神の恵みのもとに

10月4日 コリントの信徒への手紙二1章12節から14節

私たちが読み始めたコリントの信徒への第Ⅱの手紙には、他の新約文書の中ではあまり使われていない特徴的な言葉がいくつも出て参ります。これは、それだけ、パウロとコリント教会の間に生じた個別の問題、コリント教会の具体的な課題に集中しているからだと思います。この地上に、この歴史の中に、形作られた目の前にあるコリント教会というキリストの体を、神にお献げし直すために、その教会ならではの成長の課題から目を逸らさずに、使徒パウロががっぷり四つに組んで真剣勝負をしている姿が浮かび上がってきます。

 今日司式者に読んで頂いた短い3節の部分にも、コリント教会宛の手紙ならではの、その教会の特別の課題に焦点の合った言葉が語られていると思います。パウロはここで、自分の「誇り」について語り出します。この「誇り」という言葉、今日の短い箇所で、3回言及されています。

 「誇り」とか、「誇る」とかいう言葉、名詞の形、または動詞の形で、新約聖書中、71回登場いたします。そしてこれは、印象的なことですが、この「誇り」という言葉、コリント宛の二つの手紙に合わせて45回、実に新約27巻中の60パーセント以上が使われます。

 この「誇り」という言葉こそが、コリント教会の成長の課題、コリントのキリスト者たちが、まだ十分な理解に至ってはいない福音の深みに関係する言葉であります。

 誇りという言葉には、二つの側面があると思います。肯定的な面と、否定的な面。特に、これを英語で、プライドと言うと、さらにそのことがはっきりしてくると思います。一方では、誇りというのは、私たち人間が生きていく上で、欠かせない感情であると思います。誇りは、尊厳を意味しますから、誇りを持つことは、人間が生きていくために欠かせないことであると思います。気落ちしている人、自分のことを大切に思えない人には、誇りを持って生きなさいと、励ます言葉にもなります。

 けれども、誇りはなくてはならないものであると思う一方で、あの人はプライドが高すぎて付き合いにくいだとか、そんなプライドは捨てた方が良いなどと、ネガティブに働くことがあるものだという側面もあります。私たちが尊厳のある人間として生きていくためには、誇りがとても大切だという反面、自分のプライドのせいで、人とうまく生きていくことができない、人と真実に向き合うことができないということもあります。

 しかも、ここで問題となっているのは、信仰者のプライドです。神の御前にある私たちの良心が、神さまに対しても、だから当然、人に対しても、誇ることのできる誇りです。私たちが神の御前に恥じ入ることがなく誇れる誇りですから、とんでもない誇りです。ものすごいプライドです。そして、パウロは、そのような誇り、プライドを持てないとは言わないのです。自分自身はまさにその誇りに生きているというのです。「私は自分自身の良心においても証しする。私は嘘をついていない。私は神の御前に、だから当然、あなたたちの前に誇ることのできるものがある」と、思いきり胸を張るのです。

 このような言葉を読みながら、ある人は、パウロという人は、何て傲慢なのだろうと言います。良心に恥じることなく、神の前で、世の中に対する自分の振る舞い、とりわけコリント教会の人々に対する自分の言動を、誠実な者だと誇ることができる。「私は、誠実な人間ですよ」と、自己推薦をすることができる。傲慢と言えば傲慢です。

 しかし、パウロの血の滲むような伝道の働きを知る私たちにとっては、100歩譲ってパウロならでは、パウロだけは、少し興奮して筆が進んでしまうときには、こういうことも書くこと、語ることが許される言葉だなと、納得できる部分もあるかもしれません。

 それにしても、謙遜であるとはとても言えないことだと思います。私たちが普通思い描くキリスト者らしい言葉ではないと思うかもしれません。まるで、コリント教会に対して、一生懸命に自分の誠実さをアピールして、気持ちを向けさえようという必死のアピールに見えるかもしれません。

 この「誇り」という言葉は、コリント教会に宛てた手紙の中では、多用されている言葉だと申しました。パウロが自分の誇るべきことについて度々語らなければならなかった。キリスト者の「プライド」を問題とせざるを得なかった。時には、自己推薦と思われる危険を冒してでも、自分の「誇り」についてどうしても語らなければならないと思った。

 それは、この手紙を読み進めて行けば、明らかになっていくことですが、コリント教会のキリスト者達が、自信を失った弱々しい信仰に生きていたからではなく、むしろ逆で、自信満々に生きていた信仰者たちであったからです。パウロだけじゃない。コリント教会の人たちが、誇りを持っていたのです。プライドを持っていたのです。

