終末を待ちながら

1月31日コリントの信徒への手紙Ⅱ5章6節から10節まで

聖書全巻リレー通読という運動があります。講壇用の聖書を、教会員が一丸となって、最初から最後まで音読しようという日本聖書協会が提唱している試みです。旧新約合わせて66巻の聖書、理解しながらじっくりとではなく、ただ始めから終わりまで、寝る間も惜しんで声に出して読んだとしたら、だいたい100時間くらいかかるそうです。寝ないでただただ読み続けても、4日以上かかるという事実は、聖書の豊かさを語っていると思います。

 旧新聖書66巻、一人の人が、同じ物語を、一気に書き上げたわけではないことも私たちは知っています。時代も国籍も、教養も違う、多種多様な多くの人の手を通して、長い時間をかけて、一冊の聖書として、今ここにあるものです。法律文書もあれば、讃美歌もある。物語もあれば、手紙もある。ことわざもあれば、児童文学もある。その文学形式だけを思っても、全文書を、同じようには読めません。多種多様な豊かな文章の集まったこの一冊の分厚い書物です。

 けれども、私たちはこれは単なる寄せ集めではなくて、一つの目的に沿って集められたものだと信じています。その一つの目的とはイエス・キリストの福音です。66巻全ての文章は、多種多様な人たちの個性あふれる、その文書しか語りえない独自の内容を持ちながらも、イエス・キリストの福音を指し示すという神の御思いに一致して仕えているものだと私たちは信じます。

 私たちはふつう何かを知ろう、何かをじっくりと見ようと思う時は、その近くまで行ってまじまじと見ることによって、わかると思うかもしれません。でも、豊かで、大きなものには、別のアプローチをとらなければなりません。たとえば、ナスカの地上絵は、じっくり見ようと近くに行けば、回りの石をどけた細い線がどこまでも続ているだけです。モザイク画もまた、近くで見れば、色とりどりのタイルが不規則に並んでいるようにしか見えません。近くで見れば、美しいとは言えない奇妙で不気味な色のタイルもあるものです。ところが、じっくり見ようと近づくのではなくて、それが求める適度な距離まで下がると、意味を持った全体、美しい全体が見えてくるものがあります。

 聖書を読む時も同じだと私は思います。六十六分の一冊の、しかも、さらにその内の小さな数節だけに注目していては、わからなくなることがあります。一節は、一章の中で、一章は、一冊の中で、一冊は六十六冊の中でその語ろうとすることを正しく聞き取れるようになるものです。

 最も素朴な意味での教会の神学、神の言葉の学問的探求とは、短い一節、あるいは数節、しかも、それを間近に見ていると、イエス・キリストの福音がわからなくなってしまうような奇妙なタイルを、きちんと美しいものとして、理解するための全体の見通しを得ることです。そうであるならば、神学とは、牧師、神学者だけに関りのあるものではありません。聖書を読んで、そこから神のみ旨を聞きたいと思う人ならば誰でも、全体の見通しという意味での神学、福音の全体から部分を見ることを必要とするからです。木を見て森を見ない読み方で読んで、あっちに揺れたり、こっちに揺れたりして、迷子にならないように、地図を持って、聖書の豊かな森に分け入るのです。

 地図は森自体に代わることは決してできませんが、森での散策を、有意義なものにしてくれるものです。何も難しい神学書を読めばいいのではありません。注解書を読めば良いのでもありません。目新しいものである必要はありません。定評のある古くからの信仰問答や、信条に親しめば良いのです。けれども、一番手っ取り早いのは、やはり、私たちが教会の中で聖書を読み続け、説教を聞き続けた中で養われた道順、既に頭の中に出来上がっている地図があると思います。それに信頼して、なるべく広く前後の文脈を見ながら、聖書を読めば、良いのです。

 長々と、聖書の読み方について、お話ししましたが、今日の所こそ、今申しましたような文脈と、全体の見通しの中で読むことが必要な箇所だと思い、時間を取りました。

 というのは、私たちが、10節の「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」という言葉は、なかなかきわどい言葉だからです。

 もしも、その言葉だけに、注目して、その言葉だけに留まって読むならば、パウロの宣べ伝える福音を裏切ることになると思うからです。

 この10節だけを取り出すならば、この言葉が何を言っているか、解釈の余地なく明らかであります。世の終わりにキリストが再び来られるという再臨の時、その裁きの基準はただ一つ、この地上の命を生きている間に、善いことを行ったか、悪いことを行ったか、それだけです。この地上の命を生きているときに行った善行、悪行がそのまま、死後の報いに通じると述べているのです。

