羊は、羊飼いの声を知る

1月29日 主日礼拝 ヨハネによる福音書10章1節~6節

昨年のCNNのウェブニュースで、「カメのおしゃべりやイモリのげっぷ、鳴かないと思われていた50種以上の鳴き声確認」という見出しのニュースを読みました。カメや、トカゲや、魚、今まで鳴かないと考えられていた動物の飼育箱に24時間以上、録音機を設置したところ、多くの種で、さえずりのような音、シューシュー音、ゴロゴロ音などが、収録されたというニュースです。

子どもたちに、カメの鳴き声知ってる?とクイズを出すために、興味本位で読み始めた記事でしたが、記事を締めくくる次の言葉に、ハッとさせられました。

 

「今回の研究は、カメなどが音を出していることを示しただけで、その音を使って互いにコミュニケーションをしていることを示したわけではない。…こうした鳴き声がコミュニケーションの手段として使われていることを裏付けるためには、さらなる研究が必要だと専門家は話す。」

記事は、カメの鳴き声とも表現していますが、同時に、注意深く、「カメの出す音」とも表現しています。こうした鳴き声が、カメの出す音ではなく、本当に鳴き声と言えるものなのか?さらなる検証を必要とすると言うのです。

 

既にこの記事にも暗に前提されています。音と声は違う。鳴き声が、本当に鳴き声だと認定されるためには、それを用いて、コミュニケーションをしているかどうかが、次の大切な研究課題になる。

 

ここが、私がそのニュースを読んで唸ったところです。

当たり前と言えば、当たり前のことですが、声と音は違うのだと気付かされました。

鳴き声が本当に鳴き声と呼ばれるためには、それがコミュニケーションの役割を果たしすことによります。

だから、それが本当に鳴き声と呼べるものであるかどうかを検証するためには、その音だけを調べているだけではわからずに、その音を聞いたカメ同士の反応をさらに研究しなければならないということなのでしょう。

面白いなあと思いました。

 

なぜ、このような話から始めたかと言えば、3節に、こういう主イエスの言葉が記されていたからです。

「門番は羊飼いに門を開き、羊はその声を聴き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」

また、4節後半以下では、こういうことを仰います。

「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

キーワードは、「声」です。

羊は羊飼いの声を聴き分け、その後に着いていくということです。

 

これは、「ある人には、わたしの声が羊飼いの声に聞こえる」と、主イエスが仰った言葉です。

羊飼いとその羊との間には、羊飼いの声を、聞き分ける親密な関係があるのです。

どんなに騒がしい人々の声、その羊の魂を捕らえ食い物にしようとする宣伝、キャッチセールス、詐欺師、盗人、強盗のバーゲンセールのような甘言の中にあっても、聴き洩らすことができないキリストの声です。

その方の羊にとっては、それが雑音であるかどうか、研究、検証の必要すらありません。むしろ、その声が響いて来るならば、たちまち他の全ての声は、雑音に化してしまう、魂に刷り込まれたこのわたしの羊飼いの声だからです。

ここで、はっきりと、それは声だと、言葉ではなく、「声」と主イエスが仰ったこともまた、面白いなあと私は思います。

何気ない表現のようですが、その第1章1節で、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と語り始めた、この福音書が、羊は羊飼いの言葉を聴くではなく、声を聴き分ける、声を知っていると、わざわざ言っているのは、やはり、注意を引く表現ではないかと思うのです。

 

声と音は違うと最初に申しましたが、声と言葉も違うのではないかと思います。

全然違うというのではなくて、声は音以上のものであり、また、言葉以上のものであるというか、その総合、声は音になった言葉であり、さらに音と言葉を足したもの以上であるように思えます。

言葉が音に乗って声になるとき、そこには、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とヨハネによる福音書1:14に語られたキリストの受肉を思い起こさせるような、出来事がそこに起きているのではないかと考えさせられるのです。

全然難しいことではありません。

いくら手紙やメールでやり取りしていても、伝わらないことが、顔を合わせてその声を聴くと、一瞬で、解決してしまうことって結構あるのではないかと思います。語られる内容だけでなく、その音色、声音の方が、より深く真実を語っているということがあると思うのです。

 

羊は羊飼いの声を聴き分けると主イエスが仰っているのも、そういうことをも含んでいるのではないかと思います。主イエスに従った人、主イエスを信じるようになった人々必ずしも、聖書をよく知っていた人たちばかりではないのです。いくら深い知識を持っていたとしても、それが、主イエスを信じ、従うようになることとは直結しなかったことは、福音書を読めばよく分かることなのです。

 

主イエスを信じるようになる、主イエスに従うようになるというのは、その方の仰っていることが、論理的にわかるという次元で起こったことではなかったのです。まさに直前の第9章で、主イエスを信じた人の言葉のはしばしからわかるように、わかった、知った、納得したから、従うようになるのではないのです。

