10月2日 主日礼拝説教 ヨハネによる福音書6章52節-59節
先週読みました箇所、今日の直前のヨハネ6:47でイエスさまはこう仰いました。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」
私がこの教会に遣わされてから、皆さん耳にタコができるほどに聴かれてきました。
イエス・キリストの救いはただ神さまからの一方的な恵みによって与えられる。そこには、私たち人間の行いが入り込む隙間はない。信仰でさえも、救いを頂くための人間側の手段とはならない。
それでは一体信仰とは何か?と、疑問に思った方も中にはいらっしゃると思います。
しかし、先週は、信じること、その意味をはっきり分かるようにしてくださるイエスさまの御言葉を聴くことが許されました。
信仰とは信頼のこと、イエスさまと血の通ったお付き合いを始めることです。
信じ仰ぐ主イエスへの信仰とは、親しく交わる主イエスとの親交のことです。
わたしこそあなたのパンだ、あなたの命だと、この私たちに向かって、私たちの耳に、囁いてくださる声に目覚め、イエスさまとの交友を始めることです。
主よ、私に語りかけておられたのですね。私のことを求めていらしたのですね。私を見つめ、私を共に生きて行く友人として、家族として選んでくださったのですね。
だから主イエスが語られた信仰とは、救いを頂くための条件でも、神さまの救いを流れ出させるための人間側のトリガーのことでもなく、イエスさまと私たちの間に始まる顔と顔とを合わせたお付き合いのことです。
このお方とのそのような親しい交わりが、まさに私たちの命のパンであり、この方と一緒に生きて行く毎日が、永遠の命と言われる重さを持った、貴い、宝のような毎日なのです。
世の終わりまでいつもあなたがたと共にいると、決して私たちから離れないと約束してくださった方の存在に目が開かれるその時、「自分で自分を守るしかない」、「最後に頼りにできるのは自分だけだ」と身を固くしていた私たちが、永遠の孤独から救われるのです。
そのような交わりを私たちと結ぶために来られ、私たちの目を見て、私たちに懇ろに語りかける、私たちの友、御子イエス・キリストであられます。
そのお方が、その身を乗り出すようにした友情の申し出に続き、今日の箇所では、どんなに堅い結びつきを私たちと築いてくださるかを、さらに、進んで語りかけてくださるのです。
53節以下です。少し長いですが、57節まで、主イエスの御言葉をもう一度聴きます。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
神の独り子という貴いお方が、私たちの友となり、家族となるほどに、深い深いお付き合いを始めさせて頂けること、まさに、これが、私たちにとって、命のパンと呼ばれるほどにかけがえのないもの、永遠の命を持っていると言えるほどに、貴く得難い交わりです。
しかし、主イエスは、まだまだ言い足りないのです。言い尽くせないのです。御自分がどれほど、私たちに身を向けておられるのか?どれほど私たちに入れ込んでしまわれているのか?どれほど、私たちに、御自分を捧げ尽くそうとしておられるのか?
