神秘体験を誇らない

7月4日コリント信徒への手紙Ⅱ12章1節から7a節まで

 今日の説教題を「神秘体験を誇らない」といたしましたが、説教準備をする中で、もう少し丁寧な題にすれば良かったと思っています。神秘体験を誇らないというよりも、神秘体験があっても思いあがらない、あるいはそれに縋りつかないということが、パウロの真意であったかなと思い直しています。というのは、今日の第1節において、パウロは、「わたしは誇らずにいられません」と、堂々と語り始めているからです。これは、直前までの言葉遣いと比べてみれば、雲泥の差があります。

 パウロは自分の血筋や、精魂込めた奉仕ということに関しては、それを誇るのは、恥ずかしいどころか愚かなことだとはっきりと言っていました。それらを誇るとしたら気が変になってしか誇りようのないことだと、厳しく言っていました。ところが、第12章1節には、「わたしは誇らずにいられません」と語りだします。前の翻訳である口語訳には、「わたしは誇らざるを得ない」と訳されていました。今から語ることは誇らずにはいられないこと、誇らざるを得ないこと、誇る必然があるというのです。

 今まで私の説教を聞き続けてくださった皆さんは、もしも、聖書を開かないで、このパウロの言葉を聞いたならば、これに続く言葉をこう想像されるのではないかと思います。パウロは自分の弱さ以外誇るものはない、その貧しい自分をなお用いてくださる神様以外、誇るものは何もない。そう語りだすのではないか?けれども、直ぐにそう続いていくわけではありませんでした。ここでパウロが、誇らざるを得ない必然性があることとして語りだすこと、それは、「第三の天」あるいは、パラダイスにまで引き上げられ、そこで「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」という神秘体験です。

 第三の天、当時の世界観で言えば、天にもいくつかの階層があると考えられていたようですが、第三の天というのは、天の中でもかなりの深いところです。天が何階層あるかということは、時代によって考え方が変わったようですが、おそらくパウロの理解では、パラダイスと言い換えられているので神のおわします最上階ということでしょう。パウロは、そのような天の最上階に引き上げられて、そこで人間が口にすることが許されず、言い表すことも適わない啓示の言葉を神さまから直接聞かせて頂いたということに関しては、誇る必然性があるというのです。キリスト教会の中では血筋は誇れない、献身的な奉仕も誇れない、それをすれば、愚か者になってしまう。けれども、このような神秘体験に関しては誇る必然性があると、パウロは認めているようです。そうであれば、やはり、「神秘体験を誇らない」という説教題は、訂正が必要だろうと思います。

 しかし、「神秘体験を誇らない」という説教題を思わず私が付けてしまったのは、全く理由がないことでもありません。既に1節の後半にこうあります。「誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。」神秘体験を得たということは誇る必然性のあること、しかし、誇らざるを得ないからそれを誇るとしても、誇る人には何の利益ももたらさないのだということです。つまり、パウロは自分が使徒であり神から遣わされた人間であることをコリント教会の人々に認めてもらいたいと、ずっと語り続けているわけですが、それにしても、たとえ自分の神秘体験を誇っても、それは使徒であることの証拠とはならない、そういうものとしてコリント教会の人々に受け止めてもらってはならないと言っているのです。

 こう聴きながら、既に、「あれっ」と思われている方がいらっしゃるでしょう。果たして、ここは、パウロが自分の神秘体験を語っているところなのか?と。確かに、二節にこうあります。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は、十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。」この言葉を素直に読むならば、第三の天まで引き上げられたという神秘体験をしたという人物は、「キリストに結ばれていた一人の人」であり、パウロはその知人だという書かれ方がされています。自分はそういう体験がないけれど、こんな素晴らしい体験をしている人がいると言っているように思えます。

 しかし、1節の「わたしは誇らずにはおれません」という言葉と、6節の「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を誇るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれない」という言葉を併せて読むと、これはパウロ自身の体験であることがわかるのです。