 しかし、それは問題のある誇りでした。コリント教会の人々にとっては、キリストの福音に生きる者が当然、身に付けていくはずのプライドと思い込んでいるものでしたが、パウロは、キリストの福音から逸れたプライドであると見抜いていました。

 パウロはキリストの福音に対するその誤解を解くように一所懸命に、第1の手紙でも語り続けました。得意になったり、自分を一段高い人間と見做したり、それで仲違いが起きている。人と生きていく事が困難になっている。福音の命を呼吸することを阻害している。そんな間違った信仰のプライドをコリント教会のキリスト者たちが捨てることができるように、パウロは、第1の手紙で、自分の低さ、貧しさを語りました。自分なんて何者か?派閥のリーダーになるような存在ですらない。口下手、挙動不審、月足らずで生まれたような私、使徒たちの中でもいちばん小さな者、使徒と呼ばれる値打ちのない者。ただ神にのみ栄光あれ。

 ところが、このようなパウロの語り方は、コリント教会のキリスト者たちをさらに誤解させ、増長させました。パウロは自分で言っている通り、本物の使徒の露払いに過ぎない。彼は、キリストの福音の一部を告げただけ。キリストの福音の本当の深み、本当の味わいは、「自分は小さな者だ、使徒と呼ばれる値打ちもない」と自分でも言っているパウロのようなネガティブな人間が教えられるものではないのだ。「自分こそは、キリストによって立てられた大使徒だ」と言っているあのポジティブな教師、パウロの次に来たあの教師、異言、預言、異言を解く力、神の霊の生き生きとした賜物を強調して教えてくれたあの大使徒と自分のことを語ることのできる者こそが本物だ。そう言って、コリント教会のキリスト者たちは、「パウロは初心者のための間に合わせの使徒である」と言って、パウロを卒業できると信じたのです。

 私たちの読み始めたコリントの信徒への手紙Ⅱは、こうして、軽んじられ、問題となってしまったパウロの使徒職の弁明の手紙です。この手紙の中に、「誇り」という言葉がたくさん出て来るのは、パウロが自分の使徒としての正当性を弁明しようという文脈を中心にして語られていきます。それも文脈によって多義的で、今日の個所のように、堂々と胸を張って「私の誇りはこれである」と語る箇所もあれば、「こんなことを誇るのはたいへん恥ずかしいこと、人間的なこと、だから我慢して聞いてほしいけれど」と、恐縮しながら、自分の誇るべきことについて語っている部分があります。

 私が説教者としてひとつ興味を持って、この手紙を読むのは、この手紙においては、先の第1の手紙で語った仕方のままで、自分の誇りを語ることはしていないということです。第1の手紙の方では、誇りというのは、基本的には否定的なものとして語られていました。誇ってはならない。誇るのはよくない。アポロという教師を一方に、パウロをまた逆の一方に担ぎ上げようとする派閥抗争が起きた時には、自分が貧しく空しい者であることを語り続けました。誇りを手放すようにと。ところが、第2の手紙では、このまだ冒頭の部分において、自分の「誇り」を積極的に語り出しているのです。私は、パウロの語調の変化にとても興味があります。

 自分の語る言葉が通じない、誤解されていると思ったら、語調を変えて語り出す。自分が捨てるべきだと思っていても、何度話してもどうしても理解されないならば、コリント教会の人々が手放すことができない、むしろ、積極的な意味を見出している、「誇り」という言葉を受け入れて、福音を語り直そうとする。そういう通じ合うための努力を惜しまないパウロの姿に興味があります。それは、自分がコリント教会と険悪であり続けるのは寝覚めが悪いからではありません。

 今も既に、「誇り」という言葉を用いての福音の語り直しであると申しました。パウロが、コリント教会に何通も手紙を書き送り、自分の使徒職について弁明し、誤解を解こうとするのは、自分が悪く思われたくないからではありません。パウロを誤解するとき、パウロの伝えた福音を誤解することになるからです。

 パウロは植え、アポロは水を注ぐ。しかし、成長させてくださるのは神であると語るパウロは、自分が乗り越えられていくこと、もっともっと神の福音が、輝いていくことを望んだことは間違いないでしょう。しかし、コリント教会の人々が為そうとしているパウロの乗り越え方、あるいは、更に福音理解を深めて行こうと進もうとした方向は、許容することのできない福音の改造であったのです。だから、「私には神さまの前に出ても、良心に誓って誇るものがある」と胸を張るパウロの姿に、何て傲慢なんだろうと言った人があると言いましたが、それは、それこそパウロを誤解することなのです。パウロはパウロという使徒のあり方を語ること、彼の使徒であるのは何によるのかということを語ること、それがそのまま福音を語ることであったのです。

