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5月22日 ヨハネによる福音書第3章31節~36節

「キリスト教は、キリストです」。この言葉は、私たちの教会が創立当初から重んじてきた私たちの教会の信仰の姿勢を表す言葉であると言って良いことだと、最近、何度かお話ししてきました。

 

その心は、私たちの教会の理解では、キリスト教会とは、キリストの教えを信奉する群れのことではないということです。

 

そうではなく、生けるキリストとの出会いを与えられ、その生けるお方を礼拝する者の群れが教会であり、キリスト教だということです。

 

キリスト教の中心とは、キリストの教えのことではなく、生けるキリストご自身に出会うことなのです。

 

だから、礼拝の説教も、人間の教訓や、生き方を指南するものではありません。

 

説教の使命はただ一つ、私たちの道であり、命である生けるキリストをご紹介することです。

 

キリストをご紹介する福音の言葉を通し、生けるキリストに出会って頂き、この方を拝み、生涯、この方とご一緒に生きて行くのです。

 

しかも、この方が先立ち、そのすべての道のりを私たちの手を取り、導いてくださるのです。この方が私たちの主人として、責任を持つ方として、振る舞ってくださるのです。

 

この生ける主キリストにお会いしたと言える時、私たちは、生ける神にお会いしたということができるのです。神とお会いしたのですから、もう、他の救い主との出会いを求める必要はないのです。

 

イエス・キリスト、このお方は、神の言葉そのもの、神の意志そのもの、天地の造り主である唯一の神、ご自身と一つであるお方です。

 

今日読みました34節と35節には順番は前後していますが、御父と、神の霊と、御子のお名前が出てきます。

 

教会が信じる父、子、聖霊、三位一体の神のお名前が登場いたします。

 

父なる神は、世にお遣わしになった御子キリストに、聖霊を限りなくお注ぎになる。御父は、そのようにして、御子にご自分のすべてをお委ねになられる。

 

ここには、三位一体の神の御心と業が、一体どこに集中するかが語られています。

 

御子、キリストに集中するのです。

 

このお方の手に、天の父は、聖霊を限りなくお注ぎになり、持てるすべてをお委ねになっているのです。

 

分厚い聖書66巻は天地創造の物語から、終末における世の終わり、世の完成に至るまで、長い長い世界の歴史全体を語ります。

 

その聖書の語る天地創造から終末までの歴史の中では、あらゆる形で、神が登場され、この世界、この歴史への神の介入の物語が語られています。

 

けれども、全てが同じ重さを持つ物語ではありません。

 

あちらで語られている神の言葉、こちらで語られている神の出来事、全てが同じ重さを持っているというわけではありません。

 

ここに記されている言葉や出来事は、どこもかしこも神の言葉を、私たちに語るために記された言葉であるには違いありませんが、重さには違いがあります。

 

たとえば、ノアの箱舟物語の洪水による裁きは、罪ある人類への神の最終的なご意志ではありませんでした。神は洪水の後に、人は幼い頃から罪あるものだからと虹をしるしとし、洪水によって滅ぼさないということをより深いご意志とされました。

 

イスラエルの民のバビロニア帝国への隷属も、神の民の罪に対する裁きが下った結果と預言者たちは語りましたが、同時に、より深い本当の神の御心は、彼らを救い、滅ぼさないというものでした。

 

聖書に記された神の言葉、神の介入の出来事には、より暫定的なものと、より決定的なものがあると言えます。

 

けれども、その全ての神の言葉、神の意志が集約される一点、聖書の中にある様々な線が交わる一点、全ての線が交わる一点、最早、暫定的なものはなくなり、最終決定としての神の御心が露わになった一点があります。

 

その一点とは、イエス・キリストです。

 

天地の造り主なる神の意志、神の霊なる聖霊の言葉は、この一点に、全て注ぎ込まれています。

 

神はそのお遣わしになった方に、霊を限りなく、際限なくお与えになり、御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられたとは、そういうことです。

 

イエス・キリストこそ、神の全力です。イエス・キリストこそ、隠れなき神の御心の全てです。

 

だからまた、人となり、この世に来られたこの神の独り子に対する私たちの応答は、決定的なものとなります。

 

だから、少し前に読みました3:18にこうありました。

 

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

 

また、今日の箇所の最後の36節のところにもこうありました。

 

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 

御子イエス・キリストが、神の決定的なご意志、三位一体の神様の全力であるならば、そのお方を受け入れることは、世の終わりを待たずして、最終的に救われることであり、その方を受け入れないこともまた、世の終わりを待たずに、最終的に裁かれることです。

 

イエス・キリストにどう応じるかが、その分かれ目になってしまうのです。

 

ヨハネによる福音書が、救いや裁きを未来の世の終わりに取って置かれるものではなく、既に、今ここで、現実のものとなると語るニュアンスが強いのは、このような事情によります。

 

もうこれ以上の救い主を待たなくて良いし、今、この方に正しく応ずることができるならば、世の終わりの裁きを恐る必要はないのです。しかしまた、この方に間違った対応を取るならば、致命的なのです。

 

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」のです。

 

しかし、ヨハネによる福音書は、非常に厳しい現実を見ています。

 

32節です。

 

天が地へと降って来たような方である御子キリストが語る言葉、神の全力の語りかけであるこの方の証の言葉を、だれも受け入れないと、語られます。

 

原語では、「すべて、誰一人として」というニュアンスがあります。

 

主なる神の他のどんな言葉に従えず、神のどんな出来事に正しく応じることが出来なかったとしても、神の最終的な意志そのものである御子キリストさえ受け入れ、その証の言葉を喜んで受け止めるだけで良いのに、誰一人として受け入れないと言うのです。

 

33節には、その証を受け入れれば、神が真実であることを確認したことになるとあります。この確認という言葉には、御子キリストを受け入れれば、神の救いの約束を、実印を突いた権利書として、頂けるというようなニュアンスがあります。

 

ところが誰一人として、神が御子において差し出す、救いの権利書、神がくださる永遠の命の相続財産の書類を目の前にしながら、実印を突いてそれを受け取ろうとする者はないのです。

 

なぜなのか?

