった弟子のペトロに語られた言葉ですが、ペトロに対して、暴力への無抵抗を呼びかけたのではなく、主イエス御自身が、「暴力を断念する」と仰っていることだからです。
つまり、裏切りと逮捕、剣と棍棒を持った人々の暴力に甘んじられたのは、他の誰でもなく主イエス・キリストであられたのです。
そして、このことは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉の一般的な理解を大きく変えるものだと思います。
すなわち、主イエスがご自分の手に取らなかった剣とは、人間の剣ではないのです。力と力が拮抗し、今日はこちらが勝ち、しばらくは平和を維持できても、叩かれた者が力を蓄え、復讐する時に、何倍ものひどい滅びを剣を取る双方にもたらす際限のない暴力の応酬に至る人間の剣ではないのです。
主イエスが手にお取りにならなかった剣とは、ペトロの剣なんかではありません。53節に語られた剣、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と仰る天の剣です。
ご自分に向かって、裏切りの接吻と剣と棍棒を持って迫ってくる人間に向かって、主イエスが天の剣をお取りになるならば、際限のない主イエスと人間の間を行き交う暴力の応酬とはならないのです。
天の軍勢による一方的な蹂躙で終わるのです。ローマ帝国全土の軍団を結集しても、現代の最新兵器をすべて注ぎ込んでも、勝負になりません。
主イエスが天の剣を取られたならば、私たち人間の歴史はこの時終わったのです。もしも、そのことを弁えないならば、この主イエスの言葉を理解することはできないのです。
しかし、主イエスは、天の剣をお取りになることはありませんでした。十二軍団の天使の軍勢をお呼びになることはありませんでした。十字架の道を選び取ってくださいました。
私どもは不思議に思います。主イエスが天の剣をお取りになるときに、滅びるのは、主イエスではないのです。滅びるのはただ、神の独り子を、裏切った者、剣と棍棒を持って取り囲んだ者、この方を、見捨てて逃げ出した薄情者だけであるはずです。
ところが、主イエスは、「その天の剣を取れば、この私は滅びる」と仰ってくださったのです。
もう、おわかりでしょうか?
神の独り子は、ご自分を裏切る者、剣で囲む者、見捨てて逃げてしまう者が、そのそれぞれの罪にふさわしく裁かれ、滅びてしまうことを、ご自分の滅びだとお感じになってくださっているのです。
「お前たちの滅びは、わたしの滅びだ。だから、私は剣を取れない。十字架につく以外はない。」
そう仰るのです。主イエスはどんな思いで、この言葉をお語りになったのか?どんなに悲しんでおられたか?けれども、この悲しみの大きさは、そのままに、私たち罪人への愛の大きさでありました。
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キリストの受難のことを、英語でパッションと言います。そしてパッションとは御存じの通り、一般的には、情熱と訳される言葉です。
キリストの十字架とは、キリストの弱さではなく、その情熱が結んだ実です。
裏切り者、薄情者、神を殺したい私たち人間を、滅ぼしたくないキリストの情熱、御自分の死以上に、「お前の滅びは私自身の滅び」だと、天の剣を捨て、十字架を選び取ってくださるキリストの私たちに対する情熱があるのです。
もちろん、人間が滅びても、キリストが滅びるようなことはありません。だから、「お前が滅びることは、わたしの滅びだ」と主が仰るのならば、それは、愛以外の何ものでもありません。
しかも、これはただキリストお一人の情熱的愛ではありません。54節と56節に、もしも、私が剣を取るならば、「必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」、「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現する為であった」と語られる主の御言葉があります。
「聖書の言葉」、「預言者たちの書いたこと」、これは旧約聖書のことです。主イエスが、天からこの地上へとやって来られる前、ずっと昔から、神が私たち人間にご自分を表されて以来、天の神は、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉、「お前の滅びは、この私の滅びだ」ということを、人間に向かうときの御自分の心としてくださっているということです。
そして、このような神の思いは、接吻をもって御自身を売り渡したユダへの言葉、「友よ、しようとすることをするがよい」という短い言葉の中に、凝縮していると思います。
神は、この人間の裏切りを越えて、ご自分の御心を貫かれる。ユダの裏切りを飲み込んで、私たち罪人を滅ぼさない、救って生かすという御心、情熱の御心を貫かれたのです。
今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。このような情熱的な愛の神さまが、キリストの死とお甦り、そしてその昇天の後に、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と仰り、お送りくださったのが、神の霊、聖霊であられるのです。
この神の霊は熱く、また優しいのです。私たちを捨てないのです。
どこまでもどこまでも追いかけてきて、閉ざされた部屋の中にまで追いかけてきて、一人一人の上に留まるのです。
それは、受難と情熱のイエス・キリストの霊、旧約以来、「お前の滅びは、私の滅びだ」と仰ってくださる天の父の霊だからです。
その神の迫りを受ける時、もはや本能的とも言うべき、神を慕い求める心が与えられるのです。
その礼拝本能を生み出す神の情熱が、どんなことがあっても、何が起きても、必ず、再び私たちをこの礼拝の場に、連れ戻してくださるのです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、
どんなに私たちの側で、あなたとの繋がりが見えなくなる時も、
私たちを捨てることなく、霊において共にいて下さるあなたによって、
ここに連れ帰られました。
まだ、この礼拝の場へと戻ることのできない仲間たち、まだこの礼拝に集っ
たことのない者たち、どうぞ、一日も早く、その一人一人の状況を整え、こ
の場に連れ帰ってください。この祈り私たちの真の羊飼い、イエス・キリス
トのお名前によってお捧げ致します。アーメン。
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