裁かないで生きる

主イエスの育ての父であるヨセフという人は、大工であったと言います。しかし、大工と言っても、私たちが考えるような木で家を建てるような職業ではなかったようです。

当時の家は、洞窟を利用したり、レンガ造りや石造りのものでした。だから、木を扱う大工であるヨセフの出番は、屋根の梁を造ったり、扉を造ったり、窓を造ったり、家造りの内でも、そういう木材加工をする部分で活躍する仕事であったと考えられています。小さな村では、そんなにしょっちゅう、家を造ることもないでしょうから、普段は、家具を造ったり、家畜を繋ぐくびきなどの農機具を作っていただろうと考えられています。

主イエスもそのお手伝いをされたでしょうし、マルコによる福音書6:3では、「この人は大工ではないか。」と言われています。主イエスは大工の息子であったし、御自身も、伝道を始める前は、木工で暮らしを立てていたと考えるのが自然かもしれません。

そう考えますと、今日の主イエスのお言葉は、主イエスに本当に身近な事柄を材料に語った話なんだなということがわかります。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか。」

人を裁く者にお語りになったお言葉です。

おが屑です。丸太を削りながら出るのこ屑です。吹けば飛ぶものです。目に入れば、痛いですけれども、大したことはありません。すぐに涙と一緒に流れ出てしまうほど小さくて軽いものです。主イエスは、人を裁く者に向かって、あなたたちのやっていることは、おがくずのような小さな問題を騒ぎ立てているようなものだと警告されます。

確かに、私たちは、この主イエスのお言葉の通り、おがくずのように小さな人の過ちをも積極的に裁いてしまう者だなと思わされます。それはほとんど弁解の余地がありません。

たとえば、子どもは大人のカリカチュア、戯画だと言いますが、我が家でも上の二人の子が最近よくケンカするようになりました。これもまた、成長のしるしと思い、しばらく放っておきますが、なかなか折り合いがつかない。なんで折り合いがつかないか観察していると、謝っているのに、その謝り方が良くないと怒っている。そればかりか、最近では、私が怒る時にも、注文を付けてきます。お父さんの怒り方は気に入らない。もう少し、優しく怒って。

こういう場面に出会うと、思わず吹き出してしまいますが、何で、吹き出してしまうかと考えれば、まるで、大人のようではないかと思うからです。小さな子どもが、大人のようなことを言うから可愛くて、笑ってしまう。

けれども、それだけに、謝り方が悪い。いや、怒り方が悪いということとほとんど変わらないことをしている自分たち大人の世界ではないかと思います。

だいぶ前の記事ですが、読売新聞の子どもの詩のコーナーに乗った詩として次のようなものがネット上に紹介されていました。

お父さんとお母さんは
けんかをしていて
口をききません
お母さんは 
お父さんに
古いご飯をあげたりしています

夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますが、端から見ている者にとっては、本当に、くだらないことで争っているように見えます。犬も食わないことで喧嘩して、口を利かない。古いご飯をあげる。やってることは子供みたいです。けれども、当事者同士は、案外、それで真剣に傷つきあってしまっているものです。

こういうことは、親しい者の間柄で起こりがちなことですらないと思います。親しい者には甘えがあるから、大人げないふるまいをしてしまうという問題ではないと思います。

たとえば、この冬もどこに雪を捨てるかで、ご近所通しがもめていたという話などを聴くと、雪をどこに捨てるかなんていうことで仲違いなんて、子供みたいだと思いますけれども、渦中の人は、全然笑えない。

国と国との争いだって似たようなものであるかもしれません。お互いの意地の張り合い、それこそ謝り方が悪いなんてことで、いつまでも世代すら超えてお互いに裁き合い続けます。

しかし、主イエスは、あなたたちが裁き合っている問題は、おがくずの問題に過ぎないのだと仰る。おがくずのような小さな人の過ちをあたかも裁判所の法廷に持ち出すように、責めるのはやめなさいと仰る。

けれども、この主イエスのお言葉を聴きながら、もしも、過ちは誰にでもあるのだから見逃してやりなさい。自分を振り返れば五十歩百歩じゃないか、目くそ鼻くそじゃないか、情けは人の為ならず、人の小さな過ちを責め続ければ、巡り巡って自分の小さな過ちが赦されなくなるぞというまさに、人を計った秤で、今度は、その人があなたを計るようになるよという、誰しも納得できる教訓を語っていると理解するならば、それは、おそらく、この聖書の言葉を誤解していることになると思います。

主イエスは、あなたが裁こうとして人の中に見えている過ちが、同じようにあなたの目の中にあるのだ、五十歩百歩だと仰るのではありません。それどころか、あなたの目の中には丸太があると仰る。

丸太です。二つの大きさは比べ物になりません。たとえば屋根をしっかりと支える梁そのものとなる丸太と、それを整えるために、出た切れ端どころか、のこ屑です。

人の目のおがくずを大きく過大に評価しがちな私たちです。重箱の隅をつつくという言葉がありますが、私たちは、拡大鏡を持っていて、それに映るおがくずを見て、あなたの目には、切り株がある、あなたの目には板があると言っている。

