6月5日(日) Ⅰコリント12:1-7
本日は、聖霊降臨日、ペンテコステを祝う礼拝です。
ペンテコステは、ギリシア語で「50番目」という意味の言葉です。この日は、元々、春の過ぎ越しの祭りから一週間を七回過ごした50日目に祝う祭日です。
これはもともとユダヤ人の初夏の収穫感謝祭であり、また、モーセが神さまから十戒の板を与えられた記念日として、祝われてきた日です。
ところが、新約使徒言行録2:1を見ますと、過ぎ越しの祭りの時に十字架にかかり、三日目に甦られた主イエスが、そのご復活から50日後のことです。
その日は、ちょうど、このペンテコステの日に当たりましたが、神の霊である聖霊が、主イエスが天に昇って行かれるのを見送った弟子の群れの上に降り、イエス・キリストの福音の宣教が始まりました。
だから、教会では、この日を、聖霊が降ってきた聖霊降臨日、それによって、伝道が始まった日、教会が生まれた日として祝うようになりました。
福音書によれば、主イエスが十字架につけられ、殺された時、弟子たちは、皆逃げ出してしまいましたが、やがて、ペトロをはじめ、逃げ出した多くの弟子たちが、殉教に至るまで、熱心にイエス・キリストの福音のために、働くようになりました。
どうして、あんなに弱虫だった弟子たちが、命を尽くして福音伝道のために働く人間になったのか、不思議なことです。
たとえば、多くの人が考えるのは、弟子たちは、お甦りの主イエスに実際に出会ったから、そのお姿を見、一緒に食事をし、実際にそのお体を触ることが許されたから、死をも恐れない伝道者になったのだろうと考える人があります。
ご復活の主イエスに実際にお会いした、これが、初代教会の力だと言うわけです。
けれども、聖書自身の語るところによれば、主の弟子たちが、力に溢れて、伝道するようになったのは、ご復活の主をその目で見たからではありませんでした。
むしろ、使徒言行録の書き方では、復活後、40日間、度々弟子たちの前に姿を現し、共に過ごされたというお甦りのイエスが、彼らの目の前で、天に上げられて行った時、弟子たちは途方に暮れたように、天を見つめていたのです。
そして、主イエスが十字架で殺されてしまった時と同じように、一つの部屋に閉じこもっていたのです。
ご復活の主イエスにお会いしたということも、部屋から飛び出て伝道に打って出るきっかけとはならなかったのです。
ところが、ペンテコステの日、弟子たちが一つの部屋に集まっていた時、突然、激しい風が吹いてくるような音が上から聞こえ、彼らのいた家中に響き渡りました。
すると、炎のように分かれた舌が、集まっていた一人一人の上に留まり、彼らは力に満たされて、言葉を語りだしました。
それは、当時、エルサレムに集まっていた周辺諸地域の人々、それぞれの母国の言葉で、キリストの福音を証しする言葉であったと考えられています。
この日初めて、主の弟子たちは立ち上がってキリストの福音を証しするようになった。伝道を開始し、教会となったのです。
今日は、この記念すべき出来事を覚え、いつものヨハネによる福音書から離れて、この日のために、特別に選んだコリント信徒への第一の手紙を司式者に読んで頂きました。
ペンテコステの出来事と深く結びついた聖霊、信仰、教会について、よく分かるようにしてくださる神の言葉と信じるからです。
使徒パウロを通して、語りかける神の言葉です。
パウロは、私たちに向かって次のように語り始めます。
「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。」
ここで言われる「霊的な賜物」とは、かなりの意訳で、原語では、「霊的なもの」、「霊的な事柄」という程度の意味です。
「スピリチュアルなこと」くらいに考えれば良いと思います。この世を越えた霊的な次元での話ということです。
なぜ、このような話題をパウロが語り始めるかと言いますと、この手紙の宛先であるコリント教会がスピリチュアルが大好きな教会だからです。
霊的という言葉に、強い関心を持っている教会、スピリチュアルパワーみたいなものを追い求めている教会だからです。
今日司式者に読んで頂いた箇所の先、8節以下で語られていることですが、そこで、パウロは、霊的賜物について、具体的に数えて行きます。
