義に飢え渇く人々は、幸いである!

 週報の報告欄にも記しましたが、本日は、この教会の属します日本基督教団では、ドイツの一修道士マルティン・ルターによって口火を切った宗教改革500周年を記念する日として定められた日です。今から500年前に、カトリック教会から袂を分かったプロテスタント教会の出発を特に覚える日です。なぜ、この日曜日が、特別そのような宗教改革を記念する日であるかと申しますと、ルターの改革の始まりでありますヴィッテンベルク城というお城の門に、彼の当時の教会のあり方を批判する95か条の提題が貼り付けられ公にされたという日が、1031日であり、その日に一番近い日曜日ということで、今日を、特別そのことを覚える日としたのであります。

 けれども、だからと言って、私たちは改めて今日特別何かをするわけでもありません。いつものように聖書を開き、神の言葉を聞き、神をほめたたえるために、集まってきました。そこで説く聖書の言葉も、特別この日のために選んだものではなく、先週に引き続き、山上の説教の主イエスの祝福の次の言葉を聴きます。しかし、思いがけず、神様が最もふさわしいところを備えてくださったと思っています。

 「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満ち足りるであろう。」

 義を語ってくださった主イエスの言葉であります。この日に、この聖書個所を読むことになったということで、不思議なタイミングの一致を感じさせられますのは、まさに、ルターの改革が問題としたのは、この「義」についてであったからです。「義」と申しますと、あまり、日常生活では使わない言葉であるかもしれません。たとえば、この義という言葉を使う文脈があるとすれば、高山右近を金沢に引き取った前田利家は義に厚い人だとか、高倉健が出るような映画を見て、健さんは義侠心に溢れているとか話すことはあっても、あまり、日常生活ではあの人は義に厚い人だなんて使わない言葉であるかもしれません。

 けれども、たとえば、この「義」という言葉を、正義とか、正しさと言い換えてみるならば、これは私たちにもグッと身近なテーマであるということがわかってくると思います。義というのは、正しさのこと。そうであるならば、これは本当に私たちが、日常的に、問題としていることそのものであるとも思います。

 たとえば、車を運転しながら、私の正しさというのは、よく発揮されます。車間距離があまりないところで、ウィンカーを出さずに、隣の車が車線変更をしてくるならば、それだけで、私は、義を問題にし始めます。あの運転は、正しくない。ウィンカーを出すべきだし、横入りしたら、ありがとうのしるしにハザードランプを、23回チカチカさせるべきだ。まあ、けれども、その正しさに駆られて勢い余ってクラクションでも鳴らそうものなら、場合によっては大変なことになってしまうかもしれません。鳴らされた方が、今度は義の思いに駆られまして、無理に入ってしまったことは、悪かったけれども、何もそこまですることないじゃないか、あの運転は間違っている、となっていきます。そう考えると、少し大げさに言い方に聞こえてしまいますが、あちらでもこちらでも、毎日、義の問題が勃発していると言えます。

 義というのは、正しさの問題であり、たとえば、義に飢え渇くということが、自分の思っている正しさが損なわれることによって感じる憤りとか、気持ち悪さだとすれば、これは、案外、身近なことだと思います。ある意味では、我々は、自分の正しさを常に主張しながら、生きていると言えるのではないかと思うのです。それは全く、運転に限ったことではなく、私たちが、傷ついたり、怒りを感じたりするときは、正しいこと、こうあるべきことが破られてしまって、それを悲しく思ったり、憤ったりするのだと思いますし、私たちが生きづらさを感じる時、やはり、その時、こうあるべきだと思う正しさが失われていると感じていることが度々あるのだと思うのです。私に対するあの人の言葉は不当であった。あの人の行動は、正しくなかった。私たちは、自分が悪いことをして、その報いを受けるならば、それは自分が悪かったからこれは申し訳ないことだと意気消沈してしまうことよりも、自分の正しさが侵害されて、悲しくなったり、怒っている方がずっと多いのではないかと思うのです。そこに私たちの生きづらさもあると思います。

