神の子となる資格

2月27日 ヨハネによる福音書1章6節~18節

司式者に長い個所を読んで頂きました。この箇所は次週も取り上げる予定です。本当はそれでも足りない豊かな箇所ですが、今回は、二回といたします。突然差し込まれたような前半の洗礼者ヨハネを巡る箇所は、次週以降に回す予定です。今日は、直前の5節からの直接のつながりが濃い9節以降、特に、11‐13節に集中したいと思います。

 

さて、つい最近も少しご紹介しました石川県大聖寺出身の逢坂元吉郎という牧師がおります。

 

この人の文章を読んでいまして、私は、最近、目から鱗が落ちるような経験をしました。

 

まだこのことを突き詰めて、考えることはできていませんが、目に映る世界の見方がガラッと変えさせられる予感がしています。

 

逢坂のその言葉は、ちょっと、神学的なので、難しく感じるかもしれませんけれど、ご紹介してみたいと思います。

 

逢坂は、この世界に存在するありとあらゆるものが、「徴の言葉」だと言います。神さまがお語りになった言葉が、見えるものとなったもの、見えるものとなった神の言葉だということです。

 

ある歴史家は、この逢坂の「徴の言葉」を言い換えて、被造物は「神の言の受肉体」、肉を持つ体、神の言葉が実体化したものだと表現しました。

 

先週もこのことを意識して説教していましたが、改めて、直接この言葉をご紹介したいと思いました。

 

この世界は神の言葉でできたと聖書は語ります。これは信仰者の常識です。神さまの言葉が無から有を生み出した。神の言葉は何もない所に世界を生み出す力があった。

 

教会に属する者はみんなそう信じています。

 

けれども、そうであるにも関わらず、わたし自身は、逢坂のような感覚、あまり持っていなかったなと思わされています。

 

私たちの目に映るこの世界は、神の言葉の目に見えるからだを持った徴、神さまの聖なるご意志の受肉体、つまり、この目に見える世界の原材料は、神さまの言葉。

 

今ここにいるだけで、今この世界の中にあるだけで、私たちは神の言葉に取り囲まれながら生きている。神の言葉の中に私たちは置かれている。

 

そう考えると、何だか、ジーンとするものがあります。世界の見方がまるで違ってきてしまうように思えます。毎日、毎日神の言葉の結晶化であるものに取り囲まれて生きている。実際に神の言葉とともに生きている。それらに事実、生かされている。

 

しかも、言葉というところが良いですね。神の命が溢れて、世界が生まれたのではなくて、神の言葉がこの世界として結晶化しているんです。

 

自動じゃありません。オートマチックにこの世界があるのではありません。

 

神さまがお望みになったんです。神さまが意志されたんです。創世記に、神さまがこの世界に満ちるものをそのお言葉によって一つ一つお造りになりながら、「神はそれを見て良しとされた」という言葉が、繰り返されます。

 

豊かな神さまから命が勝手に溢れて、出来上がった世界ではなくて、言葉による創造というのは、神さまが望んで形をとった世界だということです。

 

だから、この世界の中にあるということは、「良かった。嬉しい。素晴らしい。最高。」という神さまの意志が込められている神さまの言葉の結晶に取り囲まれていることだということです。

 

この世界は神の言葉が形をとったものである。何で私たちが繰り返し繰り返し、新しい説教を必要としているか、新しい神学を必要としているか、驚きを取り戻すためです。

 

自分達が信じていることは、一体どういうことであるのか?どんなに衝撃的で、どんなに私たちの存在丸ごとを揺り動かしてしまうものであるのか、もう一度、気付き直すためです。そのことを今回、教えられた思いです。

 

生ける神の言葉を聴いて、信仰を与えられ、生きて行くということは、座ったままではおれない、思わず飛び上がらずにはおれない、腰を上げるべきかどうか、悩む余地はない。生ける神の言葉は、私たちを思わず立ち上がってしまわせるものではないかと思います。

 