「知恵の言葉」、「知識の言葉」など、私たちでも、だいたい想像できるものもあれば、「病気をいやす力」、「奇跡を行う力」、「種々の異言」、「預言」など、洗礼を受けたキリスト者であっても、具体的には何のことやらわからないという人があるかもしれないものも数えられています。
これらは、パウロが一つ一つ数え上げている霊的な賜物、能力みたいなものですが、他の教会に向けては、語られていません。
つまり、これらのいかにも霊的なことがら、スピリチュアルなことがらを否定はしていませんが、パウロの関心の中心にはないということがわかります。
ここでパウロが数えて見せているのは、これら霊的賜物が、コリント教会の関心の中心にあったからです。
さらに、第12章の12節以下を読み進めて行くと、コリント教会が、こういう霊的な賜物、スピリチュアルなことがらに熱中し、その獲得度に従って争いすら起こっていることに、パウロは心を痛めていることに気付かされます。
スピリチュアルなことがらに夢中になるのは結構だが、その特殊能力があるなしで、人を見下したり、争ったり、それが霊的であることを自負するキリスト者なのか?聖霊が、バリバリに働いている特別な教会と言えるのか?
私たちに本日、与えられている個所自身に、戻りたいと思います。
1節です。「兄弟たち、霊的な賜物(ことがら)について、次のことはぜひ知っておいてほしい。」
さらに3節、「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも、『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
神の霊である聖霊について、その神の霊がくださる霊的な賜物について、キリスト教会のスピリチュアルな部分について、スピリチュアルなことがらとの接点について、ぜひ、次のことを知っておいてもらいたい。このことを、ぜひ、あなたがたに言っておきたい。
聖霊に導かれるならば、「イエスは神に見捨てられよ」とは、言わない。聖霊に導かれなければ、「イエスは主です」と告白できない。
拍子抜けですよ。この手紙が朗読されて、コリント教会の人達はずっこけてしまったに違いありません。
霊的賜物、霊的ことがらについて、これだけは、どうしても聞いてもらわなければならないと前置きして語りだしたのが、 聖霊に導かれるならば、「イエスは神に見捨てられよ」とは、言わない。聖霊に導かれなければ、「イエスは主です」と告白できないということです。
これは霊的クリスチャンになりたい、聖霊溢れる教会になりたいと願っている人たちが、聴きたいと望んでいるような言葉ではありません。全く期待はずれです。
なぜなら、「イエスは主です」なんて告白は、教会として、ごく当たり前の告白だからです。
コリント教会の中には「イエスは神に見捨てられよ」なんて言う人は一人もいない。まだ洗礼を受けていない求道者の中にすらいません。
「イエスは主です」なんて、年端も行かない子どもだって教会の中で告白している、いろはです。
そういう基本、平凡、平均の教会ではなく、霊的なクリスチャン、聖霊溢れる教会になりたいと、願って、試行錯誤しているのがコリント教会です。
けれども、だからこそパウロは、言わなければなりません。
一人の人が「イエスは主です」と告白すること、これは全然当たり前のことじゃない。これこそ聖霊の生き生きとした働きの証拠だ。これこそ、スピリチュアルな出来事だ。
ただ一度きり、最初の信仰へのきっかけのことを言っているのではありません。
イエスを私の主、私の救い主とは信じていなかった人が、イエス・キリストを自分の主、自分の救い主として受け入れるようになる、その最初のきっかけだけではありません。
イエスを主と信じ、受け入れた者が、継続して主を主と告白して行くこと、生涯にわたって、この方を自分の主と告白し続けて行くことも、聖霊の生き生きとしたお働きがなければ、決して果たして行くことができない神の業、霊的賜物なのです。
そのことをぜひ、知ってほしいのです。そのことを語らずにはおれないのです。
もしも、この聖霊のお働きがないならば、2節、「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれる」のです。
