福音のために愚かになる

7月18日 コリントの信徒への手紙Ⅱ12章11節-13節

約1000年前に別れた信仰の兄弟ロシア正教などの正教会には、瘋癲行者という言葉があります。瘋癲というのは、フーテンの寅さんのフーテン、普通の社会生活や、常識からは外れてしまっている人のことです。トルストイや、ドストエフスキーの小説などを読んでも、この瘋癲行者があちらこちらに顔を出します。

 

襤褸を身にまとい、髪やひげを伸ばしっぱなしにしながら、教会堂の軒下などで野宿しながら過ごす。人里離れた修道院での生活をするのではなくて、町中にいながら、祈ったり、歌ったり、風変わりで、愚かなふるまいをしますから、子どもたちからはよくからかいの対象になるようですが、正教会においては、神の人として、大切にされもするそうです。英語では、ホーリー・フール、聖なる愚か者と訳されます。どんな権力者に対しても、無礼な言葉、愚かなふるまいをしても許されます。

 

愚かさ、愚か者であることを、単なるマイナスとは捉えません。しかし、それは、東方正教会だけの視点ではないと思います。カトリックの信仰に生きた作家、遠藤周作は、「おバカさん」という小説を書きました。そこで描かれている登場人物ガストン・ボナパルトという名前のフランス人青年は、まさにホーリーフール、聖なるおバカさんそのものであります。

 

ナポレオンの子孫と称する馬面のボナパルト青年は、徹底したお人好しで、傷付いた人、挫折した人、周りから打ち捨てられた人を見ると、黙ってその傍らを通り過ぎることができません。どんなに邪険に扱われ、煙たがられ、蔑まれ、笑い者にされても、自分の助けが必要だ、慰めが必要だと思えば、その人に寄り添おうとする。その人が逃げても逃げても、子犬のように後から、後から着いていく。損得を越えて振舞うおバカさんです。

 

実は、このおバカさんには実在のモデルがいると言います。ジョルジュ・ネラン神父という、フランスからやってきた宣教師です。32歳で日本に来て、91歳でこの日本の地で亡くなりました。たいへん優れた教育者で、戦後日本の大学教育で、学生たちに大きな感化を与え続けて来たようです。また、神学者としても、カトリックとプロテスタントの架け橋となる存在として大きな期待を持たれた方でした。

 

しかし、60歳の時、一冊の大きな神学書を書き上げると、教育の現場からも、自分の神学研究の第一線からも退かれました。代わりに、バーテンダーの学校に通い、それから、バーで見習いスタッフとして時給400円で働き、そして、スナックバー「エポパ」という飲み屋を新宿歌舞伎町で始めました。

 

親交のあった遠藤周作は、大きな損失だと強烈に反対したようです。しかし、ネラン神父は、「日本人のサラリーマン男性に宣教したい」と、バーのカウンターに立つことを選びました。愚かな選択です。

 

けれども、イエス・キリストの教会は、このような愚かな選択を尊びます。たとえ、その愚かな選択が、先見の明であったわけでもなく、明らかに、より多くの実りを得ることができる選択をみすみす逃す、自分の無駄遣いに見えるものであったとしても、イエス・キリストの教会は、このような愚かな選択を尊びます。

 

今日の聖書箇所において、使徒パウロも申します。「わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。」単純に、「バカ」と訳せる言葉が使われています。丁寧に言えば、理性が欠けている、合理的でないことを表す言葉が使われています。パウロは、自分は理性に欠けた合理的でないバカになってしまったと言います。

 

その言葉に続いて「あなたがたが無理にそうさせたのです」とあります。この手紙の受取人である、コリント教会の人々が、無理やりに自分を愚か者にしてしまったと言います。

 

これまでのところで、このキリスト教会の歴史上最大の伝道者であると言える、このパウロという人に向かって、コリント教会の人々が、パウロは「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(10:10)という悪口を言っていたことがわかっています。それと同じように、「パウロは愚か者だ」という悪口を言っていた人がいたということでしょうか?

 

そうではありません。パウロが愚か者になってしまったのは、「あなたがたが無理にそうさせた」と言っていますが、前後をよく読んでみれば、結局自分で選んだ道でした。

 

パウロがここで愚か者になってしまったと言うのは、具体的にはどのような状況を言っているのでしょうか?それは、ここまで自分の数々の自慢について数え上げて見せたことです。

 

血筋を誇ること、宣教師としての働きの大きさを誇ること、宗教者としての不思議な神秘体験を誇ること、その一つ一つを、この少し前の所で数え挙げて見せたことを、自分が愚か者になってしまったことだと言っているのです。

 

実は、そこでパウロが数え上げて見せたパウロの長所や取り柄は、パウロがキリストに出会い、そのお方に捕えられててしまった時に、価値を見出せなくなったものでした。イエス・キリストを見出した時、より正確にはイエス・キリストに見出された時、パウロには価値観の大転換が起こり、今まで誇りに思っていた自分の長所や取り柄が、キリストの前にある今は損失としか見えなくなってしまいました。