逢坂牧師は言います。この私達人間ももちろん、神の徴の言葉、しかも、特別な徴の言葉である。どのように特別であるか?他の被造物は神の言葉の結晶化として、ただただそこにあるばかりですが、人間という被造物は、神の言葉を聴き、自分の口で神を賛美し、神にお応えすることができるのです。人間の被造物としての特別さは、その応答性になります。神にお応えするのです。

 

「主よ、あなたはこの世界と私たちをその力あるお言葉によってお造りになられた方、私たちはあなたの喜びであり、また、あなたは私たちの喜びである。」と。世界と自分、そして何よりも命の源であられる神さまを喜びながら、神さまと一緒に、被造世界の素晴らしさ、それをお造りになった神の愛の素晴らしさを、神さまと共に語り合う存在です。人間という神の言葉の被造物にはそのような特別さがあります。

 

だから、1:5の「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」闇は光に追いつかなかった。神の言によって造られた被造物を無に帰そうとする闇の力がどんなに強く、大きく見えたとしても、その闇のただ中にやって来てくださる光、御子イエス・キリストによる力強い再創造の業を、それに応じて諦めずに語り続け、証し続けるのは、私たち人間という被造物にだけ与えられている特別な栄誉です。

 

まさに私たち教会が、今、自分たちの使命として、自覚的に受け取っている礼拝と福音宣教の業こそ、人間の人間らしい業なのです。人間という被造物は、皆、この業に生きる特別な栄誉に与っているのです。

 

ところが、11節にこうあります。

 

「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

 

驚くべき言葉が記されています。暗闇の中に来られた光、この世界を、滅びへといざなおうとする暗闇に対抗して、来られた光、神の言を、その方によって造られたご自分の民は受け入れなかったというのです。

 

神の言によって造られた被造物である人間、この神の言葉の結晶化である世界の只中にあって、神の特別な栄誉を与えられた私たち人間、どんなに世を取り巻く闇が深くても、「大丈夫だ。光が来られた。言が来られた。この方は、もう一度、私たちを造り直してくださる。そのために、この闇の中までも入って来られた。闇は勝たない。」と、すべての被造物に率先して、お互いに、また、すべての被造物のために、この喜びの知らせを代わりに信じ、語るよう召されている人間、その言の民である人間が、世界を救わんとやって来られた言を受け入れなかったと言うのです。

 

なぜ、こんなことが起こってしまうのか?世界を取り巻く暗闇の力の大きさを物語っているのか?

 

少なくとも、ヨハネによる福音書の書き方では、この不自然なことが、まったく自然なこととして、まかり通ってしまっている、自分の栄誉も、自分の生まれからも完全に切り離されてしまっている、私達人間の姿を告発しています。

 

光を理解することのない闇の方と、完全に足並みをそろえてしまっている人間です。

 

このような私たち人間の記憶喪失、悪い方への変化は、並大抵のものではありません。少し先取りになりますが、13節の言葉を裏返して考えると、人間は神の言葉によって造られた者であり、特別な栄誉を受けた被造物でありながら、自分の全能力を注ぎ込んでも、世界を取り巻く闇の力から自由になることはできないほどに、取り込まれ、変えられてしまっているのです。

 

朱に交われば赤くなると言いますが、暗闇の力は、世界に、そういう変化を起こしてしまう。

 

「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」のです。

 

これこそが、闇の力、罪の力が、私達人間にもたらした神さまとの断絶です。

 

人間は、本来の自分を失い、神への道は完全に閉ざされたのです。

 

けれども、話はそれで終わりじゃありません。もはやすでに手遅れに見えるようですが、手遅れじゃありません。

 

12節、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とあります。

 

ご自分の民は、この方を受け入れなかった。これが大勢でした。これが基本となってしまっていました。

 

けれども、全員じゃありませんでした。世に来られた光を受け入れた者たちもいました。その方とその救いの御業を信じた者たちもいました。その者たちは、神の子となる資格を与えられた者たちでした。

 

世に来た光、世に来た造り主なる言を、受け入れなかった者と、受け入れ神の子となる資格を与えられた者、この二つのグループを分けたものは、一体何であったのでしょうか?