47節で、「はっきり言っておく。わたしと顔と顔とを合わせた深い信頼関係に生きることが、あなた達の命の源だ。今、ここでわたしはあなたと生き始める。」と宣言されているお方が、もう一度、「はっきり言っておく」と、これだけは、言わずにはおれない。どうしても知ってほしいと語り始めます。
それは、あなたたちは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むことになるんだ。わたしが命のパンであるというのは、わたしとの交わりがあなたたちの命には欠かせないということの、単なるたとえであることを超えて、肉と血を備えた生々しい事実となるのだ。
あなたの目に見えている、やがて見えなくなる、この地上に、確かに存在する、存在したわたしの体、わたしの肉と血そのものが、あなたがたの命のパンとなるのだ。
あなたがたは、このわたしの肉を食べる。このわたしの血を飲む。そして、生きる。わたしの肉と血に与るあなたがたは、二度と、飢え渇くことなく、永遠に生きる。
このことは、最初に聴いた人々に、弟子たちにさえ、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」という反応を引き起こさずにはおれない言葉であったことが、次週聞く61節に記されています。
イエスという方の肉を食べ、血を飲むなんて、ひどいひどい話だ。
少し本筋から外れますが、初代のキリスト教徒に対する悪口、迫害の動機になった風評は、彼らは、人肉を食べているというものでした。
迫害を避けて、カタコンベと呼ばれる地下墓所で、静かに礼拝を捧げていたキリスト教会でした。
愛餐会と分けられた聖餐の食卓は、やがて、公の礼拝が終わり、求道者が帰った後で、キリスト者たちだけで祝う秘儀となりました。今も、世界では礼拝の後に、希望者だけで集まって聖餐を祝う教会もあります。
古代の教会では、さらに、地下墓所で信者だけで集まって、自分たちの信仰の大切な行為として、飲み食いしている。しかも、どうやら肉と血を飲んで食べているらしいと風評が立ち、憎まれたのです。
けれども、もちろん、わたしの肉を食べ、血を飲むとは、実際の主イエスの血肉を飲み食いせよと招かれたのではありません。
そうではない。そうではないけれども、単なるたとえでもない。生々しい事実が指し示されています。
主イエスがここで指示しておられる生々しい事実、それは御自分の肉が事実、裂かれ、ご自分の血が事実、流される十字架の出来事のことです。
あなたを生かすわたしとの交わり、あなたの命となるわたしとの親密な交わり、それがどれほどのものであるか、語り聞かせよう。あなたの心にわたしの思いを刻み込もう。
わたしはあなたのために命を懸ける。あなたを生かすために、わたしはこのわたしの命を十字架で注ぎ尽くす。
わたしが十字架で裂くことになるこの体、十字架で流すことになるこの血、これは全部、あなたのものだ。あなたのためのものだ。
なぜ、そんなことが必要で、なぜそれが私たちの命を救うことになるのか?さっぱりわからないということがあるかもしれません。
けれども、ただただ単純に、主イエスは、今日、この箇所で、わたしたちに向かって、「わたしの肉とわたしの血を裂いて流して、命を懸けて、あなたを生かす。あなたのために命を全部注ぎ出す。それが、わたしのあなたたちと結ぶ友情の深み、覚悟だ」と、宣言されているのです。
このお方が私たちと結んでくださった関係というのは、友人関係以上のもの、家族関係以上のもの、56節でこのお方が仰るように、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と表現される一体の関係です。
キリストが私の友となってくださるというだけでももったいないことです。わたしの兄となり、わたしを神の家族としてくださるということだけで、ありがたいことです。
けれども、主と私たちの結びつきは、それはわたしたちが家族関係、友人関係で考えるような結びつきをはるかに超えているのです。
私たちのために十字架に至り、命を注ぎ尽くされるイエス・キリストと私たちの関係は、主が私たちの内に、私たちが主の内にあると言われる一体の関係です。
先々週の日曜日には、8つの教会が、改革長老教会の大切にするハイデルベルク信仰問答から、その問46~49をもとに自由に選んだ聖書箇所で、説教をするという連長の交換講壇がありました。
わたしは小松教会で説教しました。
今回取り上げられた個所は、ハイデルベルク信仰問答の中でも、よく知られた箇所ではなかったと思います。
わたしも、何度も読み返している個所ではありますが、新しく出会い直したような感動を持って、その問いと答えに接しました。