 

もう少しも価値を見出していない自分の長所や取り柄を、しかし、コリント教会員の前に自慢気に並べなければならなくなったことを、理性の欠けた愚か者になってしまった自分の姿だと言っているのです。

 

なぜ、パウロは、自分では価値のない愚かな誇りだと思っていることをコリント教会の人々の前に披露したのでしょうか?実は、それらを語ることによって、その教会の人々が心酔していた立派な人々の経歴と比べて、自分は少しも引けを取らない者であると語るためでした。

 

自分自身はそこに何の価値も見出さないけれども、君たちが、血筋の良さや、働きの大きさや、神秘体験が大好きで、それが伝道者、宣教者の格付けや箔付けに欠かせないと思い込んでいる。君たちが、そういう人たちから教わりたいと思っているから、あえて数えて見せようということです。

 

自分がそれによって認められたいからではありません。むしろ、それが教会の教えと照らし合わせるとくだらないことだとわかってもらうためです。イエス・キリストの教会にとっては、私たち人間が、価値ありと見なすもの、合理的と思うものが、必ずしも、適切なものさしではないことを思い出してもらいたいのです。その前提、古い思い込みを捨てさせるために、パウロはあえて、コリントの人々がまだ捨てられずにいる古い価値観に沿った自分の長所と取り柄を数えて見せたのです。

そうであるならば、「あなたがたが無理にそうさせたのです」とは、コリント教会に脅されたとか、強制されたとかではなくて、やはりパウロが、あえて自分で選んだことです。

 

実を言えば、コリント教会で働かなければならない必然は、パウロにはほとんどありません。13節に「あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか」とあるように、パウロの宣教師としての生活は、コリント教会によっては少しも支えられておりません。

 

確かにパウロの宣教によって生まれた教会です。しかし、キリストに結ばれて神を信じる者にとって、今はもう無価値なこと、むしろ、マイナスとしか思えないことに、いつまでもしがみつき、いつまでもありがたがっている彼らであるならば、縁を切ったって少しも構わないはずです。

 

もちろん、パウロは何度も何度も引き戻そうとしました。何回も訪問し、何度も手紙を書き送り、何人もの使者を送りました。自分がおなかを痛めて産んだ子供のような教会ですから、関係回復の努力を重ねました。でも、彼らは目を覚ましませんでした。長い間、目がくらんだままでした。それならばもう、縁を切っても少しも構わなかったのです。

 

けれども、パウロは、見捨てませんでした。その人たちをキリストの福音に立ち返らせるために、それを数え始めるならば、自分をキリストから引き離してしまいかねない損失となった過去の誇りをあえて数えることさえするのです。どうしてもわかってもらいたいからです。だから、やはり、パウロが選んだ愚かさなのです。

 

わたしはここには、二つの愚かさがあるのではないかと思います。一つ目は、捨てた誇りを、数えて見せる道化のような愚かさ。これによって教会が自分の愚かさに気付いてくれさえすれば、やがて笑い話になる愚かさです。

 

しかし、もう一つの愚かさが見えています。そして、これこそがパウロの本当の愚かさだと思います。それはコリント教会の異端者たちのことを、どうしても捨てられず、彼らの立ち帰りを求め続けるパウロの愚かさです。彼らから慕われていないのに、もはや、彼らは別の信仰に生きていると言うほどなのに、自らの信念、美学、プライドを括弧に入れてまで、彼らをキリストの元に連れ帰ろうとするパウロの姿です。

 

このようなパウロの姿は、私たちの心を動かす、尊い姿だと言えるでしょう。もしも、私たちにこのように関わってくれる誰かがいるとすれば、それは私たちにとってかけがえのない人だと思うでしょう。

 

対立の渦中にいる内は、鬱陶しくて仕方ないかもしれません。もう、関係を断って、それぞれの価値観と信念に従って、別々の道を歩んで行くことこそ私たちは望むかもしれません。しかし、目が覚めた時には、こういう人のことを、尊くて、かけがえがなくて、しみじみとありがたいと思うことでしょう。

 

けれども、私たちの目が覚めた時、価値のないものを一所懸命に追い求めていた自分の愚かさを笑い、またこの恩人に愚かなものを誇らせてしまった自分を心から恥じるでしょうが、しかし、自分の愚かさに目覚めた時にこそ改めて見えてくる恩人の愚かさについては、いよいよその愚かさ、不合理さが際立つばかりだと言う他ないものだと思います。

 

つまり、なぜ、この人はそこまでして、自分たちの目覚めを求めたのか?自分たちのために使う時間と労力を別の所に振り分けた方が、ずっとずっと有意義ではなかったか?その人の人生の結ぶ実はもっともっと実り豊かになったのではないか?この私を追い求めたことは、愚かで不合理なことではないか?という問いはますます深まるのです。

 