 私たちはイエス・キリストの福音を信じるキリスト者でありますが、このような言葉は、新約聖書を読むまでもありません。その外でも十分聞くことのできる言葉、極めて常識的な宗教の言葉です。仏教であろうが、儒教であろうが、ヒンドゥー教であろうが、極めて常識的な宗教人の言葉として、善い行いには死後に善い報い、悪い行いには死後に悪い報いがあると、語られているものです。もちろん、それは聖書の信仰も例外ではなく、ファリサイ人の姿の内に具体的に結実している信仰であると思います。それは、私たちのよく知った言葉で言えば、律法主義と呼ばれる信仰の姿です。善い行いには善い報い、悪い行いには悪い報い、各々は撒いたものを刈り取る、原因と結果は一対一で対応している、それが律法主義です。

 しかし、パウロは、この律法主義に対して、人間が神に義しい者として認められるのは、律法の実践によってではなく、神さまの側が罪人である人間を救おうと決めてくださったからだと、宣べ伝えたのです。私たちが信じ、キリスト者とされた福音は、この福音です。この福音によって、律法主義、我々がかつて知っていた言葉遣いで言えば、因果応報から救われたのであります。

 ところが、その同じパウロが、ここでは、律法主義を語っている、因果応報を語っている。だから、ある人はここでパウロの悪口を言います。人を集めるときは、人間はどんな罪人であっても、イエス・キリストによって救われるのですよと言いながら、いったん信者になった人達には、一転して、私の教える倫理基準に従っておとなしく善行を積まないと、最後の審判で裁かれることになると脅す。これは、詐欺とまでは言わなくても、それに近いものがあるじゃないか?と。

 皆さん、どう思われるでしょうか?正直に言って、この箇所だけ読んでいれば、そう読まざるを得ないと思います。無償で与えられる恵みとしての福音によって、神の者とされながら、福音に与る前の罪は、無償で帳消しにされるけれど、福音を信じた後は、もう一度、善行を積むように求められている。

 批判する人はパウロの矛盾だと言いますが、そうとも言えない。むしろ、世の中の常識的にも、一度借金を帳消しにされたからと言って、その後に借金を重ねれば、それは新しい債務として責任を負わなければならなくなります。同じように、洗礼を受ける前の罪はキリストの赦しによって、消されるけれど、赦されて罪から自由になった後になお犯す罪は、それこそ、もう二度目の赦しは残っていないような重い重い罪というふうに、考えは道理にかなったことだとも言えます。

 考えてみれば、これはパウロの突飛な考えではなしに、イエス様ご自身が、マタイ16:27で、「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて、報いるのである。」と仰っていました。

 洗礼前と、洗礼後では求められるものが違ってくるという説明は、詐欺に近いと悪口を言われてしまうけれども、正しい聖書理解かなあとも、私たちの心は揺らいできます。けれども、それを推し進めて考えると、おかしなことになってきそうです。一番良いのは、イエスさまの贖い、罪の赦しを信じた時点で洗礼を受けるのではなくて、そのことを信じたら、人生の晩年までイエスさまを主と受け入れることを我慢しておくということになりかねないことです。もうこれ以上の悪いことができようもない死の床で、洗礼を受ける。それが、一番安心ということにさえなります。

 それが不誠実であるならば、洗礼を受けたキリスト者の歩みは、二番目の赦しはないのだから、キリスト者の生き方というのは、律法主義者以上に、びくびくした生き方になるのではないかと思います。

 しかし、私は声を大にして申し上げたいのですが、こういう時に文脈で聖書を読むということが大事なのです。

 10節の言葉は、文脈の中で読まなければならない。そうすると、直ぐに気付くのは、今日取り上げた6-10節という短い箇所の中にも既に、「わたしたちは心強い」という特徴ある言葉が二回使われているということです。

 もしも、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」ということが、イエス・キリストの福音を信じる者の行き着くところであるならば、全然、心強くはないと思います。むしろ、心細くて仕方がないと思います。

 それなのに、パウロは二回も私は心強いと言います。なんで心強いのか?今日の所を飛び越えて、さらに文脈を見てみますと、先週あまり触れなかった、5節に目が留まります。

 「わたしたちを、このようになるのにふさわしくしてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えてくださったのです。」だから、6節、「それで、わたしたちはいつも心強いのです」。