 だから、むしろ、場合によっては、私たちは、自分の義を、心にこびりついているこれが正しい在り方だとかたくなに思い込んでいる自分の正しさの枠を捨てることができたらどんなに楽に生きることができるようになるだろうかとさえ思うのです。

 けれども、主イエスは、「義に飢え渇く人々は幸いだ」と仰ってくださいました。これは、たとえば、私の正しさを認めてくださる、もっと丁寧に言えば、私の正しい怒り、憤りを認めてくださる主イエスの御言葉であると聞くこともできるのではないかと思うのです。「他の誰が知らなくても、わたしはあなたが正しいことを知っているよ。」私たちは自分の考える正しさが侵害されて、憤りを感じることはたくさんあっても、人間関係を円滑にするために、それを飲み込んで、我慢することの方がずっと多いでしょうから、主イエスが私たちの正しさを知っていてくださり、それを祝福してくださるということが分かれば、それはどんなに心強いことであるかと思うのです。

 ところが、私が、もう一つ考えなければならないと思うことは、私たちの義、私たちの正しさというのは、置かれた立場によってだいぶ違ってしまうものだなということも冷静に見て取らないわけにはいかないということであります。自分は正しい、正しいと思っていたとしても、相手の立場に立って、同じ事柄を見てみれば、自分が主張するのとは、別の正しさが見えてくるということがあります。本当の正義というのは、いつでも、一つのような気がいたしますが、案外、自分たちの身の置き所によって、こうあるべき正しさというのも、変わってくるものだと思います。

 以前、NHKでハーバード白熱教室というのがありまして、マイケル・サンデルという正義論の学者のエキサイティングな授業が、放映されていて、書物にもなりましたが、それは、本当に多様な正義の形を議論していました。書物の帯自体が既に、インパクトのある言葉で飾られていますが、たとえば、「正しい殺人はあるのか?」とか、「オバマ大統領は原爆投下を謝罪すべきか?」など、私たちの立場で常識的だと思うことが、疑問の形で表現され、議論の対象とされています。その書を読みますと、正義というのは、一見、確固としたもののように思えていますが、実は、十人十色だったりするのだと思い知らされます。けれども、それは何も、哲学者の思考実験のような問いをわざわざ立てなくても、私たちが日々実感していることであるとも言えます。

 家族や友人や、同僚と意見のすれ違いが起こるとき、気持ちの衝突が起こるとき、なかなか収拾がつかなくなることがあります。それは多分、いつでも、はっきりと、どちらが正しく、どちらが悪いということでは割り切れないからです。しかも、そこでお互いがお互いの正しさにしがみついてしまう時、収拾がつかなくなりがちなのです。企業のクレーム対応係の鉄則は、聴き手に徹する、絶対に反論しないということが、基本だと言われますが、お互いがお互いの正しさを主張しあうところでは、険悪さはますます広がるばかりだと言えます。

 主イエスは、義に飢え渇く人々は幸いだと仰いますが、そうなると、両手放しに、私の正しさを主イエスは認めてくださっている、主イエスが私の正しさの後ろ盾だというのは、あまり穏やかなことではないような気さえ致します。お互い義憤に駆られている者同士が、「お前は私が悪いと言っているが、主イエスが私の味方だ。私の正しさが妨げられたところで私が感じているこの怒りを神は正しいものと見做してくださる」と言い合えば、その争いは、それこそ収拾がつかないものになっていくだろうと言わざるを得ません。神が自分の正しさの後ろ盾になってくださるということは、心強いメッセージに聞こえる半面、とても危ないことだと思うのです。それは、自分の正しさを絶対視し、神聖視するようなことだからです。しかも、その自分の正しさが、十分なものでなくても、少しでも相手に非があると思えば、盗人にも一分の理という諺ではありませんが、私たち人間は、その一分の理に全体重を乗せて、自分の正しさを主張するような者だと思うのです。客観的には、9割程度自分が間違ったことをしていても、残りの1割の正しさにしがみついてしまいがちな私たちです。