 キリストの福音というものは、その意味では、コリント教会の人たちも、確かにそう理解していたように、私たちの存在そのものに深く食い込んだ出来事であります。キリストの福音を語ることは、私の誇りについて語ることです。

 しかし、その誇りは、自分の徹底的な貧しさ、無力を語るパウロが、誇る誇りです。そのパウロの誇りとなっていること、それは、具体的には12節の「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。」ということです。これが、パウロの良心が恥じることのないパウロたちの誇りです。

 この世の中に対して、とりわけコリント教会の人々に対して、自分は、神から受けた、神からいただいた、純真と誠実によって行動してきた。それがパウロの誇りです。私たちはここを読んでそんなに難しさを感じないかもしれません。パウロの言っていることは、よくわかると思うかもしれません。

 けれども、本当にそうでしょうか?多分、私たちはここで、パウロは、コリント教会の人々に対して、自分は誠実に接してきた。その思いは、神に誓って、嘘偽りがないと、言っているのだと理解していると思います。

 信仰のない者であれば、私があなたがたに対して抱く真心は本物ですよというところを、信仰者らしく、信仰のない者からすれば、少し大げさに、わざわざ神を呼び出して、自分の誠実を誓っているように聞こえます。それだけ、自分が良い人間であることに自信がある。誇りがある。プライドがある。

 でも、それは、自分は、使徒として、信仰者として、どんなに困難にあっても、乗り越える自信があるということではないと思います。コリント教会のような扱いにくい教会に対しても、上手く対処する伝道者としての自信があるということではないと思います。

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 ここで使われる「純真」という言葉は、「聖さ」とも訳し得る言葉が使われています。神の「聖さ」のことです。「誠実」という言葉も面白い言葉です。「太陽」という意味の言葉が入っています。ある人は、これを説明して、「太陽の光に堪えうるような真実」と説明しました。神の御前にあって耐えうるような誠実さということです。

 このような純真と誠実を、この世において、またとりわけコリント教会との難しい関わりにおいて、生きることができたと、どうしてパウロは胸を張って言うことができるのか?それは、その次の言葉が語る事実のため、私たちが「神の恵みの下に」、より原文に忠実に訳せば、「神の恵みの中に」、入れられているからです。今日の説教題といたしました。「神の恵みの下に」。

 パウロがこの世に対して、とりわけコリン教会の人に対して、胸を張れるのは、神の恵みの中にあるからです。恵みとはふさわしくない者に注がれる神の憐みの愛のことです。赦しのことです。私たちがキリスト者となってなお、神の恵みによって生かされ続ける必要があるならば、私たちは、赦しを必要とし続けるのです。神さまの憐みを必要として続けているのです。そして、神さまは、パウロを恵みの中に生かし続けておられるのです。神さまがただ憐みによって、貧しい私を清い者と呼んでくださる、誠実に生きられるように、導いてくださる。赦しの中で、憐みの中で、すなわち恵みの中で、そのことをパウロは胸を張って誇ることができる。自分が聖く誠実な者であることを誇っているのではなく、この自分のことをそのようなものと見做し、生かしてくださる神を誇っているのです。

 考えてみれば、これはおかしなことです。神の恵みの下に生きる、神の恵みの中に生きるということは、自分を頼りにできないということです。自分一人の力では乗り切ることができず、神に助けて頂くということです。人間の普通の知恵によれば、プライドというのは、自分の持てる力、自分の努力によって、問題に対処できるというところで、感じたり、確信するものです。自分の力に頼れず、神さまの恵みにお縋りするより他ないということは、人間の知恵で言えば、むしろ、プライドのないこと、プライドを捨てるようなことであると思います。

 けれども、パウロはここでは、誇りは捨てなさいという言い方はいたしません。むしろ、自分の純真も、誠実も頼りにすることができず、神さまにお縋りするより他ない、神さまの恵みの下に、憐みの中に、生かされることの中に、本当の聖さと神の御前に耐えうる誠実を見つけ、それだからまた、本当の誇りを見つけることができたと、ここで言うのです。キリスト者の誇りというのは、確かにあるのです。しかし、その誇りは、私たちが普通誇りと考える誇りとは、全く別のものなのです。

