聖霊の証印

10月18日 コリントの信徒への手紙二1章21節から22節

イエス・キリストという私たちの救い主のお名前は、名前と苗字というわけではなく、イエスというお名前に、キリストという称号が結び付いたものです。

 キリストという語は、ヘブライ語のメシアという言葉のギリシア語訳で、元の意味は、「油注がれた者」という意味です。

 現代においても、高級アロマオイルを用いたオイルマッサージみたいなものは贅沢に属することでしょうが、古代世界では、良い油は特に珍重されるものでした。

 聖書において、何よりも油が用いられた大切な場面は、神に選ばれた祭司や、王様を、その職務に任じる時に、頭からたっぷりと良い油を注ぐという使われ方においてでした。「油注がれた者」というのは元来、このような任職を受けた人たちのことを指す言葉でした。

 しかし、イスラエルの歴史においては、やがて、神の民を、外国の支配から救い出す特別な王さまのことを、メシア、キリストと代名詞のように呼んで、その救い主を待つようになりました。

 ですから、イエス・キリストというお名前には、イエスこそ、油注がれた特別な救い主、神さまが遣わしてくださる解放の王さまだという思いが込められた呼び名なのです。

 だから、教会においては、やがて、キリストという称号は、イエスそのお方の固有名詞と理解されるほどにイエス様御自身と結びつけられ理解されるようになったのです。「イエス・キリスト、この方以外に、油注がれた者と呼べる者は天下のどこにもいない」という風に。実際に新約聖書においても、名詞の形でも、動詞の形でも、数百に及ぶ使用例の内、ほんのわずかな例外、たった3例を除いては、「油注がれた者」、「油を注ぎを受ける」という言葉は、イエス・キリストを語る以外の文脈で用いられることはありません。

 その三つの例外の内の一つが、今日の個所21節の後半なのです。「わたしたちとあなたがたをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは神です。」パウロはここで自分達のことを神によって油注がれた者だと言います。自分たちのことをキリストだと言っているようなのです。

 ある有名な聖書学者は、「パウロはおこがましくも、自分自身を『油注がれた者』にしてしまった!」と、非難を込めて申します。「ちょっと普通では考えられない思い上がり」だと。パウロの使徒としての正当性を疑っているコリント教会に対して、イライラが募り、我らこそは、「神によって油注がれた極めつきの特別な存在なのだぞ」と言ってしまったと理解します。

 しかし、もちろん、そんなことはない。むしろ、多くの学者が指摘するのは、油を注がれた「わたしたち」、油注ぎを頂いた「わたしたち」とは、パウロたちだけではありません。パウロを理解できないままでいるコリント教会の人々を含めた「わたしたち」として理解すべきであると言われています。コリント教会の人々を指しながら、「あなたもキリストだ。あなたもキリストだ。私たちはキリストだ。」と、パウロは語っているのです。

 これは驚くべき言葉であり、私は自分で今、こんな風に、皆さんに語りながら、これは何て危ない発言だろうかと動揺せずにはおれません。パウロは自分達どころか、人間全体を思い上がった位置に置こうとはしていないかと、思われてしまうような発言であります。

 「私たちがキリストだ」なんて、キリスト教会に属する者であるならば、本来ならば口が裂けても言えないことです。私たちは神の日毎の助けを必要とし続ける貧しい人間として、人間の位置に留まらなければなりません。これまで歴史上には、何人もの油注がれた人間、神によってキリストとして立てられた人間、王や、祭司や、預言者はいましたが、2000年前に、輝ける太陽である神の独り子が来られ、私たちのためのキリストとなってくださって以来、それまでの全ての油注がれた者は、ただこのお方の比喩であり、影に過ぎないものとなったのです。