いてもたってもいられなくなる。そうせざるを得なくなる。

それは、ここで主イエスがたとえによってお語りになったように、言葉ではなく、いいえ、言葉を含みながら、しかし、言葉を越えて、飼い主の声を聴いてしまったという出来事に根差すものなのだと思います。

 

この主イエスのお語りになった言葉を、新共同訳聖書は、6節で、「たとえ」と呼んでいます。けれども、ある聖書学者によると、この言葉は、「たとえ」と訳すよりも、ここでは「謎」と訳す方が良いだろうと言います。

もともと、「隠れた理解しがたい話」というニュアンスもある言葉だと言われています。だから、「謎」と訳すこともできるのです。つまり、主イエスは、ここで、謎かけをされたと理解することもできるのです。

 

聖書の中にはたくさんのたとえ話が出てきますが、よく注意してそのたとえ話の機能を見て行くと、必ずしも、分かりやすくするためにたとえが使われているわけではないことに気付かされます。

 

聖書の中で、たとえ話を頻繁に使われる主イエス自身の言葉として、たとえば、マタイによる福音書13:13以下では、旧約イザヤ書の言葉を引用しながら、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ようにするためというニュアンスの言葉があります。

どう受け取って良いか困惑する聖書の記述の一つです。

学生時代に、たとえば、私は、こういうことを教わったことがあります。

デンマークの哲学者、キルケゴールという人の、著作は、わざと回りくどく書いてある。分かりにくく書いている。なんで、そんな書き方をわざわざしたかと言えば、斜め読みする無責任な評論家、批評家を遠ざけるためだ。本気で向き合ってくる者にしか、身を正して理解しようとする者にしか、伝わらないようにしたのだと教わりました。なるほどと思いました。それは一つの知恵だと思いました。

 

主イエスの御言葉にも、聖書の言葉にもそのようなところがあるかもしれません。興味を持って、情熱を持って、謙虚に耳を傾け続けなければ、ちんぷんかんぷんの言葉になってしまいかねない。

けれども、それだけの理由でもないとも思います。

キルケゴールと違って、主イエスの言葉は、専門知識がなければ、まるで分からないような特殊な言葉ではないのです。

なぜ、主イエスはそのような語り方をわざわざされたのか?わざわざ、謎かけのような言葉を使われたのか?

むしろ、ここではひたすら純粋に、その声を聴き取らせるためではなかったかと私は受け取りたいと思わされています。

羊飼いの声です。その方の羊の魂に刷り込まれている懐かしい声です。

羊はすべての意味が分からなくても、その声音で聴き分けるのです。

むしろ、ここで主イエスがこのような「謎」とも訳されるようなたとえを用いられたのは、意味が邪魔しているというならば、それを放棄しようということでさえあったのかもしれません。

このたとえはファリサイ派の人々に話されたたとえだと6節に書いてあります。もっと言うと、ファリサイ派のために、ファリサイ派の人々をめがけて語られた言葉だと、訳しても良い言葉です。今日聞き始めた第10章の手前の第9章で登場したファリサイ派の人々です。

 

主イエスによって生まれつき見えなかった目が開かれた人と、ファリサイ派の人々の間に交わされた議論が第9章にはありました。両者の議論はどこまで行っても平行線でした。噛み合わないままに、主イエスによって目を開かれたその人を、コミュニティーの外へ追い出したのです。

主イエスは追い出された人と、再び出会ってくださいました。もう一度、顔と顔とを合わせた、深い繋がりの中に、招き入れてくださいました。

その二人を追うようにして、再び、9章の終わりから、ファリサイ派の人々が登場しました。二人の対話に割り込んできました。

「我々も見えないというのか。」

第10章は新しい話が始まっているようですが、この続きであるとも言えます。

既に言葉は交わされてきたのです。言葉は重ねられてきたのです。何度も何度も議論は積み重ねられたのです。でも、二つの言葉は一向に重なり合わない。

それは、結局のところ、主イエスの声を知らないということであったのではないか?

