私たちの新しさ

2022年1月2日 ペトロの手紙Ⅰ 1章3節~4節

主の年、2022年おめでとうございます。この新しい年も、決して朽ちず、汚れず、しぼまないキリストの祝福、神の慈しみが、お一人お一人と共にあることを、主が教会に託された宣言として、まずこの年のはじめにお一人お一人に告げます。主の恵み、主の平和が、今、私たちと共にあります。

 

新しい年、もう一度生まれ変わったようなつもりで、お正月を迎えられた方もいらっしゃると思います。新年最初の礼拝で、心機一転、新しく生きようとの志を抱いている方がいらっしゃると思います。

 

そのような新年に、お読みした聖書箇所において、聖書は私たちの新たな生まれ変わりについて語っています。聖書は、神の恵みにより私たちは新しく生まれ変われると語ります。

 

死者の中からお甦りになられたイエス・キリストによって、神は、私たちにこのような新たな生まれ変わりの生き生きとした希望を与えられたと、使徒ペトロは言います。

 

やり直したい、生き直したいという心に根ざす、私たち人間の新しくやり直そうというお正月の思いは、2月を待たずにだいたい萎えてしまうものです。

 

けれども、このイエス・キリストという方を通して神が私たちに与えられる生まれ変わりの希望は、生き生きとした希望、朽ちず、汚れず、しぼまない希望だと言われています。

 

このお甦りのキリストによって、私たちに与えられる生ける希望は、誤解してはなりませんが、死後、私たちに与えられる恵み、それゆえ、将来の望みだというのではありません。

 

なぜならば、この希望を語るペトロという人は、明らかに、今、この時、喜んでいるからです。今この時、思わず、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と、神を拝み出すことができるのです。

 

もしも、その生まれ変わりの望みが、ただ将来に属するものであるならば、こんなにも喜ぶはずはありません。それを楽しんで待つということはあったとしても、今、ここで思わず、喜びが溢れ出してしまうようなことはないでしょう。

 

今ここで、過去の失敗を悔やみながら、あるいは、別の人生を空想しながら、なお、お正月も少し経てば、結局、元通りの自分を生きて行かなければならない、この私たちと同じ一人の人間が、イエス・キリストのゆえに、自分自身の現実となった生まれ変わりの喜びをここで爆発させているのです。

 

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように‼神さま、あなたを賛美します。神様あなたをほめたたえます。神さま、本当にありがとうございます。」

 

私たちは、この使徒ペトロの喜びの爆発を聞いて、困惑しなくて良いし、自分には関係のない話だと、聞く耳を閉ざす必要はありません。

 

なぜならば、使徒ペトロは、「私たちの主イエス・キリストの父である神」と、今ここで自分を生まれ変わらせてくださった神の名を呼んでいます。

 

「私たちの主イエス・キリスト」です。ペトロ一人の主ではありません。

 

「私たちの主」です。今日、この言葉を聴いた私の主、あなたの主でもある、イエス・キリストです。

 

2000年前に起きたイエス・キリストの死者の中からのご復活は、ペトロだけではありません。この私たちにも、生まれ変わりを与える神の慈しみ、神の憐み、神の力です。

 

けれども、このような生まれ変わりとは一体何なのでしょうか?一体全体私たちはどのように生まれ変わるというのでしょうか?

 

この生まれ変わりの約束は、使徒ペトロが語り出したことではなく、十字架とご復活以前のイエス・キリストが、既に、お語りになっていたことです。

 

かつて主イエスは、夜陰に紛れてひそかに訪ねてきた身分の高いイスラエルの教師ニコデモという人に、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、生まれ変わりがどうしても必要であることを説いて聞かせました。

 

その時、ニコデモは、使徒ペトロの言葉を聴きながら、どういうことだと戸惑わざるを得ない今の私たちと同じように、私たちを代表するようにして、問いました。

 

「年をとったものが、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

 

私よりも優れた教師であるはずの主イエスよ、私があなたにお尋ねしたいことは、どうしたら、今ここで、喜ばしい人生を送ることができるかということです。しかし、あなたは神の国の内、すなわち、祝福された人生を歩むためには、どうしても生まれ変わりが必要だと仰います。今、ここで生まれ変わるなど、できようはずもありません。それはもう、どうにもならないから、諦めろということにしか響きません。

 

しかし、もちろん、主イエスは、諦めを説いたのでも、来世の希望を説いたのでもありませんでした。使徒ペトロが、イエス・キリストの死者の中からの復活の出来事の内に、生まれ変わりの恵みを見たように、主イエスは、困惑するニコデモに、ご自分の十字架の出来事を暗示されたのでした。

 

死後の生まれ変わりではありません。今、ここでの生まれ変わりです。それは、まるで生まれ変わったように、心を入れ替えて生き始めることができるという比喩でもありません。