 だとすると、私たちは、この義への飢え渇きを、正しさを叫び求める心を、それが本当に本物の義を求める心なのかどうか、よく見極める必要があります。そして、実は、ここで、飢え渇くように求められなければならない正しさとは、自分の数パーセントの正しさではなくて、完璧で完全な正しさであるところの神の正しさ、神の義であるのだと考えないわけにはいかないのであります。

 主イエスが祝福される義への飢え渇きとは、立場や、見方によって、ころころと変わるような正しさ、各々が自分の利益に基づいて主張する正しさへの飢え渇きではなくて、本当の本当の正しさ、本物の義、たとえ、それが自分の当面の不利益に繋がったとしても、それこそが正しいことだ、あるべき人間や社会の姿だと言える、そのような正しさを実現する神のものと言える正しさ、義にこそ、私たちが飢え渇かなければならない義、正しさなのだと思います。

 それゆえ、主イエスは、山上の説教の633において、何を食べようか、何を着ようかと自分の命を確保するために心配し、思い患うのではなくて、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と、神の義をこそ求めるのだと仰ったのだと思います。つまり、他のどの正しさでもなく、神の正しさを求めて生きるのです。その神の正しさに飢え渇くのです。

 他の誰を基準とした正しさではなく、神が定めてくださる義とはいったいどのようなものであるのか?たとえば、預言者エレミヤの書75にこう言う言葉があります。「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」神が求める正しさとは、ここで二つの側面があることがわかります。それは、隣人への憐み、そして、真の神への愛です。聖書には、神が示される人間の正しい姿、人間の歩むべき道を教える律法の言葉がたくさんありますが、それは突き詰めて言えば、この二つのことに集約されていきますし、何よりもここで主イエス・キリストご自身がこのよう仰ったことが思い出されます。

 マタイによる福音書2234以下で、まさにこの神の示される正しさを追求することを人生の目的としていたファリサイ派の聖書学者が、主イエスに問いました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか?」この問いに対し、主イエスはお答えになりました。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 「神を愛すること、隣人を愛すること」、これが、人間が自分の利益に基づいて各々の正しさを主張することによって生じる争いを乗り越える、聖書が語る万人が認めるべき客観的な正しさ、神の義の道であると言うことができるでしょう。

しかし、私はここでルターを思い起こさないわけにはいかないのです。私たちが飢え渇くべき神の義の前に、私たちは中途半端であることはできないのです。若い修道士であったルターは、教会の教えに従い、徹底的に正しい生き方を求めました。神を愛することも、隣人を愛することも、全く、そのことに人生を捧げた修道士として、私たちが感嘆せざるを得ない生活を作りました。「清貧」「貞潔」「服従」、ルターは、修道士として守るべき義務を果たし、けれども、それに飽き足らず神に認めていただける正しさの完全を求め、次々に厳しい修行を自らに課して行ったと言います。まるで主イエスの時代のファリサイ人のように、正しさへの道を突き進んだのです。ところが、彼の心は、満たされませんでした。彼の心は、「神様、わたしはほかの人のように、他人のものを奪い取る者、利益を求めて不正を働く者、荒れた異性関係に陥った者、そういう汚らわしい罪人のような者ではないことを感謝します。また、私は、毎週毎日礼拝を捧げ、それどころか、あなたに苦行を捧げ、献金どころか、この身の全てを捧げた者であることをご覧ください」とは、ならなかったのです。ルターは、自分の正しい生き方を努力によって突き詰めたその所で、どうあっても、神の正しさを満たしきれない自分であることを発見せざるを得ませんでした。