 けれども、パウロは誇らざるを得ない自分に与えられた特別な神秘体験が、自分が本物の神の使いであることを証明するためのしるしとされることは、絶対に避けたいのです。それは、血筋や能力の高さ、熱心さが、塵あくたのようなものに過ぎないというのとは、また違った意味において、自分に役立つものではない、自分の使徒としての正統性を示すものではないということです。それだから、あたかもこれは自分自身の体験ではないかのように「わたしは、キリストに結びつけられた一人の人を知っています。」という距離を取ったものの言い方をするのではないかと考えられています。それによって、パウロのことを見たり、パウロから話を聞いたりする以上に、パウロを過大評価する人が現れないようにするためです。

 パウロは一所懸命に自分が使徒であることを認めてもらおうと言葉を重ね続けますが、絶対に間違ってはならないのは、それによって、パウロが自分自身のアイデンティティーを確認したいというのではないということです。パウロ自身においては、コリント教会からどう思われようがどうでもいいんです。立派な人だとも、謙遜な人だとも、彼こそが真の使徒だとも、思われたいわけじゃありません。正直言いまして、何で、パウロの使徒性が問題に付されたかというと、おそらく、余りにもパウロが自分のアイデンティティーということに関して無頓着であったからではないかとさえ思います。アイデンティティーというのは、自分で自分を何ものであると思うかということですが、普通は、他人が自分をどう見、どう評価するかによって、自分に対する見方というのは揺らぐものです。

 ところが、パウロは人にどう思われようが関係ありません。だから、コリント教会宛の第1の手紙において、パウロとは何者か(Ⅰコリント3:5)、わたしは弱い、わたしは愚か者だ(Ⅰコリント3:10)、わたしは使徒たちの中でいちばん小さな者で、使徒と呼ばれる値打ちもない者だ(Ⅰコリント15:9)と言い続けたのです。自分は偉大な伝道者なんかじゃない。自分は小さな者だ。弱い者だ。全部神さまのおかげだと言い続けたのです。それが神さまの前での彼のアイデンティティーでした。だから、誰に何を言われても、無頓着、どんどんどんどんコリント教会員から、大した人物じゃないと蔑まれ始めているのに、わたしは、弱くて、貧しくて、使徒と呼ばれる値打ちもないと喜んで言い続けたのです。毎回、飽きもせず申し上げますがそれが福音というものです。私は一生弱いままでも、強い神様が共にいてくださるから、何だってできる。どこにだって飛び込んで行ける。衰弱していても、恐れに取りつかれていても。不安におののいていても、歩けだせなくなってしまうのではなくて、共にいてくださる主のゆえに、何でもさせていただけるのです。それがパウロの姿です。

 しかし、コリント教会は弱いままでは嫌だったのです。信仰において大金持ちの、王様になりたかったのです(Ⅰコリント4:8)。だから、「実際に会ってみると弱々しい人で話もつまらない」(10:10)パウロには、乗り越えられた初歩的な福音を語る使徒未満の使徒というレッテルを張りました。そして、自分たちは、より高次のたくましい福音を語る偉大な使徒たちに付いていこうとしたのです。

 パウロは黙っていることができなくなりました。自分が軽く扱われるようになったからではありません。それはちっとも構わない。愚か者と呼ばれるようになれば、ちょっとは誇れるというような福音のユーモアに生きるパウロですから、自分が軽く扱われることについては、少しも文句はありません。けれども、それによって、パウロの伝えた福音そのものが廃棄されてしまうことはどうしても我慢できませんでした。もちろん、神さまのために、偽りの福音によって、キリストの福音が曲げられてしまうことが我慢ならなかったということでしょう。