特に問48「キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。」という問いへの答え、しかも、「第二に、、、」と始められる部分に、深く深く感動いたしました。
こう言います。
お甦りのキリストが天に昇られたことによる私たちへの利益、それは、「第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭であるキリストが/この方の一部であるわたしたちを/御自身のもとにまで引き上げてくださる/一つの確かな保証である」。
わたしたちのために十字架にかかり、死なれ、墓に葬られ、陰府に降り、三日目にお甦りになられたキリストが、そのお甦りのお体を持って天に昇られたこと、それは、「わたしたちがその肉体を天に持っているということ」だと、信仰問答は告白いたします。
イエスさまと私たちは一つ。本当に一つ。どのくらい一つになっているかと言えば、お甦りのイエスさまのお体が天にあるというならば、わたしたちの体も、もう天にあると言って良い。それくらい一つだというのです。
小松教会での説教で私は次のように申しました。
わたしたちと昇天のキリストの関係は、生みの苦しみを通して、この世に生まれ出てくる赤ちゃんの頭と体のような関係性だ。
頭であるキリストのお体が天にあれば、その方に結ばれたその方の体であるわたしたちも、ほとんどもう、天に生まれているということができる。
それほどまでに、イエスさまは御自分と私たちを結び付けてくださっている。
本日はこの後に久しぶりに聖餐に与ります。
今日ともに聴きました、イエスさまの言葉は、実はヨハネによる福音書の中で、聖餐制定の言葉として位置づけられるものです。
聖餐とは、身体レベルで、主イエスの恵みを味わう行為、主イエスとの一体を確認する行為です。
これがあなたのために裂かれるわたしの肉であり、これがあなたのために流されるわたしの血であると聖餐のパンと杯を、生けるキリストがその手ずから私たちに差し出されます。
わたしたちはそのパンと杯を、ここに御臨在される生けるキリストご自身から受け取るのです。
これは何の変哲もないパンと杯に過ぎません。
けれども、わたしたちのために十字架にかかり、わたしたちのために墓に葬られ、わたしたちのために陰府に降り、わたしたちのためにお甦りになり、わたしたちのために天に昇られた、キリストが、今、わたしたちのために、わたしたちを生かすために差し出されるパンと杯です。
あなたのためのわたしだ。あなたのために、今も働くわたしだ。あなたを生かすわたしだ。
その思い、その御心が込められたパンと杯に、与ります。
このパンと杯によって、今ここに御臨在される生けるキリストによってわたしたちは触れられ、またわたしたちもこの方に触れるのです。
それは、このパンと杯が私たちの五感に確かに触れ、確かに味わわれるように、確かなことです。
説教において主の御声を心と霊で聴き、聖餐において主の御思いを体に受け取り、主との一体を深くこの心と霊と体に刻みます。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」
この御言葉は、裁きの言葉ではありません。押し入れ、揺すり入れようとされる恵みの言葉だと、わたしは信じます。
わたしがあなたに与えようとしている恵みは、あなたが想像している以上のものだ。あなたが期待している以上のものだ。
小さく見積もらないでほしい。わたしは本当に本当にあなたの命なんだ。あなたの心と体と霊の丸ごとの命なんだ。もっとあげた。もっと満たしたい。それを味わわずして、満足してしまうことがないように。わたしの恵みを味わい尽くしたと思い込んでしまわないように。心も体も、その霊も、丸ごと、わたしの命で満たす。
しかも、わたしたちは、主イエスより、その豊かさの中から、ほんのちょっと命をお裾分けして頂くのではないのです。主イエス丸ごと、その命の全てが注ぎ込まれるのです。
こんなにも豊かなお申し出を、今、わたしたちは受け取るのです。
キリストの命丸ごとをわが命の丸ごとに受け取るのです。主はわたしたちの内に、わたしたちは主の内にという一体として、この方に深く結ばれるのです。
それは、まだ洗礼を受けていない方には、洗礼という具体的な形で、洗礼を受けた者には、聖餐という具体的な形で、差し出されている私の命と結びあうキリストの命丸ごとであります。
生ける主の言葉を聴くためにここに集まった私たちにとって、洗礼も聖餐も、恵み以外ではありません。
戸惑うほどの言葉です。しかし、そのもったいなさ、申し訳なさに、たじろぐようなことではありますが、わたしには荷が重すぎると退くようなことではありません。
ご自分を差し出されるキリストの命丸ごとを、差し出されるままに、今、謹んで頂くだけです。
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