神への感謝に至る施し

コリントの信徒への手紙Ⅱ9章13節~15節

第8章から続いてきた「施し」の勧めです。既に第9章の冒頭で、パウロが「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。」と語るように、聴くべきことは聴き尽くしたという思いが私もしています。今日司式者が呼んでくださった部分も、先週聴いたこととほとんど同じことの繰り返しであると思います。私たちの施しが神の栄光を現すものとなるように。これは、第8章からずっと語られていたことです。もう語る必要のないことです。

 ところが、パウロ自身は、「これ以上書く必要はありません」と語りながら、書き続けました。既に語りきったと自覚していることを、書き続けました。何でかなと思います。不思議なことです。

 しかし、考えてみれば、教会の言葉というのは、いつでもそういうものであるようにも思います。日曜日毎にここに集まり、聴く言葉は、多くの人にとって初めて聞く言葉ではありません。もちろん、同じ聖書箇所を説教する時にも、昔の説教を引っ張り出して、それをそのまま読むわけではありません。牧師は改めて、最初から説教準備をします。その意味では、重なる部分があったとしても、一言一句同じ言葉ではないということから言えば、実際には新しい言葉だとも言えます。

 また、日曜毎に集まりここで聴く言葉は、多くの人にとって初めて聞くことではないと言っても、聖書は分厚い書物ですから、同じ個所を二回目、三回目聴いたからと言って、忘れてしまっていれば、新鮮に響くということもあるでしょう。

 けれども、それでも、日曜日ごとに語られる福音の言葉というのは、どんな珍しい聖書箇所からの説教であったとしても、本質的には、同じことが語られ、聴かれるものだと思います。

 なぜならば、聖書はこんなにも分厚い書物ですが、語ろうとしていることはたった一つのことだからです。それは、イエス・キリストをご紹介する言葉です。

 ヨハネによる福音書5:39で、主イエスご自身がこう仰いました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

 この主の御言葉の興味深いところは、主がここで仰っている聖書とは、そもそも旧約聖書のことであるということです。創造物語や、ユダヤ人の歴史や、法律、どう生きるべきかという神よりの言葉、律法が記されたような旧約聖書が、本当に語ろうとしていることは、「わたしについてだ」と、イエスさまが仰ることです。

 本当に驚くべきことですが、初代教会の人々にとっては、聖書と言えば、旧約聖書しかありませんでした。その旧約の言葉を聴きながら、イエス・キリストの福音を聞いたのです。もっと正確に言うと、旧約を説く言葉を聴きながら、生けるイエスさまの姿に出会ったのです。不思議なことですが、そうなのです。

 それは、聖書を一字一句丁寧に調べて行けば、そう読めるようになるというのではないと思います。聖書がイエスさまについて語る書物だというのは、律法学者が、この中に命があると血眼になって、聖書の一字一句を命の言葉、真理の言葉として、重んじて、これに従って生きようとしたのとは違うと思います。そういう風に、律法学者、ファリサイ派の人々よりも厳しく、聖書の一字一句に密着し、重んじて行った先に、旧約聖書からもイエス・キリストのお姿が浮かび上がってくるというのではないと思います。

 ある人は、聖書は紙の教皇、ペーパーポープではないと言いました。聖書は、一字一句誤りのない人生の指南書ではありません。それは限界のある人間の言葉を用いて、生ける神さまを証言しようとする書物です。その書物が誤りのない神の言葉だというのは、数学の正しい計算式と同じ意味ではありません。

 その証言の言葉、呼びかけの言葉に促されて思わず顔を上げたら、その指さす先に、生ける神さま、イエスさまのお姿を見つける。イエスさまと目が合うという意味において、間違いのない言葉なのです。

 

 今日の個所というのは、本当にそういう個所だなあと私には思われます。語るべきことはもう語り尽くされています。伝えるべき内容という点においては、もうこれ以上、言葉を重ねる必要はありません。それなのにパウロは同じような言葉を重ねていきます。色々な言葉で言い換えてみて、よくわかってもらおうとしているということもあるでしょう。私たちはしっかり理解した後も、今までの心の癖によって、いつの間にか、元の古い理解に戻ってしまうことがあるので、理解していることでも、耳にタコができるほどに繰り返し繰り返し聞かなければならないということもあるでしょう。

 でも、今日の所を最後まで読んでいくと、今、挙げたような、私たち自身の救いのためとか、聖い生活を作るための必要を越えている言葉であることに気付かされます。知識の伝達や、やる気を起こさせるという点では、もう必要のない余分な言葉です。

 けれども、なぜ、言葉をなお重ねているかと言えば、15節を聞けばわかります。

 「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」

 ここまでパウロはコリント教会の人々に向かって、語りかけていたようですが、それだけじゃありませんでした。神さまに向かって語りかけていました。どこからどこまでというのはよくわかりません。どこまでがコリント教会の人々に向かってで、どこからが神様に向かってかはよくわかりません。既に、9:1で、「もう書く必要はない」と言ってますから、そこから先は神さまへの語りかけだと言えるかもしれませんが、内容を見れば、やはり、コリント教会員に向かって語っています。

 ところが、その言葉が、15節では、神さまへの感謝の言葉に行きついてしまう。別の翻訳では、これが、賛美の言葉であることがよくわかります。

 「言い表し難い〔ほどの〕神の賜物にゆえに、神に感謝あれ。」(岩波訳)

