1月12日(日)主日礼拝 出エジプト記12章2節~8節 マルコによる福音書9章2節~8節 松原 望 牧師
聖書
出エジプト記12章2~8節
2 「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。3 イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。4 もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。5 その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。6 それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、7 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。8 そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
マルコによる福音書9章2~8節
2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
「 説教 」
序、
先週の礼拝では、マルコ福音書の冒頭にある「神の子イエス・キリストの福音の初め」と主イエスが伝道を開始された時の言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉をとりあげました。
このままマルコ福音書の流れに従って読んでいくと良いと思いますが、4月20日(日)の主イエスの復活日に焦点を合わせて、マルコ福音書の後半部分から何か所かを取り上げる形で読んでいきたいと思います。
昨年4月からの礼拝では、旧約聖書の中から、神がすべての人を救うための計画をたて、様々な準備をしておられたことを見てきました。そして、その準備が整い、ついに神はその独り子である主イエスを地上に遣わされことをクリスマスの礼拝で見てきました。
1月からは、地上に遣わされた神の独り子が全ての人々を救うために十字架への道を歩まれる姿を、見ていこうと思います。と言いましても、マルコ福音書を丁寧に見て行こうとしますと、何年もかかりますので、4月までの数か月で、主要な部分を取り上げることにします。そのために、マルコ福音書9章以降を扱います。
マルコ福音書は1章から8章までの前半と9章から最後までの後半に分けることができます。
前半は、ガリラヤ湖周辺での活動が記されており、後半はガリラヤを離れてエルサレムの町での活動が中心になっています。この前半と後半の境目にあたる出来事が、主イエスが弟子たちに語られたご自身の受難と復活の予告(8章)と山上で主イエスの姿が光り輝き、神の独り子としての栄光があらわされたという出来事です。
1、山上の変貌
今日のマルコ福音書9章2節から8節までは、「山上の変貌」と呼ばれています。主イエスが光り輝く姿に変わったということからそのように呼ばれています。
場所は「高い山」とあるだけで具体的にはわかりませんが、おそらくパレスチナの北にあるヘルモン山(約2,800m)だと思われます。
主イエスは12人の弟子たちを連れてこの山のふもとに来ましたが、9人を残し、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて山に登られました。
すると、主イエスの体が光り輝きました。神の子の栄光が現れたということです。それまでは、神の子の栄光を隠しておられましたが、この時に神の子としての真の姿を現したということです。
2、神の子としての働き
この時まで、主イエスは神の子としての真の姿を隠しておられましたが、神の子としての働きを全くしていなかったというわけではありません。
人々に教え、悪霊を追い出し、癒しを行い、そのほかにも奇跡を行い、神の子としての働きをしてこられました。その一つ一つは重要なことでしたが、神が主イエスを地上に遣わされたのは、もっと重要なことのためでした。それが、多くの人々の罪の贖いとして十字架にかかるということでした。
この罪の贖いこそ、他の誰にもなしえないことだったのです。
罪の贖いについては、旧約聖書の時代から動物をささげることによって行われていました。しかし、それは真の罪の贖いとなる主イエスがこの地上に来られるまでのことでした。動物をささげることによって行われてきた罪の贖いは不完全であったため、繰り返し行われなければなりませんでした。しかし、完全な罪の贖いが行われ、贖いの犠牲を繰り返す必要をなくす。これが神の御計画でした。
完全な罪の贖いが行われるということは、神の完全な赦しが与えられるということです。預言者エレミヤはこのような神の完全な赦しについて「私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」(エレミヤ31:34)という神の御言葉を伝えています。
このような神の完全な罪の赦し、そのための完全な罪の贖いをすることこそ、地上における神の子としての最大の、そして最重要な使命であるとして、主イエスは行動していくのです。
3、主イエスが神の子としての栄光に輝く
今まで隠しておられた神の子としての真の姿を、なぜ、この時に現したのでしょうか。その理由は記されていませんが、おそらく、主イエスに従っている弟子たちのためでしょう。
主イエスがこれまで行ってきた多くの教えや奇跡を、弟子たちは見てきました。その姿に、自分たちが期待していたメシアの姿を重ね合わせていたことでしょう。しかし、その弟子たちの期待は、すでに神の計画から離れていることが明らかになってきています。それが、ペトロの告白と主イエスの受難の予告です。
マルコ福音書8章でペトロが主イエスに「あなたはメシアです」と告白したことが記されています。彼の告白の言葉は間違ってはいません。確かに主イエスはメシア(キリスト)です。しかし、その告白をしたペトロは心に何を期待していたのでしょうか。きっと、これまでの主イエスの数々の教えや奇跡、癒しの業によって多くの人々を集め、新たな王国を建設する王をイメージしていたのではないでしょうか。少なくとも、多くの人々の罪の贖いのために十字架にかかるといういわゆる「苦難の僕」の姿ではありません。ですから、ペトロの告白の直後に、主イエスはこれから起きる受難と復活の予告をしたのです。それを聞いたペトロは「とんでもないことだ。そんなことはあってはならない」と主イエスをいさめました。そのようなペトロを、主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りました。