 パウロは13節以下で、「わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。またあなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから」、と語っていきます。パウロはコリント教会に誤解されたわけですから、パウロの語ることはすっと理解されたわけではありません。コリント教会の人々には、パウロの言っていることは難しいと感じられたのかもしれません。この世の誇りの定義とは、まるでずれている誇りですから、なかなか飲み込めないのは無理のないことです。

 けれども、パウロは、いつか必ずわかると信じて、語ったのです。パウロの言葉に躓いていることも、悪いことではないのです。福音は躓きです。躓いているということは、ある程度理解していることなのです。パウロは、神の恵みの中に生かされる者として、神の恵みが働いていることを信じる者として、神の恵みが働くならばきっとわかってもらえるだろうと思って、手紙を書き続けたのです。この神の恵みが、主イエスが来られる日までに、終末までに、必ず、神のみを誇りとする福音の誇りをコリント雄キリスト者たちにも分かるようにしてくださる。その恵みを味わうようにしてくださる。

 その主イエスが来られる日、終末の日、今はまだ、はっきりとはわかり切っていない、ある程度にしかわかり切ってはいないかもしれない、本当の誇りを知る日、コリント教会の人々は、パウロを自分たちの教師として持ったことは、自分たちにとって、本当に神の前での誇りであったことを知るようになるのです。

 しかし、それは、終わりの日に、パウロに対する誤解が解ければ、パウロがどんなにか正しく神の真実を語った神の正真正銘の偉大な使徒であることが、神さまが太鼓判を押してくださることにより、分かるようになり、その伝道によって生まれた自分達であることを誇ることができるようになるというのではありません。それこそ、それでは、このようの誇りの延長線上でしかありません。そんなことではありません。

 パウロが今は、パウロに対して疑いを抱いている彼らの誇りになるのは、既に、この付き合いにくい、扱いづらい、パウロを誤解してしまっているコリント教会の人々が、既に、今の時点で、パウロ達にとって、かけがえのない誇りであるのと同じ意味において誇りになるということです。パウロは今目の前にいるコリント教会の人々を、「私たちの誇りである」と言っているのです。いよいよわけがわからなくなりそうです。

 しかし、難しいことではありません。コリントのキリスト者たちがどんな誤解の中にある教会だとしても、神に立てられた教会なのです。神さまがその恵みのゆえに、頑なな私たちを集め、現在、なお、どのような欠けにも関わらず聖なる者として、生かし続けていてくださる神さまの生ける恵みの証しであるのです。教会が教会であるということは、全く神の憐みであることがそれによって、いよいよ明らかになっているのです。

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 また同時に、どのような関係の悪化の中にあろうとも、コリント教会は、パウロのために祈る兄弟姉妹として、パウロに与えられている者たちであるということでもあると思います。より深く福音を知ったパウロは、より強い者、高級なキリスト者になったのではなく、ますます、仲間の祈りを必要とする者になったのです。キリスト者は、一人で満ち足りることはできません。祈られなければなりません。そして、祈られなければならないということは、神の恵みに生かされることを必要とするということです。自分達は、神の恵みを必要としている人間であること、自分で捧げる祈りばかりではなく、それ以上に、信仰の仲間の祈りを必要としているということ。そのことをキリスト者は知っているのです。だから、パウロは11節で、コリント教会の人々にも祈りの援助を頼みました。そして、その祈りが聞かれるときには、当然、自分達の祈りの力、神通力を誇るのではなく、祈りとは、無力な人間の代わりに、神に全面降伏して、神の恵みと憐みを求めることであるならば、祈りを聞いて下さる神に感謝を捧げるようになるのです。祈った者も、祈られた者も、自分ではなく、神を見上げるのです。その時、自分たちを誇る思いではなく、祈ってくれる仲間を誇る思い、さらに、祈りを聞いてくださる神を誇る思いがわかってまいります。

そしてその誇りは、自分を誇る誇りを捨ててしまっても、ちっとも惜しくない、本当の誇り、本物の誇りです。

 コリント教会にとっても、私たちにとっても、その誇りは遠いものではありません。見つけづらく、見出すものは少ないというものではありません。信仰の仲間の祈りによって生かされているのです。神の恵みなしには生きられない自分であることをよく知っているのです。神が、私たちに教えてくださったのです。

 そうであるならば、パウロが第Ⅰの手紙から語り続け、やがて、第Ⅱの手紙の12章に至って、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」という、キリスト者の本当の誇りについて、必ず、わかるようにしてくださるのです。

 

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