けれども、そのようにして人の過ちに執着して大げさに裁くあなたの目には、丸太があると主イエスは仰います。まさに2節に「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の計る秤で量り与えられる。」とあります。それが、ここで実現しているようです。

しかし、それこそが大げさなことではないかと思います。私たちは、人のおがくずほどの過ちを流石に、丸太ほどには見做さないからです。私たちは、せいぜい私の過ちと他者の過ちは五十歩百歩だと思っています。だからこそ、この主のおがくずと、丸太のたとえに度肝を抜かれるのです。

あなたが人の目の内にあるおがくずを見ているが、あなたの目には、あなたに見えていない丸太があるね。

ここには、私たちが互いを量っているもの以上の秤があるようです。私たちの量りでは決して見つけることができなかった丸太を見つける秤です。私たちの裁きの拡大鏡では、大きすぎて見えない丸太ん棒を見つける秤です。それは、なぜ、私たちが誤った量り方をしてしまうのかの秘密をも語る神の秤です。

そこで、ある説教者は言います。

「私どもは、実は自分のものさしだけでは、自分の目の中にある梁を、見つけることができないのです。それが見えてこないのです。神の目で見られ、その光に照らされた時だけ、自分の目に大きな梁が横たわっていることがわかるのです。したがって、この梁を、直ちに、私どもの罪と言い換える」ことができるのだと。

そもそも、私たちが互いに過大に裁いてしまうのは、目に丸太があるからです。はっきり見えないからです。だから、いつでも誤った裁きをしてしまいます。主イエスは、この私たちの罪をはっきり見ておられる。あなたの目には丸太がある。だから、人を裁いているのだ。主イエスの歩みとは、私たちのこの罪の重さを暴露する秤そのものであったとさえ言えます。

その私たちの罪の重さは、種によって、どこではっきりと量られたものなのか?

十字架です。主イエスの十字架を知る時、私たちの罪の丸太の大きさがどんなものであったかが初めてわかる。私たちの罪の丸太の大きさは、十字架と同じ大きさ、主イエスの十字架の御苦しみの大きさ、その死の深さと同じ深さ。

あれほど大きくて深い主イエスの御苦しみを必要としたのは、私たちが、大きな丸太を抱え込んでしまっているからでした。その大きな罪に気付かないままに、人の目にあるおがくずだけを気にして、裁くことはおかしなことです。

主の十字架を必要とした私たちの罪なのです。

この罪の丸太に比べれば、お互いに裁き合っている罪は、おがくずでしかないのです。お互いが本当にどんなに罪深い者であるか、神の量る深さで量ることができないところで自分は正しいと勘違いして行っている裁きに過ぎないのです。

けれども、その神の裁きに気付くならば、なお、今、私たちが日々しているような人への裁きをし続けることができるのだろうか?と問われるのです。

あの人の罪は大きい、私の罪はそれよりも小さいと、判断し続けている私たちが使用するものさしの目盛りは、この神の裁きの秤を知るときにこそ、ほとんど意味をなさない誤差に過ぎない圧倒的な罪の重さに気付かされるのです。

けれども、それは、誰が何をやっていようと一切裁いてはならない。手も口も出さず、黙っているという恐ろしく消極的な生き方を勧めていることではもちろんないと思います。

主イエスは、5節で、「まず自分の目から丸太を取り除け」と仰います。この言葉は、自分の目をふさいでいる罪の丸太を取り除けることができるかどうかやってみろ、できないだろう?という意地悪な言葉ではないでしょう。

単純に、言葉通り、あなたの内にあるその丸太は取り除くことができるのだ。と仰っている言葉だと思います。それだから、丸太が取り除かれ、はっきり見えるようになれば、「兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」のだと仰るのです。

しかし、気付くことすらできないほど大き過ぎる罪の丸太をどうやって取り除くことができるのか?

ここで多くの人が思い出すのは、マタイによる福音書第18章の1万タラントンの借金を赦された家来のたとえです。

ある王さまの家来が、王に1万タラントン、現代のお金に換算すると、数百億円とも数千億円ともいうような、国家予算規模の借金をしていたと物語は始まります。

ある時、王は、この借金を決済しようと、家来を呼び出しました。しかし、とてもじゃないけれども、返済できません。王は、妻子を売ってでも、返済するように命じます。けれども、必死に待ってくれと懇願する家来を憐れに思い、王はこの家来の借金を帳消しにしてやります。

ところが、この家来が家路につくとき、通りの反対を歩く、自分に100万円の借金をしている仲間に出会いました。家来はその仲間の首根っこを掴んで、首を絞めながら、金を返せと迫りました。仲間はひれ伏して、どうか待ってくれと頼みましたが、家来は赦さず、借金を返すまでと、この仲間を牢屋に入れてしまいます。