 原文では、冒頭に「感謝、神に」となっています。まさに、言葉を重ねて同じことを何度も何度も語りながら、語っても語っても語り尽くせない神さまの賜物に思わず、感謝!!と、しみじみと言ってしまったパウロの姿が、見えてくるようです。

 そして、必要を越えている、破格であるパウロの言葉から透けて見えるパウロの心打たれている姿を通して、その姿を越えて、同じように溢れる恵みを携えて私たちの目の前に迫っていてくださる生ける神さまのお姿を見させていただいているのです。

 確かに第8章も、第9章も、私たちがささげる施し、私たちキリスト者の隣人への奉仕が、どういうものであるかを、具体的に教えてくれる知恵の言葉、教訓の言葉に溢れたパウロの教えの言葉が記されている個所です。

 これまでの所には、強制されてではなく、自発的に勧んでやりなさいとか、惜しまずやりなさいとか、喜んで与えなさいとか、神さまに対する感謝を引き起こすような捧げ方、神さまの栄光に仕えるような捧げ方をしなさい、今日の所では、「キリストの福音を従順に公言する」ような捧げ方をしなさいという実際的な勧めが語られていました。とても大切な施しや奉仕の心構えを語っているわけです。結局、献身ということが土台となっている心構えですから、厳しいと言えば厳しい教訓です。しかし、淡々と規則を教えるように語られた言葉ではないのです。

 6節後半に「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とか、7節後半に「喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」とかいう言葉を聴くと、これをすれば、これが貰えるというような律法主義的な言葉が語られているようですが、そんなものではありません。「言い表し難い〔ほどの〕神の賜物にゆえに、神に感謝あれ。」という言葉に至りつくような、およそ教科書とか、法律文書とは違う、その証しの言葉の性質を弁えれば、よくわかってきます。

 「ほら、ほら、見て、見て、あの生けるお方を。あのまなざしを。イエスさまの姿を。ああ、たくさんの贈り物をくださったこのお方に、どうこの喜びを伝えればいいのだろうね?どうこの感謝をお届けすればいいのだろうね?この身を献げても足りやしないね。」

 そういう言葉なんだなと思います。神様の方を向いて、神さまの恵み、イエスさまの御臨在に圧倒されながら、その言い尽くせない感謝の言葉が、仲間の方を向くときに、こういう証しの言葉になるんだなって思います。「この言葉とこの身を持って、全身全霊で、福音を証しする以外には我々にはないじゃないか」って。

 ある人が信仰とはコミットメントであると言いました。わかりやすく言い換えるならば、体を張って、生きるということです。具体的なことです。信仰に生きる者は、生活が変わります。13節に「この奉仕の業が実際に行われた結果」とあります。信仰は実を結ぶのです。

 しかし、同時に、ここは、「この奉仕の業が本物であることを通して」という風にも訳せます。そうなると、この奉仕が実際行われたということ以上に、それが本物であるかどうかが、問われます。その奉仕が、信仰から生まれたものであるかどうか、神への感謝の応答であるかどうか。信仰は実を結びますが、実を結んでいるから、信仰があるとは言えません。つまり、生活を変えれば、わたしは信仰に生きているとは言えません。逆は成り立たないのです。

 なぜならば、大切なことは、コミットメントを起こさずにはおれないような出会いだからです。生ける神と出会うということだからです。生ける神と出会うならば、私たちは体を張って信仰に生きるようになるのです。

 そのような奉仕は、その奉仕自体が、「キリストの福音を従順に公言する」信仰告白の行為であるとも言えますが、私たちの信仰告白が実を結んだ姿であるとも言えます。

 たとえば、使徒信条は、私たちの具体的な生活についていちいち語るわけではありません。ひたすら、三位一体の神様の恵みの業を証しします。けれども、その神さまの恵みの業を、じっくり味わえば、自ずとふさわしい実を結ぶのです。だから大切なことは、使徒信条を感激しながら告白するような生ける神さまとの出会いが与えられることです。

 聖書は生けるお方との出会いを促すものです。生けるイエス・キリストを指し示すものです。文字を超えて、その方に出会うのです。

 パウロの指が神なのではなく、パウロが指さすその先にいらっしゃる神が、私たちの目の前に来てくださっている。そして、「このわたしこそが、あなたへの贈り物、あなたがたへの恵みとして、生きているのだ」と身を屈め、今、私たちに語りかけておられるのです。

 このことに気付かされた時は、全身全霊をもってただ神に感謝あるのみです。

 

 

 

祈り

主イエス・キリストの父なる神様、かつて、忙しく立ち働くマルタに、「必要なことは多くはない。ただ一つだけである」と御子を通して、お語りになったあなたです。お喋りすらやめて、御言葉の元に留まるように、仰せになるあなたです。今、多くの活動が休止されています。この時こそ、もう一度静まって、あなたの神であられることを、聴き直すことができますように。信仰の確かさを求めて不安に駆り立てられるような行為ではなく、ただひたすら、感謝の応答としての業がこの手に与えられることを待つことができますように。私たちを愛し、また私たちの愛をおのずと呼び起こしてくださるイエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

 

 

 

 

 

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