 その時以来、キリストという称号はこの方としっかり結び合わされ、その方の固有名詞となるほどに、結び付き、もうその方以外に、この名を名乗れる者はいなくなったのです。少なくとも、私たちキリスト教会にとっては、それが常識です。キリストは、ただ主イエスのみ、私たちを救い得る神から送られたメシアは、このお方のみ、他の誰もキリストであることはあり得ません。それなのに自分たちをキリスト、油注がれた者だなんて言うなんて、おこがましいのです。思い上がっているのです。まるで、人間が自分で自分を救えるような言い方なのです。それこそ、偶像崇拝以外の何ものでもない。

 ところがよりによって、パウロがそんな言い方をここでしているのです。「あなたも油注がれた者、あなたも油注がれた者、私たちは油注がれた者だ。」

 これはおこがましいということを超えて、危ないことです。人間が、憐みである神さまの救いを拒否して、自らを救い主と自称する偶像に自分を仕立て上げかねないようなことです。それは、パウロ自身が、一番、気を付けていたことであったはずです。

 ここで問題となっているのは救いの確かさです。然りと否がはっきりしないと思われてしまっていたパウロ、パウロの言葉を聞いていては、信仰の積極面が見えてこないと思われてしまっているパウロでした。

 けれども、この直前の個所で、信仰とは、イエス・キリストにおける私たち人間に対する神の徹底的な然りだとパウロは語りました。パウロの語る否も、全ては徹底した神の然りに仕えるためだけの否だと語りました。

 それを受けての21節、22節です。信仰というものが、私たちを不安にさせるものではなく、確かな救いの喜びを与えてくれるものであることを、いよいよ語ろうとしているのです。

 私たち信仰者はおどおど生きるのではない。キリストに固く結ばれている。主イエスだけが頂くような油注ぎを私たちも頂いている。神は私たちに証印を押していらっしゃる。保証として霊をお与えくださっている。

 キリストの出来事は、私たちを油注がれた者にした。私たちに神の聖なる者であるとの太鼓判を押した。そればかりか、私たちの心に聖霊を送られて、保証の上に保証を加えてくださった。我々皆に聖霊が与えられているじゃないか?それが私たちの救いの確かさだ。まるで、救いの保証や、聖霊を自分の手で握りしめることができる所有物のように、理解できてしまうような言い方が、気になります。

 しかし、このようにパウロが語るとき、コリント教会の人々は、深く同意したのではないかと思います。このコリント教会というのは、パウロの手紙に登場する他のどの教会よりも、聖霊、神の霊の働きということを重んじた教会であったからです。

 「わたしたちには保証として”霊”が与えられているじゃないか?」と、パウロに言われたとき、コリント教会の人々には確かに思い当たることがありました。

 私たちはコリント教会が、他の教会に勝っていかに聖霊について意識されることが多かったかということは、第1の手紙の、第12章以下を読めば、わかることです。コリント教会の誰もが、生ける聖霊の力、霊的な賜物を得ることに熱心だったのです。そして何よりも、聖霊の現臨のしるしである、異言、神の霊に憑りつかれたように、この世の国の言葉ではない、不思議で、奇跡的な神の賜物である言葉で祈ることに熱心でした。

 だから、パウロに、「わたしたちには保証として”霊”が与えられているじゃないか?」と言われたとき、皆このことを思い出したに違いありません。「そうだ、そうだ、自分達には聖霊が与えられているじゃないか?その証拠に、異言が与えられているじゃないか?神秘的な霊の力をこの心に感じ取っているじゃないか?」そう思ったに違いない。

 そして、きっとその理解の延長線上で、「あなたがたはキリストである。」という言葉をも理解できると思ったかもしれません。私たちが感じるほどは、違和感を覚えなかったかもしれません。その意味では、パウロは本当に語調を変えて話し出した。彼らコリント教会の重んじた、神を語る言葉、信仰を語る言葉を、引き取って、それを受け入れて、コリント教会との関係を修復しようと努力している姿が浮かびます。