 

おそらく、31節の後半がその理由を語っています。

 

「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」からです。

 

地に属する者は、天から来られた方の言葉がわからない。

 

天から来られた方が天来の言葉を語っても、地に属し、地の言葉を語る者には、言葉が通じないのです。

 

もちろん、御子は、へりくだって人となり、人の言葉をお使いになるので、世界一難しくて誰にも理解できない外国語を誰にも通じないままに、喋っているというわけではありません。

 

何を言っているかわかる。言葉は通じる。しかし、受け入れられることはないのです。

 

言葉は通じても、どうしても理解できない外国の文化のように、御子の証を受け入れることができないのです。

 

たとえば、それが食べ物だと聞かされても受け付けることができない、くせのある異国の食べ物のように、天からの福音は、地にある人間に生理的に受け付けられないというのが、ヨハネによる福音書の厳しい証言です。

 

私たちはこのような言葉の前に途方に暮れざるを得ません。

 

それならば、なぜ、御子の証が語られる必要があったのか?神は私たち地にある人間から、受け入れられることのない御子を、わざわざ世に送られることをされたのか?

 

裁きを最終的に確定するためであったのか?

 

そうではありません。

 

道が途絶えているように見える天と地、あちらとこちら、地にある者は地に属し、地の言葉を語るので、決して天の言葉を語る御子の証を受け入れることができないという、私たち人間の無能力、不自由がはっきりと宣言されるという強調が一方にはあります。

 

しかしまた、もう一方には、この天から来られた方が、すべてのものの上におられるということが強調されています。

 

31節に二度、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。」と繰り返して語られます。

 

二つの世界は分断しているようでいて、分断していないのです。ヨハネによる福音書の一つの強調点からすれば、地から天に至る道はないとしつこく語られているようなので、一見、そう思えるかもしれません。

 

けれども、地から天への道はなくとも、天から地への道があることを強調し続けているのも、ヨハネによる福音書です。

 

御子はすべてのものの上におられる。その意味は35節に明らかです。

 

すなわち、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」ということです。

 

すべてのもの、天にあるものだけではありません。地にあるものもすべて、この御子の手にゆだねられているのです。

 

この世は、御子の御手の内に、置かれているのです。

 

そして、御父が、御子に地をもおゆだねになるのは、世を愛され、御子によって、世をお救いになるためです。

 

地が天を理解することはできずとも、御子は世をお見捨てにならないのです。

 

この福音書は、ただこのキリストのゆえに、闇を闇として見つめながら、しかし、この闇が、最後の言葉にはならないキリストの愛の激しさ、神の愛の激しさを知り、その光を証しする情熱の書です。

 

36節に語られる御子に従わない者の上にとどまるという神の怒りという厳しい言葉があります。

 

しかし、これは天を理解することのできない地に属するものがそもそも置かれていた普通の有り様です。

 

この世に神も仏もあるものかと語りながら、そのことに痛みを感じているというよりも、世界とはそんなものだと諦めて受け入れているその有り様が、裁きであり、神の怒りがとどまっている状況です。

 

けれども、その信じない者の上にとどまっているという神の怒りには、信じる者に与えられる永遠の命とは違い、永遠という言葉が付かないのです。

 

それは、神の永遠のご意志、最終的な決定ではなく、暫定的なものでしかないのです。

 

決定的なもの、それは、三位一体の神が、すべてをゆだね、その全力を注がれる御子イエス・キリストの出来事によって、露わなものとなります。

 

そのお方が、木にかけられ命を注ぎ出された出来事、キリストが十字架におかかりになる御子の全身全霊、全力の出来事が、私たちに対する神の永遠の意志を打ち立てたのです。

 

ヨハネによる福音書の解説書とも呼ばれるヨハネの第一の手紙4:10にこうあります。

 

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 

神の私たちに対する永遠の意志とは、いつでも、先立つ愛です。先立つばかりでなく、私たちの無能力、私たちの欠け、私たちの罪を全力で包む神の愛の意志です。

 

だから、キリスト教とは、キリストなのです。

 

キリストの教えに従って、正しい生活を作ることではなく、キリストの愛に出会うこと、生けるキリストに出会うこと、キリストと一緒に生きて行くことです。

 

この出会いはまた、私たちが天に上ることによって始まるものではなく、この方が私たちの元に、地にお降りになることによってこそ始まる出会いであり、生活です。

 

そしてそれは、まだ起こっていないのではなく、もう起こっていることです。

 

既に、この世に十字架は立ったからです。キリストは来られました。キリストは共におられます。

 

気づいていても、気づいていなくても、この神の永遠の意志が、私たちの現実です。祈ります。

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