そうかもしれません。きっとそうなのです。そうに違いないのです。パウロのしたことは、合理的でなかったのです。理性に欠けた行為であったのです。効率ということを考えれば、愚かなことであったのです。コリント教会を捨て置いて、スペインにまで伝道に行けば良かったのです。そうすれば、初代教会の伝道はもっともっと広がったに違いないのです。その意味では、パウロは自分を無駄遣いしたのです。しかし、イエス・キリストの使徒、イエス・キリストの教会はそれでいいのです。こういう愚かさに生きるものなのです。

 

あるアメリカのプロテスタント教会の神学者が次のような趣旨のことを言います。私たちアメリカのプロテスタント教会は、この数十年の間、合理的であることばかりを、求めてきてしまったのではないか?世のマーケティングの手法を使いながら、伝道のための効率の良い場所を探し、効率の良いターゲット層を定め、そして、人々のニーズに合った説教ばかりをしてきたのではないか?

 

そしてこう言います。自分たちアメリカの教会は、教会の内側の人々に対しても、宣教の対象の人々に対しても「イエス(・キリスト)とは成功を約束してくださる方だと言って、自分たちの手の中で変えてしまい、まるでイエスは、人々がもっと成功することを望んでおり、そして、成功した人々を集めて自己満足できるようになさる方でもあるかのようにしてしまった。」これはアメリカにはびこる成功主義、成長主義に迎合した福音の変質だと警告します。けれども、それらよりも本当に語らなければならなかったことは、真の神に従うならば、ひどいことになることもあるんだということだったと言います。

 

このようにして、東と西の全キリスト教会がパウロと共に宣言しているのです。キリストのものとされた人々の進む道は、愚かな道を選ぶことがあり得ると。効率や合理的ということ、利益や、得をするということとは、ほど遠い道を、神の使命に従おうとするとき、神に促されて選ぶことが起こり得ると。

 

それが、パウロがコリント教会を追い求め、自分をすり減らすようにして、彼らに関わり続けた道であり、ネラン神父が、アカデミックな世界を捨てて、新宿歌舞伎町に飲み屋を開いたような不合理な歩み、おバカさんの歩みであると思います。しかし、神はこのような愚かさを喜んでくださるのです。

 

きっと私たちはここに至ってもまだなお、どうにも飲み込めない思いというのがあるだろうと思います。そうは言っても、学識あふれる指導者が、教育に、また研究に打ち込み続けたのならば、いよいよキリストの栄光を現すことになるのではないか?長い目で見れば、福音宣教にとって、だから神さまにとっても、マーケティングに基づく、適材適所の合理的選択こそ、結局は伝道のプラスになったのではないか?そうかもしれません。きっとそうでしょう。

 

けれども、キリスト者たちの愚かな選択によってこそ、指させるものがあるのです。しかも、それこそが最も大切なものです。それはイエス・キリストご自身のお姿です。

 

イエス・キリストの福音、「神はその一人子を賜るほどに世を愛された」という福音、神への反逆者を御自身のものとするために、独り子を十字架につけるという全く不合理な福音、自分を十字架につけて殺そうとする人間のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と祈られたキリストの福音、迷わずにいる99匹を残して、たった一匹の迷い出た羊をどこまでも追いかけていくキリストの福音、その不合理なキリストを、私たちの愚かな歩みによってこそ、そっと指し示すのです。

 

わたしたちが神に示され歩む不合理、愚かな道は、「ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」(Ⅰコリント1:23)と呼ばれる十字架につけられたキリストに示されている神の愚かさ、されど神の知恵と呼ばれる福音に適ったものです。

 

もしも、神が合理的なお方であるならば、キリストを十字架に送られることはなかったでしょう。その独り子と引き換えに、御自分の養子とされたのが、我々であるなんて余りにも割に合いません。

 

だから、結局、冒頭で紹介しました遠藤周作の小説のモデルとは、ネラン神父という人でありながら、実は遠藤自身も語るように、結局は、そのネラン神父の愚かな歩みの背後から透けて見えてくる愚かな道を歩まれる生けるイエス・キリストご自身なのです。

 

私たちを見捨てず、私たちと共にいる神となるために、どこまでもどこまでも私たちを追いかけて来られ、私たちのために御自分の命を使い果たすイエス・キリストご自身のことです。この方こそ、真の愚かさに生きてくださった方、御自分の命によって、私たちを死と滅びから買い取られた方。

 

このキリストの途方もない命の無駄遣い、キリストの十字架の愚かさを、聖書は神の憐み、神の愛と呼びます。

 

教会はただこの方を伝えたいのです。この方をご紹介するためにだけ、この世に存在しています。パウロだけではありません。ネラン神父だけではありません。このキリストの愚かさに捕らえられ、燃やされて、この愚かさをほんの微かにでも思い起こさせるキリストのしるしとなって生きるようにと、私たちもホーリー・フールの一人となるようにと神はこの教会に私たちを加えられたのです。

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