 私たちもこのことはよくわかると思います。私たちが自分の正しさに自信を持てるのは、やっぱり他人と比べた時だけです。あの人に比べたら、自分はましな人間だ。ニュースで見るあの悪人に比べたら、自分はまっとうに生きていると言える。けれども、誰かと比べるということを全く抜きにして、マシかどうかということではなくて、本当に神の求めるような正しさに生きているかと問われるならば、欠けだらけの自分であることを認めないわけにはいきません。私たちは特別な聖人じゃないから、そういう生活は作れない。まあまあなところで、人から後ろ指さされない程度の生き方ができれば、上等じゃないか?それで、十分じゃないかと私たちは考えているかもしれません。けれども、そのようにして、既に、自分の中で新しく生み出した妥当な線に従って、神ではなく、自分の義に飢え渇くことを始めてしまうのです。私のやったことは、そこまで責めたてられるほど、悪いことであろうか?誰とでも仲良く、平和に過ごしたいけれど、誰かが限度を超えて、こちらに害をもたらす分に関しては、隣人愛を断ち切って、対抗措置を取らなければならない。その中途半端に歩まれた神の義の道の延長線上に、私たちが常識と思っていた正しい道、正しい人間のあり方を覆すような、しかし、争う双方にとって、状況によってはそれもありではないかと思い始めるようなぶつかり合う無数の正しさの争いの中に、再び巻き込まれていくような気がします。「正しい殺人はあるのか?」「大統領は、原爆投下を謝罪すべきか?」「最大多数の幸福のために、少数の人が不利益に陥るのは認められるのか?」

 あるいは、そこで、開き直った生き方が生まれてしまうかもしれません。どうせ、人間は正しい生き方ができないのだから、面白おかしく生きればいいじゃないか?弱肉強食が自然の語る正義だ。適者生存で、弱い者が駆逐されていくのは自然の摂理だ。

 私は、このように考えてきて、私たち人間は正しい者として、正義の実現に飢え渇いてなんかいないと思うのです。私たちは、そうではない、深刻な義の欠乏の中にあると思うのです。私たちが義に飢え渇くというのは、私たちが正しい人間で、社会ではその正しさが実現されない状況を義憤に駆られて飢え渇いているということだけでなしに、私たちが正しく生きたいと願っているにもかかわらず、そう生きることのできない自分である、その貧しさゆえの飢え渇きを持つ者ではないかと思うのです。

 自分の内には神の義と呼べるような義がないのです。人と争いながらも、本当は絶対自分が正しいなどと言えないのです。むしろ、自分の正しさを確信していないからこそ、主張を弱めれば、それに乗じて、自分の不正義に付け込まれてしまうことが分かっているからこそ、自分の正しさを強く主張しなければならないのです。けれども、そのような人間こそ、どれほど、義に貧しい人間であるのか。

 主イエスが、「義に飢え渇いている人々」にまなざしを注がれるとき、私は、主イエスが私たちが正しい者ではないことをはっきりと見据えられるということではないかと思うのです。「あなたの内には、本当の義がないね。あなたは、正しい者ではないね。」

 けれども、この私たち人間の不義を暴露するように見える、心に突き刺さる剣のような言葉は、裁きではなく、主の祝福の言葉であります。

 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」

 もちろん、この祝福の言葉は、私たちの開き直りの後ろ盾となる言葉ではないでしょう。「人間は本当に正しい生き方ができないのは仕方のないことだ、それが人間だ、それで良いんだ。その弱さに負けてしまう時があっても良いんだ。けれども、そのことを知っていれば、隣人を責め立てる時も、やりすぎることはないだろう。」という達観を肯定する言葉ではありません。祝福される人間の心は義に飢え渇いているのです。満たされていないのです。貧しいままなのです。けれども、その心は、そのままで肯定されるのではなくて、やがて、「満たされる」と約束されているのです。また、注意したいのは、「満たされる」と受動系、受け身の形で言われいることです。つまり、この義の飢え渇き、私たちの貧しさを、不正義を満たしてくださる方がいると指し示されています。