 しかしまた、同じほどに、いやそれ以上に彼の愛する神さまの御心を思えば、神の宝であるコリント教会の人々が、偽りの福音によって、その真心と純潔が汚され(11:3)、偽りの福音の奴隷にされ、食い物にされ、取り上げられていること(11:20)を我慢することができないのです。道を踏み外した者に対する、99匹を残してでも、迷子の一匹の羊を追い求めようとするキリストの出来事に現わされた神の燃え上がる憐みのゆえにです。だから、しつこく戦います。うやむやにしません。妥協しません。

 かつてサウロというイスラエルの初代の王さまの名を頂いていたこの人は、キリストに結ばれたとき、神のものとされたとき、神はますますわたしを大きくしてくださった、サウルどころかダビデ王、ソロモン王に注がれていたような神の愛顧を受ける者となったからと、メガロ、ギガロ、あるいはテラロと、改名したのではないのです。パウロ、ラテン語で、「小さい、少ない」という意味を持つ名前に変えたのです。パウロとは、スモール、ミクロということです。でもそれで良いのです。このミクロな者を、メガトン級、ギガトン級、テラトン級に大切にしてくださる方がパウロと私たちの味方だからです。

 パウロはそのようにして、存在すべてで、福音を告げようとします。名前というものは我々のこの時代よりももっと大事な古代社会です。言霊という理解は、日本のみならず、ユダヤ人にも通じる感覚です。名は体を表すのです。名はその人への祝福とも、呪いともなるのです。親は子供に祝福を送るように、大きくなってほしいと願い、たとえば、大助と名づけます。しかし、キリストによって新しく生まれ変わったパウロは自分に小助と名づけたようなものです。しかし、ただの小助ではありません。神が共にいてくださる小助です。神から切り離された小助はおりません。神共にいます小さな者です。名前にまで刻み込んでしまった福音と一つとされたパウロの歩みです。神共なる小助であるパウロが、もしも、恐れるものがあるとすれば、自分が大助になってしまうことです。信仰の金持ちになり、王様になってしまうこと、サウロに逆戻りすることです。

 第11章、第12章のパウロの言葉遣いのややこしさというのは、その心の表れでしょう。「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれ」と言ったかと思えば、「愚か者と思わないでほしい」と言います。また、誇りを数えようとする自分に対して「わたしを愚か者と見なすがよい」と言い、「気が変になったように言いますが」とさえ言います。今日の個所も同じです。「誇ることは無益だが、誇らずにはいられない」と言いながらも、まるで自分ではないかのように「わたしは、キリストに結ばれた一人の人を知っている」と続けます。そして、「誇るまい」、「過大評価されたくない」と自分を大きな存在と思われることから、全力で退いていくのです。コリント教会員にどう思われたってちっとも頓着しない自分のアイデンティティーを、彼は彼の誇りを数えることによって、人と比べて優れているという点を数え上げることによって、むしろ、普通とは逆に揺らいでしまうような感覚に陥っているのではないかとすら思える過剰な言葉遣いです。一目置かれる、抜きんでた大先生だと思ったり、思われたくないのです。不思議なことです。けれども、この線が曖昧になることは、神の御前から再び迷い出てしまうようなことなのです。だから、神秘体験を語りながら、これは自分じゃない。こういう人を知っているのだと語り、思い上がってしまうことを厳しく自戒したのだと思います。

 確かに神がくださる不思議な体験がある。余りにも素晴らしい体験を頂くことがある。けれども、その体験より、自分が他とは違った特別な存在だと思うようになると、道を踏み外して迷い出てしまうことになると。また、自分だけではありません。人がその体験を聞いて、パウロを自分とは違う偉大な者、自分もそうならなければ本物ではないと思わせるならば、それはその人を再び奴隷の身分に陥れてしまうことだと恐れるのです。

 しかし、それならば、何でそんな危険を冒してまで、あえて自慢となってしまうような自分の誇りを数えようとするのでしょうか?コリント教会の人々に目を覚ましてもらいたいからです。誇ることの愚かさに目を覚まし、誇る自分を一緒に笑ってほしいのです。もう一度、真の福音に立ち戻り、何でも一人でできる大助ではなく、神共にいますゆえに、失敗しても挫けても、赦され、助けられて生きていける神の小助に戻ってほしいのです。