 しかし、それは、迎合したということではありません。妥協して、自分の強い信仰の確信を抑えたということでもないと思います。

 というのも、パウロは、自分が語った福音、自分の存在と深く絡みあった福音理解、「私たちは弱いときにこそ、強い」という告白に、煎じ詰められていくような福音理解、それこそが、霊的な強さと成長を求めるコリント教会にとっては躓きになったわけですが、それをどうでもいいものとは思っていなかったのです。

 場合によっては引き下げることのできる、一時は、寝かせておくことのできる、福音の一部分とか、強調点の違いによって諸説あり得る、彼の立場からの一つの見解とは思っていなかったのです。それは、それによって、教会が立ちもし、また倒れもする、福音の中心であり、福音を語るというのは、いつでも、「私たちは弱いときにこそ、キリストにあって強い」と語ること以外ではなかったのです。

 私がしばしば引用しますカール・バルトという神学者がいますが、この人は、とんでもない量の文章を残した人です。その代表的な一つの書物だけでも、9000ページを超す分量です。だから、彼が全体で何を言っているか、本当に理解するのは、骨の折れることです。

 そんな彼が、アメリカに講演旅行に出かけた時に、新聞記者から実にアメリカ人らしい、率直で、実利的な質問を受けました。

 「あなたは、たくさんの文章を書いていますが、一体、一番言いたいことは何なのですか?」と。

 すると、彼は、あまり上手でない英語でこう歌い出したそうです。

 Jesus loves me this I know for the Bible tells me so.Little one to Him belong,they are weak but,He is strong.

 彼らは弱くても、私達は弱くても、私達を愛し、私達をご自分のものとしてくださるイエス様は強い。

 同じ問いを、ドイツで尋ねられた時には、次のようなドイツ語の子ども賛美歌で答えるのが、常であったようです。「♪私は主の羊、主がいて下さるから、私には怖いものがないの。」

 パウロを生かした主の福音も、この同じ福音であったと思います。

 だからこそ、パウロは、コリント教会の弱さに同情できたのだと思います。その弱さが、一番ありありと表れてしまっているような彼らの言葉に寄りそうことができたのだと思います。語調を変えて、語り出すことができたのだと思います。

 第1の手紙で、コリント教会の人々が、自分が聖霊に充満していることのしるしだと考え、熱心に追い求めた異言を否定することなく、「私も異言で祈れる。あなたがたの内の誰よりも、多く異言で祈ることができる」と寄り添いながら、しかし、自分を建てあげる異言ではなく、教会を造り上げる預言を語ろう。仲間を建てあげ、求道者を教会の中に招き入れる預言の言葉、福音宣教の言葉を語ろうと、彼らの仲間になって語ったのです。そうやって、本当の福音の道に引き戻そうとしたのです。今日の個所もまた、そのような箇所なのだと思います。

 そうでなければ、ここはパウロを嫌うある有名な聖書学者が言ったように、本当におこがましい箇所だとしか言いようがなくなる。どちらがより多くの、あるいは優れた霊的な賜物を頂いているかで、競争したコリント教会内の争い、自分たちは王さまであるとまで言ってのけて、パウロに叱られた、人々の誤った信仰と少しも変わらなくなってしまう。いいえ、ただ、主イエスお独りだけをお呼びすべき、キリストという称号を、自分自身に、人間に与えようというのだから、もっともっとひどい偶像礼拝に等しい傲慢に生きることになってしまう。そしてそれらは、「私は弱いときにこそ、強い」という言葉に溢れ出ている、コリント教会宛のパウロの福音の言葉全体からは、あまりにも隔たっている言葉です。

**

 しかし、ただこの箇所だけを切り取るのではなく、全体の内に、今日の言葉を聞くならば、パウロの聞いた福音の深い深い慰めの泉からの水が、迸り出ているように感じます。

 私たちの心に保証として与えられた神の霊、聖霊、この聖霊の働きについてのパウロの最も印象深い言葉の一つである、ローマの信徒への手紙8:26でこう語られています。

「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

 教会の信仰問答などの言葉などを読むと、聖霊は、私たちの心に神への心からの信頼を引き起こすと言います。それはその通りです。神の霊は、私たちの心に神への愛を与えてくださいます。だから、私達が神への信頼の気持ちを持つとき、神さまへの愛を感じる時、聖霊が私達に働いてくださった確かな証拠です。神を愛する者は、自分が神のものであることを、確信してよいのです。