 聖書の教授となっていたマルチン・ルターは、自分が努力によって満たすべきであると考えていた神の義、神の求める正しさを学生たちに教えるために、研究しているときに、聖書を読みながら、どうも、自分の考えてきた人間の満たすべき神の義の基準という理解では、意味が分からくなってしまう個所に出会いました。それは詩編312の言葉です。「主よ、御もとに身を寄せます。/とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください」。原文を見ますと、この「恵みの御業」とは、「あなたの義」、すなわち「神の義」となっています。「あなたの義によってわたしを助けてください。」ということです。ルターの詩編研究は、71篇まで進むと、神の義に対する新しい確信に変わりました。そこには、「恵みの御業によって助け、逃れさせてください」と。すなわち、「あなたの義によって助け、逃れさせてください」とありました。ルターが聖書を読み直すことによって再発見した「神の義」とは、私たち人間がまっとうに生きるために満たすべき神の示される唯一の正しい生き方である前に、神が私たちを救ってくださるために発揮される神の恵み、神の憐みのことだと分かったのです。神は、私たち人間を救うことを自分の正しい道としてくださっている。それが、神の義です。だから、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」との主イエスの祝福の言葉は、義の貧しい者に対する救いの約束の言葉なのです。

 義には生きえない自分の貧しさに絶望している私たち、もう、開き直って生きるほかないと思い込んでいる私たちに、主イエスは神の義が全うされるから、神が救ってくださるから、その貧しさは満たされるのだと約束してくださるのです。その義に貧しいわたしたち人間の救いは、既に山上の説教の今まで聞いてきた祝福と同様に、この祝福を語ってくださった神の一人子が、真の人となり、罪の他は私たちと全く変わらぬ人間となり、神の示される人間の本当の歩みを、神を愛し、隣人を愛する歩みを私たちに代わって、神のみ前に作ってくださることによったのです。主なる神は、その主イエスの歩みを、私たち人間の代表としての歩みとして、私たち自身の捧げた歩みとして受け取ってくださいました。

 それは、こういう風に言い換えることも許されることと思います。神は、私たち人間の貧しさを満たすために、全てのことをしてくださったということだと思います。しかも、神は、ご自分の側で、御自身とその一人子なる神において、私たちを抜きにして、けれども、全く私たちのために、大きな犠牲を払い、人間を正しい者と見做してくださったということだと思います。それが主イエスの十字架の出来事です。神がご自身において、私たちに正しく生きえない責任を問うこともなく、愛にふさわしい価値を示せと迫るのでもなく、人間への裁きも、人間への救いも、神が、父と子と聖霊の三位一体において、すなわち、ご自身だけで一切、成し遂げてくださった限りない恵みの出来事です。そこで、私たちは私たちに対する神の声を聴きます。「イエス・キリストのゆえに、つまり、神である私の愛のゆえに、あなたたちは私の目にまったく正しい者である。あなたたちの正しさによらず、イエス・キリストのゆえに、つまり、神である私のあなたたちへの愛のゆえに、あなたたちは、価値ある者だ。」

 義に飢え渇く者が、義に貧しい者が、本当は正しさのかけらもない者が、この神の義、神の愛の猛烈さのゆえに、イエス・キリストにある正しい者と認められています。どう生きるかではなく、これは私たち人間に与えられている根源的祝福です。

 そこで、しかし、私たち人間は、また、新しく義に飢え渇くようになるのだと思います。今度は、本当に、神が正しいとしてくださる人間のまっとうな生き方を求めて飢え渇くようになるのだと思います。もはや、キリストにある者にとっては、全然自分の正しさが問題とはならないからです。それは主イエスが既に満たしてくださったからです。つまり、これからの私たちは、自分のために確保したり、満たしたり、誰かに向かって大声で主張しなければならない正しさのための格闘は必要ないのです。もう主イエスが命を懸けてまっすぐに整えてくださった神を愛し、隣人を自分のように愛する神の義以外に、私たちの目の前にある横道はどこにもないからです。私たちが自分を生かすのではなく、もうそんなことは必要でなく、神が私たちを生かしてくださるのだから、失敗しても何度でも何度でも、神を愛し、隣人を愛する、自分のためはなく、他者のためだけの歩みを作らせていただく私たちであります。そして、それは、本当に幸せな人間の人間らしい道なのだと思います。

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