 

この12節だけを読みますと、言であり、光とも呼ばれる御子のお名前を信じ、受け入れたかどうかが、その分かれ目になっていると読めます。

 

世に来られた御子を信じた者には、神の子となる資格が与えられたと読むことができます。12節だけだと、それが自然な読みであると思います。

 

神の子となる資格を得、再創造されるためには、御子の名を信じるという条件が必要になります。

 

その条件を満たした者だけに、再創造が起こる。こういう風に、信仰を神の恵みを引き出すための引き金のように理解をする者も少なくありません。

 

しかし、我々改革派教会はそのようには理解しませんでした。信仰は条件ではなく、賜物だと理解しました。

 

私は、このような信仰を条件であるかのように考える理解になってしまうのは、どちらも可能な解釈というよりも、たとえば、今日の個所では、その前後の個所、特に11節と、13節を、12節と同じようには、大切に読まないせいではないかと思っています。

 

既に、軽く13節にも触れましたが、この観点からもう一度読み直してみようと思います。「御子の名を信じ、神の子となる資格を与えられた者」、その者たちは、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれたのである。」

 

ここで、「欲」と訳されました言葉、欲望などという否定的な意味ではありません。「御心の天になるごとく」と祈るときの、「御心」と同じ言葉です。「意志」を意味する言葉です。

 

神の子となる資格を得るために必要なのは、血統ではない。これは私たちはよく知っています。選民イスラエルに生まれたからと言って、自動的に神の子となるわけではない。キリスト教会が始めからよく知っていたことです。だから、当然、肉の欲、肉の意思、自然の営みの延長線上に生まれてくるものではありません。たとえ、その肉が、神の言葉の結晶体、受肉体であったとしてもです。

 

けれども、どうでしょうか?「人の意思」、人間である私の自発的な意思、信仰の二者択一を迫られ、「信じます」と自発的に応えることができた、この私の信仰が、神の子となる資格を得るための条件にはならないのでしょうか?12節は、それを認めていたのではないでしょうか?

 

いいえ、13節は、人の意思もまた、神の子を生み出すことはできないと言います。それが人間から生まれて来たものならば、いかなるものも、神の子となる資格を頂ける条件とはならないのです。もしも、仮にそのような信仰心、宗教心があったとしても、それは、神の子となりうる資格を与える信仰ではないのです。

 

それでは一体何が私たちを神の子として造り直してくれるのでしょうか?「神によって」です。神によってしか、その恵みによってしか、神の子は生まれないのです。

 

11節も同じです。人間は特別な被造物であるにもかかわらず、ご自分をそのような栄誉ある存在として造られた方を、どうしても受け入れないのです。人間側からの通路は残念ながら、遮断されているのです。

 

けれども、人間にはできないことが、神にはお出来になるのです。ただ恵みとして、ただ賜物として、神の子として頂くのです。

 

そしてこの時こそ、5節の言葉を思い出して頂きたいのです。

 

新しい協会共同訳で読みます。「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった。」

 

 

被造物を抑え込もうとする闇に打ち勝つ主語は、光です。光なる言、言なる御子、御子なるイエス・キリストです。

 

御子が戦い、御子が打ち勝ってくださる。だから、神の子として立てるんです。神の良き被造物としてやり直せるんです。天地創造かが、もう一度起きます。天地創造に自分が関わったと言える被造物は一つもありません。新しい天地創造も同じです。三位一体の神が、行われるのです。そこに私たち人間の再創造の道が拓けるのです。

 

じゃあ、何もしなくて良いのか?全部、御子にお任せして、私たちはボーとしてればいいのか?