 なんで、こんな洗礼を受ける前よりも危ういような状況で、心細いのではなくて、心強いかと言えば、神が私たちをふさわしい者にしてくださるからです。私たちの内にお住まいになる聖霊が、私たちのふさわしさを保証してくださるからです。

 そのふさわしさとは、土の器であった自分から、鉄の器、金の器に変えられるということではありません。私たちは、キリスト者であっても、この地上の幕屋にあって、苦しみもだえている土の器です。

 しかし、それにもかかわらず我々の心強さというのは、神の霊がこの貧しい土の器を住まいとされるということ、この弱い土の器を用いて、私たちを住まいと定めてくださった聖霊が良き実を結んでくださるということです。冷たく乾いた炭は、自分から熱を発することはできませんが、炎が投ぜられると、真っ赤に灼熱し、熱を発するように、聖霊が、私たちの命となって、私たちを善き業に生きる者としてくださいます。

 さて、10節で終末の裁きの材料とされる善行と、悪行ですが、ある人は、結局のところ、これはキリストへの信仰があるかないかということだと言いました。世の中の人、誰もが認める良い業、悪い業ではなくて、神さまが見ておられるのは、キリストへの信仰があるかないかだと言うのです。一応は、このことを押さえておくことは大切であると思います。なにしろ、私たちに保証を与えてくださる聖霊のお働きというのは、新約聖書全体の文脈で言えば、何よりも、人間にキリスト信仰を与える霊だからです。

 パウロが、コリント教会にあてた第1の手紙において、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と語り、主イエスご自身が、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と仰ったのは、私たちをキリストを信じる者とする聖霊の御業です。

 けれども、それこそ、今日の聖書箇所、66巻の中の小さな小さな断片が、聖書全体に貢献してくれることだと思いますが、キリストを信じる信仰をお与えになる聖霊の働きというのは、私たちの心の問題、心の態度に働きかけるだけではありません。

 この地上の幕屋である体をも、ご自分のふさわしさに生かしてくださる。この死ぬはずのものを、天の命で飲み込もうとしてくださる。この地上の幕屋である体をも用いて、悪のみではなく、善の実を、結んでくださるというのが、今日の聖書箇所が独特に放つわたしたちへの目の覚めるような良き知らせなのだと思います。

 パウロが9節で、「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と言う時、そこには、聖霊の器とされている自分の心と体を神に改めて差し出している者がいるのです。神の真実、誠実によって、ただ恵みのみによって神の器されている自分を、もう一度、自分の方でも、喜んで神に差し出しているのです。しかし、これは個人主義に終わるものではありません。

 東京神学大学の芳賀力学長が、ブログで自分の神学を発信し続けていらっしゃいますが、そこで、神の作り出してくださった現実を、私たち一人一人の現実としてくださるのが聖霊だと語りつつ、その信仰を与え、神の現実を私たちの現実にしてくださる聖霊が、来られるとき、作り出されるのは教会だと言います。一人の自覚的な信仰者を作り出される聖霊は、それによって実は教会を作り出されるのです。

 今日の個所でも、見落とすべきではないのは、パウロの言葉はことごとく「わたしたち」という複数形であったことです。私たちは神の前で一人立てる自分を追求するのではありません。パウロがしたように、皆で立ちたいのです。自分だけがふさわしい者になるのではなくて、皆でふさわしい者とされたいのです。

 この願いは私たちの勝手な願いではなく、私たちの内住の霊、聖霊の内なる願いであることを信じます。この聖霊は父の送られたイエス・キリストの霊であり、このお方は天で一人、神の子であることを願わず、私たちの元に来られ、私たちを神の子とするために、ご自身の方で、私たちと同じ土の器に成りきってくださった方です。

 そのキリストの霊の器とされた私たちがなすべき良き業とは、ここから出て行って、それぞれの場で、罪の赦しの福音を告げ、出会う一人一人を、祝福の内に神の者として数え上げ、神のもとに連れ帰る以外の何事でもないと思います。主は人間を喜びとし、人間は主を喜びとします。主が必ず成し遂げてくださいます。私たちの願いと主の願いは、聖霊によって一つです。安心して、一週間の使命へと、歩みだしましょう。

 

 

 

 

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