数千億の借金を赦してやった王は、その家来の情けのないやり方を聞き、怒り、借金を返済するまでと、この家来を同じように牢の役人に引き渡しました。

このたとえの様々な要素は、確かに今日聞いている主イエスのお言葉ととても響きあっています。自分の量る秤で量られると同じように警告します。

しかし、そこで同時に、私たちは、はっきりと主なる神さまの憐みの御心を知ります。1万タラントンの借金も、私たちの目の中の丸太も、神は、取り除いてくださったのだということに。

主イエスの十字架は、私たちの罪の深さと重さを表すものさしであるけれども、それは、そのまま私たちの罪を取り除く十字架でありました。

主イエスに指摘されて自分の罪の丸太に気付くということは、それが既に取り除かれていること、赦されているということに気付くこと以外ではありません。

自分の丸太に気付く時は、その丸太を主イエスが背負われ、取り除いているもの、だから、赦されている自分であることに気付くことです。そして、その赦しが、もう、すべてを変えてしまっているのです。

先週、夜の祈祷会で、たいへん印象深い御言葉に出会いました。民数記23:8です。「神が呪いをかけぬものに/どうしてわたしが呪いをかけられよう。/主がののしらぬものを/どうしてわたしがののしれよう。」

これは、非常に信仰深い言葉に聞こえますが、この言葉を語った者は、神の民に呪いを掛けようとした呪術師の言葉です。呪術師が、場所を変え、手段を変え、何とか、神の民を呪おうとします。けれども、どうしても呪えない。祝福することしかできない。

今や、これこそが、主イエスが造りだしてくださった私たちの姿であると思います。もう、呪われた者になることはできない。祝福された者以外ではありえない。そしてその祝福を人と分かち合う者でしかない。

そこで、もう一度、私たちが互いの内に見る過ちは、おが屑に過ぎないという主イエスのお言葉を思い起こしてみたいのです。

私たちは怒り方が悪い。謝り方が悪いと些細なことで裁き合ってしまう者です。けれども、何で、そんな些細なことに、目くじら立てて、騒いでしまうかと言えば、それによって、自分が否定されていると思うからです。

私の行動が非難される時、自分の人格が否定されたと思ってしまうからです。だから、裁かれるままでは終われない。どうしても、エスカレートしていく裁き合いになってしまう。

けれども、神がキリストの十字架によって私たちを赦してくださっているということは、これから先、どんなものも、私たちの存在を否定することはできないということです。私たちの丸太のような罪を神が丸ごと取り除いてくださったということは、今は私たちの丸ごとが、神の赦しの中、神の肯定の中にあるということです。

誰も神さまの赦しの中にある私たちを呪うことはできません。神がキリストの十字架によって、赦し、祝詞、新しくした私たちの内なる人は、外なる人が滅びても、もう、絶対に傷ついたりしません。パウロが、コロサイ書3:3で、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」と言う通りです。もう絶対に、誰も手を出せません。

その時、私たちを裁く人の言葉は、私に関するどんな問題の指摘であったとしても、それは私の存在を押しつぶす丸太の問題ではなく、おが屑の問題であると弁えることができるようになります。

しかし、それだからこそ、意固地にならずに自分の過ちを悔い改めることができるようになります。自分が必死に守らなければ、傷ついてしまう私の存在ではないからです。

それはまた、人のおが屑を指摘しなければならない側に立ったとしても、同じことです。もう、鬼の首を取ったように、人の過ちを裁くことはできません。どんなに非難に値する過ちを発見しても、隣人の人格を否定するような裁き方はできません。どんなに大きな過ちも、主の赦しのゆえに、隣人の丸太を背負われ、御自分のものとされた主のゆえに、改めておが屑と見做さなければなりません。

私と同じように、その人の存在が呪われ、否定されることは不可能なのです。そのことに気付き、その事実に生き始める者として、自分と隣人のおが屑に真っ直ぐに向き合うのです。

それが、自分の罪の丸太が取り除かれて、はっきり見えるようになることなのです。その裁きは、人を殺す裁きではなく、必ず人を生かす裁きとなります。もう、誰のことも呪うことはできないというのは、目標ではなく、事実です。私たちは呪う代わりに、神の声に合わせて、祝福を告げます。

本日は、教会総会を行います。神の御前に一年の歩みを報告し、新しい年度の歩みを改めてお献げいたします。このための準備にも、多くの者たちが力を割いて携わってきました。それだけに、多くの者が、一体何のために、時間と労力とお金を懸けて、教会の歩みを続けるのかと、一番、考える日々を過ごしてきたと思います。

それは、今日、共に聞いてきたことであると思います。一人でも多くの人が、丸太の取り除かれている人生、すなわち、既に事実となっている祝福された自分と隣人であることに気付くことができるように、その徹底した祝福の内にある自分の人生を、生き切ることができるように、そのために神が教会を建てられたのです。

教会とは、この祝福の事実を繰り返し聞き、それを弁え続ける群れです。教会とは、この祝福の事実に気付き、この祝福の事実に生き、また、この祝福の事実を世に告げるために存在する群れです。

それは、本当に貴重な存在です。世に良い知らせを告げる美しく頼もしい存在であるのです。

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