7月6日(日)主日礼拝 ダニエル書12章1節 ルカによる福音書10章1節~12節、17節~20節 松原 望
聖書
ダニエル書12章1節
1 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。
ルカによる福音書10章1~12、17~20節
1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
「 説教 」
序、
ルカ福音書9章51節に、主イエスがエルサレムに行く決意を固めたとあります。天に上げられる時期が近づいたからだと説明されています。「天に上げられる」というのは、十字架にかけられ、復活し、天に昇り、父なる神の右に座すという事です。
こうして、主イエスのガリラヤからエルサレムに向かう旅が始まりました。
急ぎの旅ではありませんが、過越しの祭にはエルサレムの町に入っていようと計画していました。その旅の途中、多くの人々の病を癒し、多くの教えをされました。
そのような中、主イエスは72人の弟子たちを町や村へ派遣し、その心得や伝えるべきメッセージについて語りました。以前、12人の弟子たちを派遣したこと(ルカ9:1~6)があり、今回で二度目になります。
1、帰ってきた弟子たち
今日はルカ福音書10章1~12節と17~20節に分けて読みしましたが、後半の17~20節に焦点を合わせて見ていきます。
場面は各地に派遣された72人が帰ってきたところから始まります。はっきりと記されているわけではありませんが、彼らの宣教活動はうまくいったようでした。そのうえで、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と報告しました。主イエスの名を使うと奇跡が起こるとか悪霊を追い払うことができるという信仰があったことが分かります。同じルカが書いた使徒言行録に、何度かそのような場面が登場します。
主イエスの名によってペトロは足の不自由な人を癒し(使徒言行録3:6)、パウロは占いの霊を追い出し(使徒言行録16:18)、それを知ったユダヤ人の祈祷師たちでさえも主イエスの名によって悪霊を追い出そうとしました。(使徒言行録19:13~16) もっとも悪霊たちはユダヤ人の祈祷師たちの命令に従わなかったばかりか、彼らをひどい目にあわせたとも記されています。
このように、主イエスの名前には魔術的な力があると思っていた人もいたようです。帰ってきた72人の弟子たちの「お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します」という報告は、主イエスの名前には、悪霊に打ち勝つ魔術的な力があるという驚きから出ているのかもしれません。
2、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
報告を終えた弟子たちに主イエスは、その報告にあった通り、サタンや悪霊たちに弟子たちが打ち勝ったことを見たと、語りました。それに続けて、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と語りました。
弟子たちの名が天に書き記されていることは、主イエスの名を使って奇跡を起こすことよりも重大で、喜ばしいことだというのです。
3、命の書
「あなたがたの名が天に書き記されている」というのは、命の書に弟子たちの名前が書き記されているという事です。
「命の書」という言葉は新約聖書のヨハネの黙示録に何度か出てきますが、他にはフィリピの信徒への手紙に一度(4:3)、旧約聖書の詩編に一度(69:29)出てくるだけです。
その他に、「命の書」という言葉そのものは出てきませんが、モーセがイスラエルの民のために執り成しをした時に「この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」(出エジプト記32:31~32)と願っています。ここで言われている「神が書き記した書」というのが「命の書」という事です。
また、今日、礼拝の中で読みましたダニエル書12章1節の「あの書に記された人々」の「あの書」も「命の書」のことです。
4、キリストによって神に選ばれている
聖書には「神の選び」という言葉がよく出てきます。それは「神の救い」という意味で使われることが多いです。この神の選び、神の救いという事で特に重要なことは、「キリストにおいて選ばれている」(エフェソ1:4)ということです。
私たちは、ある意味、無条件に神に選ばれています。少なくとも神が私たちをお選びになる時、何か条件を付けて選んでいるのではありません。もし神が何か条件を付けたなら、私たちは決して神に選ばれることはありませんし、神に救われることもありません。
しかし、神は一つの条件を付けました。それは、私たちに課された条件ではなく、神がご自身に課した条件です。それがイエス・キリストです。神はキリストによって私たちを救うという事です。主イエス・キリストの十字架と復活によって救うという事です。この十字架と復活のキリストによって神は私たちを選び、必ず救うと決めてくださったのです。
このようなことから宗教改革者カルヴァンは、キリストは「命の書」の役割をしてくださっていると言いました。※カルヴァン説教集「命の登録台帳―エフェソ書1章」
キリストを信じていることは、すでに「命の書」に私たちの名が書き記されているという事です。
5、十字架と復活へと歩みを進めるイエス・キリスト
72人の弟子たちを各地に派遣した主イエスは「『神の国は近づいた』と宣べ伝えよ」とお命じになりました。
最初にも言いましたように、主イエスのエルサレムへの旅の中での出来事です。十字架と復活のための旅です。その途中、弟子たちに「神の国は近づいた」と宣べ伝えさせることにより、すべての人を救うという神の計画の実現の時が迫っていると宣言しておられるのです。
72人の弟子たちの派遣は、主イエスの十字架と復活の前の出来事ですが、キリストによる救いは既に始まっているのです。極端な言い方ですが、旧約の時代、その中で生きている人々も十字架と復活のキリストによって救われているのです。神の救いは、時間の流れの中だけではなく、過去・現在・未来関係なく、時間の外で、すなわち神の永遠の中で働いているからです。
弟子たちが派遣された各地において、「神の国は近づいた」と宣べ伝えさせるというのは、神はこのメッセージを聞くすべての人々に「神はあなたの名を命の書に書き記すと、お決めになっている」と告げ知らせるという事です。
このメッセージをすぐ受け入れた人ばかりではないかもしれません。半信半疑という人も多かったことでしょう。しかし、それでも神はこのメッセージを伝えるために何度も弟子たちを遣わすのです。教会もそのために遣わされています。
まかれた種が鳥に食べられたり、芽が出ても枯れたり、何かに妨げられて成長しないという事があっても、種を蒔く人があきらめることなく種を蒔き続けるように、あきらめることなく神は多くの人々を遣わし、「神の国は近づいた」、「あなたの名を命の書に書き記す」とのメッセージを伝え続けるのです。
「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と弟子たちに語られた言葉は、今、神を礼拝している私たちにも向けられている言葉です。
キリストによって選ばれ、救われていることを心から喜びたいと思います。
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