 

本当に新しく生まれ変わることができる。本当に新しい存在となる。

 

使徒ペトロは4節で次のように言います。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」

 

新しい生まれ変わりとは、天の財産を受け継ぐ者とされているということです。

 

天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産の相続人となった。新しく生まれ変わる、天の宝の相続人となる。使徒ペトロの語るこの二つのことを、聖書は他の個所で、すごくシンプルに「神の子とされる」と語ります。

 

今、ここで神の子とされるということは、キリストの十字架の出来事、その死とご復活によって、神の独り子がお持ちになっていた相続財産が、私たちに与えられたということです。私たちの呪いはキリストが全部、十字架で引き受けてくださった。改革者ルターが「偉大なる交換」と呼んだ、あの交換、キリストと私たちの間に起きた立場の入れ替わり、これが新たな生まれ変わりです。

 

母の胎内に戻る必要などありません。死んで、やり直す必要もありません。どんな失敗を繰り返しても、どんな不運が重なっても、このあるがままの私に、神の独り子であるキリストの富が注がれ、我々の失敗と不運は、全部キリストのものとなります。

 

まるで、トランプゲームの大富豪の最強の手札と大貧民の最弱の手札を丸ごと交換する革命のように、キリストの十字架の出来事は、神の独り子の財産と、私たちの呪いを、丸ごと交換するものでありました。

 

このイエス・キリストの十字架の出来事以来、私たちには、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産が、相続されているのです。

 

ところで、この天に蓄えられている財産が、「朽ちない」と言われていますが、「壊れない」という言葉が使われています。ある牧師はもっと正確に言うならば、「壊されない」ということだと言います。天の財産は壊されません。なぜならば、私たちの天の父がそれを守っておられるからです。

 

それは、それは虫が食ったり、さび付いたり、盗人が忍び込んで盗み出すことのできる地上の富とは違います。虫が食うことも、さびることも、泥棒に盗まれることも、強盗に奪われることもない天の富です。

 

だから、地上のものに、心惹かれず、上にあるものに心を留めておけば良いのです。

 

けれども、この天に蓄えられた宝、天に積まれた富とは一体何でしょうか?

 

結局のところ、私たちが地上に生きることを、楽にしてくれることはない、まだお預けを喰ったままの死後、あるいは世の終わりに与えられる天の報いのことでしょうか?

 

いいえ、むしろ、天に蓄えられた宝とは、私たち自身のことではないかと思います。

 

次週、改めて読むことになっている箇所ですが、コロサイの信徒の手紙3:2節以下では、地上のものに心惹かれず、上にあるものに心を留めよと聖書が勧めるとき、そこには、「あなたがたの命は(が)、キリストと共に神の内に隠されている」からだと言っているからです。

 

私はここにこそ、新しく生まれるということがどういうことであるか、なぜ、そのことが、思わず、喜びが爆発し、神をほめたたえずにはおれなくなるかの理由が、本当に明らかになっているのではないかと思います。

 

天の父が、私たちの命を、その懐深くに、壊れないように、壊されないように、守っておられるのです。

 

私たちの命は、私たちの存在は、この世界の中にあって、ほとんど丸裸で、簡単に傷ついてしまう弱く、儚いもののように見えます。しかし、そのような私たちの不安に反して、神は、この私たちの命を、この存在の一番深い大切な部分を、天におられるご自身の宝箱の中に、キリストと共に、神の内深くに隠し、しまい込んでしまっており、もう、本質的な部分においては、もう誰にも、何にも傷つけられないように、なっているということです。

 

この手紙が書かれた時代は、ネロの迫害と重なる時期です。キリスト者の地上の命は、脅かされているのです。使徒ペトロ自身が、やがて、殉教していくのです。

 

けれども、彼の喜びは、神の懐深くに、隠され、しまい込まれ、誰も手の触れることのできない栄光と尊厳に包み込まれているということを、極度の暴力の中にあっても、いよいよ深く知る他なかったと思います。

 

イエス・キリストにあって生まれ変わった者は、まるでその心臓を高い山の洞窟に隠しているゆえに誰にも殺すことのできないという巨人の伝説のように、誰にも滅ぼすことのできない神に堅く守られた命の尊厳を持っているのです。

 

それはつまり、使徒ペトロが被ったような物理的な暴力ばかりではなく、私たちにとってはもっともっと身近な暴力的言葉、存在を否定し、私たちの心をすりつぶしてしまうような言葉や、社会的空気によるレッテル貼りなど、それらの力も、どんなに激しく、私たちを追い詰めることが出来たとしても、絶対に神の子たる私たちの命を滅ぼすことはできません。