6節に、「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」とあります。

わからなかったとは、このたとえ、謎かけの意味が分からなかったということではないでしょう。

羊を飼ったことがない、私たちの内の多くの者も知っていると思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに、お母さんやお父さんが話しかける。いいえ、実はもう、お腹の中にいる頃から、身近な家族の声を聴き分けているとさえ聴きます。すると、まだ言葉の意味が分からない内も、自分に語りかけてくるお父さん、お母さんの言葉に反応して、赤ちゃんは喜びます。両手両足をじたばたさせて喜びます。

 

さらに、自分に語りかけている言葉でなくても、大人同士が喋っている難しい会話であっても、その親しい人の声を聴いていると、幼い子供は、安心してよく眠れるものだと思います。

だから、羊を飼ったことがなくても、主イエスのたとえはわかります。

まして、羊も羊飼いも身近であった彼らがわからないはずはありません。

明らかに、主イエスの声を自分たちの羊飼いの声として聞こえているかどうかが、問われたことはわかったのです。

羊は羊飼いの声を聴き分ける。しかし、あなたがたは、盗人、強盗、詐欺師たちの無数の甘言の中にあって、私の声を聴き分けられないでいるね。

とてもシンプルなことなんだ。激しい神学論争、聖書解釈を巡る議論以前の問題なんだ。

あなたたちは、わたしの声をあなたたちの羊飼いの声として聴くことができないんだね。

厳しい厳しい裁きの言葉です。

 

けれども、この裁きの言葉は、あなたがたは私の言葉を聴かないから、私の羊ではないと突き放し、否定する言葉として聴くことは、私にはできません。

もしも、そう読むならば、私たちは主イエスの声音を聴き損なったと私は思います。

主イエスが仰りたかったことは、次のようなことではないかと思うのです。

本当は羊は羊飼いの声を聴くはずなのです。

天地万物を造られ、だから人間をも、私たちをも造られた神の言葉、肉となった神の言葉、主イエスの声を、人は、恋い慕って聴くはずなのです。

まして、主イエスが語りかけていらっしゃるのは、神の民イスラエルに属する人間であり、その中でも特別に宗教的で、信仰深い、真面目なファリサイ派の人々なのです。

けれども、その人々が聴き損なっているのです。そもそも主の羊でなかったからではありません。

既に、この福音書は、1:11で語っていました。

「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

本当は、あるはずのないことが起こったのです。

だから、ファリサイ派の人々を目指して、ファリサイ派の人々のために語られた「羊はその声を聞き分ける。…羊はその声を知っているので、ついて行く」とは、「あなたがたが、私の声を聞き分けることができないのは、どういうことなのか?」という裁きの言葉であると同時に、驚きと、嘆きの響きを持つ声でもあり、また、語調を変えて、帰っておいでと招く声なのです。

つまり、招きの言葉なのです。飼い主を見失ってしまった者、その声を聞き分けることができなくなってしまった者たちをもう一度、ご自身の元に集めようと、語りかけられる声なのです。

議論の言葉、論理的に説得しようという言葉ではありません。分かりやすさを求めて、理解させようという論理の言葉ではなく、ハートに届こうとする声です。

今、この言葉によって、あなたたちの前に立ち、あなたたちと顔と顔とを合わせて、あなたたちに語りかけている私の声が聞こえるか?私のもとにひれ伏すか?と迫っているのです。

 

いいえ、これは服従への招きの言葉ですが、もっともっと、その前提として、私たちが聴かなければならないこと、特に、しっかりと、聴くことが許されていることがあります。

それは、その招く方は、この私の名をその声で呼んでいらっしゃるということです。他の誰でもなく、一般的な代名詞でもなく、この私の固有の名前、私だけの名前をその声で呼んでいらっしゃるのです。その裁き、その励まし、その慰め、その招きを、私の名前を呼んで、お語りになっているのです。

母がその子を呼ぶ声、99匹の羊を残してでも、失われた一匹を探し求めて、盗人、強盗、狼、ライオンの潜む山や谷を行き巡り、羊飼いがその羊の名を呼ぶ声、懐かしい声。

 

つまり、イエス・キリストというお方の言葉には、声音があり、それは、他の誰でもない、私を目指して、私のために、天から降ってこの世に来られた、私の真の責任者の声です。

真に心強いことですが、この方は、4節の頭に、「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立っていく。」と語られています。

ここには、二つの力強い約束があります。一つは、自分の羊をすべて連れ出すまで、この方は、諦めないということ、そして二つ目は、この方は、その羊の先頭に立っていくということです。

イザヤ書49:15の言葉の言い換えです。

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることはない。」

これらの宣言、この母に等しく、羊飼いに等しい神の覚悟のゆえに、私たちは、失われることも、奪われることもないのです。

もう一度申しますが、この方は、天地万物の造り主であられるがゆえに、天地万物の主であられます。

この方のすべての羊たちが、その声を聞き分けることができるようになるまで、その探索、追及は終わることがありません。先頭に立って進まれる主イエスの歩みは、この後、十字架まで、陰府にまで及ぶと、私たち教会は、知っており、その声を届けるために、存在しています。

 

教会の語る福音の言葉を通して、今日もキリストの出来事が語られました。

わたしは、あなたの羊飼いである。わたしは、あなたのためにあると、今、主イエスの声が、頭だけでなく、お一人お一人の魂目指して、響いているのです。

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