 

 自分の神秘体験について「わたしはそのような人を知っています」と距離を取って語るパウロの言葉遣いは、徹底して、自分を偉大な人間だと考えるし、そう評価されたい自己愛、自己義認から自由になるための必然であります。

 しかしまた、この言葉遣いは、単なる自分への戒め以上に、もっと根本的な福音がもたらす利益があると数える人もいます。それは、今まで申し上げたことを全く否定することではありません。むしろ、いよいよ徹底してそれを語っているとも言えます。すなわち、ある説教者はパウロがここで、まるで他人事のように自分の神秘体験を語ることは、福音は、私を私から自由にするものだからだという趣旨のことを言います。その言葉から知られるパウロの頂いた神秘体験は、思い上がらないようにという自分への戒めを越えて、その内容においても、自分自身へのまなざしから解放されていくものであったろうというのです。

 つまり、パウロは、「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。」というエクスタシーの経験であったと語っています。エクスタシーというのは、エクスタシスというギリシア語の本来の意味において、自分から出て行ってしまうこと、自分を越えてしまうことです。エクスタシーとは、我を忘れてしまうことです。自分は大きい者か、小さい者か、自分は救われるか、救われないか、そういう自分へのこだわりから、解き放たれてしまって、我を忘れたイエス・キリストとの結びつきに生きる。キリストの中に生かされる。その意味では、大きかろうが、小さかろうが、自分を問うことから、自由にされるのです。「わたしはそのような人を知っています」という言葉遣いは、パウロの神秘体験が、神によって自分を抜け出た、自分へのこだわりを捨てさせられた出来事であったことを現わしていると考えられるのです。

 パラダイスにまで引き上げられるような体験が、このような自分へのこだわりから解き放たれて、キリストとの結びつきの中に生きる体験であるならば、やはり、このことだけは誇れるのです。この神秘体験を誇ることは愚かなことではないのです。それは、我を忘れて神を誇ることだからです。

 けれども、もちろん、このような神秘体験は誰もに与えられることではありません。しかし、それならば、このパウロの体験は私たちにとっては関係のない話なのでしょうか?そうではないでしょう。なぜならば、生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのですとの我を忘れたキリストの命に生かされるというのは、パウロだけの特別な告白ではなくて、私たちすべてのキリスト者のとても基本的な告白だからです。

 今日これから、久しぶりに聖餐を祝います。この聖餐がまさにこの命に生きることであり、この告白に生きることです。この聖餐の食卓に与るとき、私たちは自分から出て行くのです。自分を生かしているのは、自分自身だという思い込みから出て行くのです。自分の命は自分のものだという思い込みから出て行くのです。杯とパンに与るとき、わたしの命を生かしているのはキリストの十字架、いいえ、キリストが私の代わりに私を生きてくださるのだと告白するのです。特別な神秘体験に縋らなければ、信じ、告白できないことではないのです。自分はどんな体験をしていても、これは聖餐の語る十字架という躓きと愚かさの中でこそ現実となったキリストと私たちの結びつきだからです。

 

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神様、私たちの命は、既に、御子と共にあなたの御手の内に隠されています。私たちの命は私たちの手の内にはなく、私たちは私たちの中心を、あなたに置くものとされました。そのような私たちが、自己愛と、自己義認に生きることは、矛盾でしかありません。そこに私たちの命はないからです。もはや、名実ともに空っぽになった私たちをあなたは、御子の命で満たしてくださいます。だから、私たちは、この身において自分を重んじるのではなく、御子を重んじます。洗礼と聖餐、御言葉に生かされながら、生きているのはもはや私たちではなく、キリストが私において生きてくださっていると今日も告白いたします。このように私たちを生き、生かしてくださるあなたにふさわしく、もう一度、今ここで自分の一切をあなたにお献げすることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

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