たとえ、この肉の命が断たれることが起きたとしても、心を壊すことができても、ほんの少しも、髪の毛一筋ほども、神のもとに隠されていた私たちの命は、朽ちたり、汚れたり、しぼんだりすることはないと神は宣言なさいます。

しかも、それは、朽ちたり、汚れたり、しぼんだり、傷ついたりする、私たちの実際の、草臥れ果てたこの体や、心の内には、私たちの命の本質はないというのではありません。

死者の中からのイエス・キリストのご復活、焼いた魚を食べ、この目で見、この手で触れられる体を持ったキリストのご復活のゆえに、成った私たちの新たな生まれ変わり、神の子たる命の始まりです。

それは今日はお読みしなかった5節以降に語られますように、どういう形であるか、実際には全く理解できることではありませんが、やがて、終わりの日には誰にでもはっきりとわかる形で、それでも、この心と体を含めたこの草臥れ果てて、壊れてしまったように見えていた私たちの地上の命にも何のしみも皺も付くことはなく、神はこれをご自分の内に隠し、守り通されたことが明らかになるのです。しかし、このことは、現在の事柄ではなく、将来に属する事柄です。

このような新しく生まれた神の子である自分自身を発見することができるのは、5節にあるように、信仰によることです。信仰を与えられ、洗礼を受けたキリスト者だけが、この生まれ変わりを喜んでいると言わなければなりません。しかし、キリストの十字架とご復活の出来事は、信仰ある者たちだけに注がれた神の慈しみではありません。

つまり、この生まれ変わりは、ただイエス・キリストの十字架とご復活の出来事によって、神が一方的に、人間の助けを露ほどにも必要としない完全な恵みとして、既に成し遂げられた出来事、起きた事実としての福音の報せです。

 

信仰とは、生まれ変わりを引き起こすことではなく、神が既に2000年前にキリストにおいて成し遂げられた人間の生まれ変わりを、認識するということです。

それゆえ、信仰を与えられ、この生まれ変わりに生きるということは、キリストによって、この身に起きた事実に気付く、自分が壊れて滅びてしまうという悪い夢から目を覚ますということでしかありません。目を覚ませば、既に、誰もが、生まれ変わった神の子である自分であることを受け止めることができるのです。

しかし、この気づき、この目覚めは、私たちにとって、決して小さなことではあり得ないと思います。

なぜならば、私たちは、今、この時、自分が朽ちて、汚れて、しぼんで行ってしまうのではないかということを、どうしようもなく恐れているし、どうしようもなく理不尽に感じるし、どうしようもなく嘆き、悲しんでいるからです。

そして、そのために正気を失うほどに、隣人と一緒に生きることが難しくなるほど貪欲になるし、あるいは、それを何とか忘れるために自分を無駄遣いして生きてしまうからです。

それは、私たちを生かそうとされる慈しみ深い神の御心と衝突せざるを得ないし、神は私たちが、その幻想の中で、混乱しながら生き続けることを、私たちに対する燃えるような憐れみのゆえに、鷹揚に構えて眺めることなどおできになれないからです。

それゆえ、この私たちに与えられる希望は、三節で語られることをもう一度、注目するならば、あることに気付かされます。

すなわち、イエス・キリストのご復活によって私たちに与えられる生き生きとした希望、生ける希望だと言われています。

つまり、それは、生ける希望、生きている希望、自ら働かれる希望、死からお甦りになり、今も生きて、私たちのために、働き続けるイエス・キリストのこと以外ではありえないでしょう。

このお方は、今、生きておられ、今、ここにもおられ、私たちすべての者の主として、私たちが滅びの悪い夢から目覚めさせるために、休むことなく、働き続けていらっしゃるのです。

「起きなさい。目覚めなさい。あなたの命は、私の父が、隠し、守っている。あなたは私の兄弟、私の父の子である。」

ただいまから祝います聖餐は、これに与る信仰者にとっても、それを目の当たりにするまだ洗礼に与っていない方々にとっても、キリストの父なる神が、「よく見なさい」と差し出されている生けるキリストを指し示す、しるしです。

信仰者にとっては、自分は、確かにキリストと一つに結ばれていることにもう一度、目覚める食卓です。

 

また、まだ洗礼を受けていない者にとっては、ペトロのように喜びながら神を礼拝し、聖餐に与る教会の姿丸ごとが、独特な目に見える説教、五感に訴える目覚めへの招き、布団の中にも香ってくる御御御付の香りのようなものなのです。

 

どうぞ、「起きなさい」と呼びかけるお母さんの声に等しい説教の声、御御御付の香りのような聖餐に与る教会の姿丸ごとによって目覚めたならば、直ぐに洗礼の水によって顔を洗い、しゃっきりと目を覚まし、この朝の食卓に着いてください。

この新しい一年も、教会は、神の子である私たち人間であることに気付かせる輝く朝の到来を、世に告げて参ります。

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