 けれども、パウロの聖霊信仰は、それが全てではない。神の霊は、弱い私たちのための霊、その私たちの弱さとは、どう祈るべきか知らないという私たちの弱さです。わたしたちの不信仰です。神を拝み、神に祈る心が萎えてしまった罪としか言いようのない私達の弱さです。

 聖霊はそのような私たちに代わって祈ってくださる神の霊です。私たちの心の内にお住まいになり、聖霊の力付けによっても、信仰が奮い立って来ない、私たちの代わりに、自ら、言葉にならない深い呻きをもって、私たちに成り代わって、祈りを神に届けてくださる霊です。

 聖霊はまた、聖書においてキリストの霊と呼ばれます。霊として、私たちの心にお住まいになられたご復活のキリスト御自身の霊なのです。

 そのキリストとは、十字架にお架かりになりながら、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているかわからないでいるのです。」と祈ってくださったお方です。その祈りはまさに、祈ることもできない私たちに代わって呻きながら祈ってくださる聖霊の祈りと一つであるような祈りなのです。

 あの十字架で、私たちの外で、私たちの与り知らぬところで、祈られたキリストの祈りが、今は、神の霊において、私たちの心の内から、その霊がお住まいとされる私たちの最も深い内側から、祈られるようになっているのです。

 まさに私たちの祈りとして、父なる神さまでさえ、私たちの祈りと見紛う祈りとして、私たちの心から発せられ、届けられた祈りとしてしか聞けない祈りとして、聖霊が祈ってくださるのです。

 だから、聖霊がこの私たちの心に与えられていることによって得られる保証とは、私たちが、豊かな聖霊の賜物を身に付けているとか、キリストへの愛と信仰に燃えている、その私たちの信仰の状態が高いものであるということが、保証なのではありません。

 それらは、聖霊の働きとして与えて頂くことができるものですが、私たちの心を住まいとされる聖霊の保証とは、この方が、祈る言葉すら失うことのあるわたしたちのために、この私たちの内側から、神に祈り続けてくださるので、神がその聖霊の祈りを私たちの信仰として受け取ってくださるので、私たちが神から遠ざかることはできないということなのです。それは私たちによっても、私たちの不信仰によっても、もはやできないのです。

 自分には信仰の浮き沈みがある。自分の祈りの生活にはムラがある。神さまが近いと思う時もあれば、遠くに思う時もある。自分は自分の信仰を最後まで全うできるか自信がない。そう正直に思っていても、安心して良いのです。私たちを保つのは私たちの祈りではなく、内なる聖霊の祈りです。私たちの信仰ではなく、聖霊の信実です。

***

 ここに至って、あなたもキリスト、あなたもキリスト、私たちはキリストであるというパウロの危ない言葉は、信仰の奥義を言い表した言葉であることが分かります。

 内なる聖霊とは、私たちの心を住まいと定めてくださった内なるキリストであります。霊において、この地上で弟子たちと共に過ごした時よりも、もっと近くに、私たちの側に来てくださった霊なるキリストです。

 天の父の右の座におられながら、同時に、その霊において、私たちの内にお住まいになるその方が私たちの内から祈られるその祈り、天の父に捧げられるその信仰が、今や、私たちの祈りとして、私たちの捧げる信仰として、天に届いているのです。

 霊なるキリストは、私たちキリスト者と、私たち教会と、そのような一体に生きてくださいます。私たち人間と、霊なるキリストの一体、人基一体です。

 そしてそれは、「主我を愛す。主が強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。」という子どもの讃美歌によっても歌うことのできる、教会が、それ以外の福音は知らない福音の言葉です。

 

コメント

この記事へのコメントはありません。