 

いいえ、何もしないなんてことはあり得ません。私たちは力の限りに神を信じ、神をほめたたえ、神の恵みを証ししていきます。

 

何もしなくていいと勘違いするのは、11節と、13節だけを重んじ、12節を大切にしない読み方です。

 

むしろ、13節を土台として、12節を読み直すと、事情はよくわかるようになると思います。

 

神だけが、神の言だけが、神の子の資格に与る者を生み出すことがおできになる。そして、このような神の恵みによってだけ新しく造り出された神の子である人間は、当然、力の限りに、神の名を信じて生きる。

 

しかし、なぜ、そのように生きることができるかと言えば、神がそうさせてくださるからです。神が私の力を呼び起こされるからです。神が私の意思を呼び起こされるからです。神が私が誘惑に打ち勝ち、どこまでもキリストに従って生きて行く決意を、させてくださるからです。

 

ここに再創造が始まっているのです。無から有を、いいえ、マイナスからプラスを生み出す力ある神の言葉、神の御意志が、活動を開始したのです。

 

神の言葉によって造られた人間、創造の冠として、言葉によって、神に応答する栄誉を与えられた人間、その人間が、神に応答する者として造り直された結果として、信仰という実が結ばれているのではないでしょうか?

 

今、不思議にも信じる者とされている。それは事実、この身に新しい創造が起こったのです。

 

このような神の言による私たち人間の再創造には、どれほど神の力を必要としたものであったか?私たちの手に余るものであるかは、14節の冒頭の言葉をじっくりと思い巡らせるならば、もう、迷ったり、その点であやふやになることはなくなると思います。

 

「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」

 

多くの学者がここで指摘することは、ここで「人となって」と言わず、「肉となって」とヨハネが表現したことは、意味深いことだということです。「肉」は、人間の弱さを象徴する言葉だからです。そして、このヨハネ福音書の冒頭の、言がお取りになられた弱く傷つきやすい「肉」という表現の中には、既に、十字架が暗示されていると言います。

 

言なるイエス・キリストによる、私たち闇に取り囲まれた被造物の再創造は、あの創世記の天地創造のように、言葉を一言、発すれば、それで片が付くようなものではなかったのです。

 

造り主なる言は、私たちの再創造のためには、「肉」とならねばなりませんでした。

 

その一言で、天地を造り出されるお方が、傷付きやすく、弱い「肉」とならなければ、決して神の子として、造り直すことはできなかったのであります。

 

この100パーセント完全な意味での正真正銘の神の言の受肉、独り子なる神の受肉などという途方もない大事件が起こらなければ、私たちが神の子となることはない。十字架によらなければ、再創造の道は拓けなかったのです。

 

この一事を考えるだけでも、私たち人間の信仰が、無前提の条件となることなど、考え難いことです。

 

もう一度言いますが、それは、何もしないということではありません。

 

今ここで、たしかに、私たちがイエス・キリストを信じている。その方をこの私の主、この世界の主人であるという信仰を与えられ、そのことを世に証しするためにこそ、時と、宝と力の全てを注いで、信仰に生きよう、伝道に生きようとする、私たち教会がここにある。

 

そういう人間がこの世の中に存在する。

 

これは、人間業などではなくて、キリストの出来事によって、神の言葉の受肉体がここに造り出されたということ、キリストの体が、今、ここに形を持って存在するための神の奇跡が、もう既に、歴史上の出来事になったということを、証しすることなのです。

 

つまり、我々、教会の存在というのは、「闇は光に勝たなかった」ということのしるしです。造り主を受け入れないほどに、闇に染まってしまった被造物を、神はもう一度造り直すことがおできになるというこの被造世界に与えられたしるしです。無どころか、マイナスから、神は、良い物をお造りになれるというしるしが、私たち教会の存在です。ましなものを神はお選びになるのではありません。それではしるしになりません。教会が、世に対する真のしるしとなるために、神は、箸にも棒にも引っかからないものをこそ、まず、お選びになるのです。

 

だから、私たちは、他の被造物仲間に先立って、その者たちに代わって、光なるキリストの勝利に太鼓判を押すことができます。神は、どんな者も、造り直すことがおできになると。

 

その私たちの言葉は、神に向かっては賛美礼拝となり、世に向かっては福音宣教となります。そしてこれこそ、人間の本文を果たすことなのです。

 

 

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