主イエスはペトロがサタンのように邪悪だと言っているのではありません。また、「引き下がれ」というのは、「私の後ろへ行け」、すなわち「私に従え」という意味で、決してどこかへ行ってしまえということではありません。
主イエスは、ペトロやその他の弟子たちに、メシア(キリスト)として、神の独り子としての使命を伝えなければならないと考えておられました。だからこそ、ご自身の受難と復活を予告したのです。そして、次に必要なことが主イエスの受難と復活が神から与えられている使命であることを悟らせるということでした。
4、モーセとエリヤの出現と天から響く神の声
4:1
主イエスが光り輝く姿に変わった時、エリヤがモーセと共に現れました。ルカ福音書はこの時の様子について「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31) と記しています。ここでの「最後」は主イエスの受難のことを指していますが、もう一つの意味が込められています。
「最後」という言葉は新約聖書の言葉ギリシア語ではエクソドスという言葉ですが、これには「脱出」という意味もあります。実際、旧約聖書の「出エジプト記」は英語の聖書ではエクソダスとなっており、ギリシア語のエクソドスから来ています。ここから主イエスの「最後」とは、主イエスによる新しい「出エジプト」がはじまるという象徴的な意味もあるのです。
旧約聖書に記されているエジプト脱出は、過越しという祭りとして記念されるようになりました。そして、この記念の日に、新しい「脱出」が開始されることを暗示しているのです。
主イエスがエルサレムで受ける苦難は、単に主イエスの苦しみと死を意味するだけではなく、すべての人々が主イエスに導かれる新しい脱出、罪と絶望からの脱出となることをも示しているのです。モーセとエリヤはそれを告げるために現れたというのです。
4:2
主イエスの光輝く姿と、そこに現れたモーセとエリヤを見て驚いたペトロは、思わず「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と叫びました。
ペトロが考えたことは、モーセとエリヤが現れたこの場所は聖なる場所として多くの人々が集まってくるに違いない。ここに仮の建物を建て、後の巡礼地の礎を建てようということでした。つまり、「ここにとどまるべきだ」ということです。
そのとき、雲が彼らを覆い、天から声がしました。
「これはわたしの愛する子。これに聞け」。
主イエスを神の独り子だと宣言する言葉です。これと同じ言葉がマルコ福音書1章11節にも出てきました。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、天から響いてきた神の言葉です。
主イエスを神の独り子だとの宣言であると同時に、「これに聞け」という言葉が響き渡りました。これは弟子たちに向かって語られた言葉で、主イエスに従えという意味です。主イエスが受難の予告をした時、ペトロに言った「引き下がれ」、すなわち「私に従え」と、同じことが言われたのです。
これは、単にペトロを叱ったというのではなく、ここにとどまることは神の御心ではない。むしろエルサレムに行くことこそ、御心であり、主イエスの神の独り子としての使命だと宣言しているのです。
5、山上の変貌の出来事以降の主イエスの歩み
主イエスが光り輝く姿に変わり、神の子の真の栄光の姿をあらわしたことにより、弟子たちにそれを理解させ、さらに、主イエスがそのための歩みをここから始めるということを示したのです。
時は迫っています。エルサレムに行くのは、旧約のエジプト脱出を記念する過越しの祭りを祝うためであり、この過越しの祭りの時こそ、神が定めておられる主イエスが十字架にかかるべき時なのです。
マルコ福音書は、主イエスと弟子たちが山を下りた後、地名をあげて、エルサレムへと進んでいかれたことを記しています。かつて、ガリラヤ伝道の拠点としていたカファルナウムの町にも立ち寄りますが、そこはもはや留まるべきところではなく、エルサレムに向かう通過点でしかありません。主イエスの目はエルサレムの方へとむけられています。その時の様子をマルコ福音書は「イエスは先頭に立って進んで行かれた。弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(マルコ10:32)と記し、再びエルサレムでの受難と復活を告げたとしています。
6、
山上の変貌の場面に戻りましょう。
ペトロたちは、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9・7)という言葉を聞いた後、「急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、彼らと一緒におられた。」(マルコ9・8) と記しています。何気ない一言ですけれども、この言葉は非常に大切です。律法の授与者であるモーセ、また偉大な預言者エリヤ、彼らの時はもう既に過ぎ去ったのです。今、私たちにとって大切な方は、主イエスだけであるということです。この主イエスだけが私たちと共にいてくださるのであり、私たちもこの主イエスから離れてはいけないということを、象徴的に表しているのです。「神我らと共にいます」(マタイ1・23)ということは、まさにここにも表されているのです。
山上の変貌の後、主イエスと弟子たちの新たな旅が始まります。エルサレムへ向かう旅です。そのエルサレムで、主イエスの十字架と復活が起こりますが、これは終わりであると同時に、新しい始まりでもあります。
旧約のエジプト脱出は、脱出で終わってはおらず、神が約束してくださった「乳と蜜の流れる地」への出発でした。それと同じように、主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちを罪から脱出させ、そして旅を続けさせます。しかし、それは目的のない旅ではありません。私たちの旅の目的地は神の都です。その旅を先導する方が、主イエス・キリストなのです。
旧約の時代、神の民を先導したのは、神から遣わされたモーセでした。しかし、今、私たちを罪より救い出し、神の都へと導いてくださっているのは、神の独り子イエス・キリストなのです。このキリストと共に神の都へと旅を続けていくのが私たちキリスト者なのです。
「これはわたしの愛する子である。これに聞け」(マルコ9・7)。
この言葉は、ペトロたちにだけでなく、今、ここでキリストと共に歩みを続ける私たちにも語りかけられている言葉です。
「キリストに聞き従い、キリストと共に神の都に入りなさい」。
これが、私たちを招いておられる神の御言葉です。
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