誘われるままとは、誰か人に誘われて神社仏閣にお参りに行くというようなことではありません。
私たちの自然な心の傾きは、イエス・キリスト以外のものを主とせずにはおれない、聖霊の助けによらなければ、イエス以外の存在を主人とし、その奴隷となるということです。
そして、そうならずに、主を主と告白するのは、絶え間なく、繰り返される聖霊による奇跡がこの身に起こっているということなのです。
このことをぜひ、知ってもらいたい。そして、このことを知ったならば、霊的なクリスチャン、霊的な教会が何なのか、どこにあるのかが、わかるようになります。
それは「イエスは主なり」と告白する全ての人、全ての教会のことです。
聖霊が生き生きとし働いている教会とは、「イエスは主なり」と告白する礼拝を献げている教会のことです。
そのような教会はどこにあるのでしょう?至る所にあります。
あちらにも、こちらにもあります。
日本には聖霊の働きが弱いとか、日本基督教団の教会には、生き生きとした聖霊の働きが感じられないとか、そういうことを耳にすることはありますが、神の霊を愚弄するのは止めてほしいものだと思います。
聖霊の力強い働きがないならば、明日にでも、教会は消えてなくなるのです。この教会には人っ子一人いなくなるのです。
聖霊のお働きがなければ、聖霊がお降りくださらなければ、私たちは来週には、もう、礼拝に集まって来ることはないのです。
「イエスは主です」という小さな告白、聴き慣れた当たり前の告白、神がくださる宝としての信仰であり、告白です。
今日、聖霊降臨日のこの日、自分の信仰が、今も生き生きと働いておられる神の奇跡であること、私たち礼拝者自身が、奇跡的存在であることを深く受け止めたいと願います。
神は今も生きて働いております。聖書に従って言えば、私たちが今日ここに集まって、主を主と告白し、礼拝をしていることが、その証拠です。
ここに集い、今、神を拝んでいるお一人お一人が、聖霊の芸術的な業、美しい作品そのものとして、今、ここにあることを確信して頂きたいと思います。
6節以降に「働きにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」とあります。
これは8節以降に数え上げられる霊的な賜物、スピリチュアルな特殊能力の用い方と関係のある言葉ですが、今、聴いてきた霊の賜物としての信仰、奇跡としての信仰告白との関連も大切であると思います。
特別な個人の賜物だけでなく、信仰もまた、全体の益になるためのものです。
信仰はただ私のためのものではありません。
隣人のためのものです。ここでの隣人とは、まず初めに教会の仲間のことです。それは文脈を見れば明らかでしょう。
教会は私個人の信仰生活のためのものではなく、必ず教会共同体を作る為に与えられているものです。
個人主義のキリスト者は、矛盾なのです。
しかし、なぜ、共同体を作るかと言えば、自分達の交わりを楽しむ仲良しクラブを作るためではありません。神より与えられるミッションを果たすためです。
それゆえ、私たちに信仰が与えられるということは、教会共同体のためを越えて、信仰を与えられていない者たちのことを考えて良いのではないかと思います。
最初の聖霊降臨日、教会の誕生日、聖霊が降り、イエスを主と告白する信仰を与えられた者達は、諸々の国の言葉を語りながら、騒ぎを聞きつけて集まって来た教会の外の人々に、直ぐにイエス・キリストの福音を語り伝えました。
これが聖霊のお働きです。世のための教会、しかも、イエス・キリストの福音を語ることによって、世に仕える教会の誕生です。
イエスを主と告白する信仰をお与えになる聖霊の御業に、福音を語ることによって仕える教会です。
それだから、自分が信仰者とされていること、教会がたんたんと、ただひたすら福音を語り続けることを働きの中心としていることを過小評価しないようにしたいと思います。
そして、たった一人でも信仰者が生み出されること、求道者が起こされること、私たちに信仰が与えられ続けることを驚き、感謝するセンスを養いたいと願います。
そのことが神がパウロを通して、ぜひ知ってもらたいと願っている、聖霊の御業です。
祈ります。
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