次週以降、私たちがいつも礼拝で、或いは毎日の生活の中で祈っている主の祈りを改めて詳しく聞いていこうと計画していますが、今日は、主の祈りを含めた、比較的大きなまとまりを司式者に読んでいただきました。
これは第6章で取り上げられる三つの行為、施し、祈り、断食の二番目の話題に当たる祈りを主イエスがお語りになった部分であります。
この所で主イエスは本物の祈りというものはどういうものかお教えになりますが、ただ、祈りについて教えるのではなくて、私たちが今は主の祈りと呼びならわしている祈りの言葉を弟子たちに実際にお与えになり、事実、本物の祈りを祈れるように弟子たちを整えられるところだと言えます。
既に先週もお話ししましたが、当時の人は朝昼晩と日に何回祈るかということが決められていました。それはちょうど、最近私たち自身でも目にするようになりつつあるイスラム教の人々の祈りの習慣と似ていると言えます。
どこにいようと祈りの時間になれば、祈りをするのです。近年、観光立国を目指す日本でも、成田空港にプレイヤールームという祈りのための部屋を設けているというニュースを数年前に聞きました。今までは、祈りの場所の確保が難しく空港ロビーなどで、祈っていたので、これはたいへん有難がられているということです。最近では、このような設備が、他の空港にも、あるいはアウトレットモールにまで広がっていると言います。
まさに、これは人目を気にせず祈りに集中できる空間ができたことを喜ぶ声ですが、主イエスが注意するように仰っているのはそれとは正反対の祈りの姿勢があるということです。
わざわざ祈りの時間に人ごみに出かけていく。偶然、通りを歩いていると、自分の祈るべき時間になったように装い、やおら祈り始める。その目的は、道行く人にあの人は本当に信仰深い人だ、本当に神を愛している立派な人だと評価されたいからそうするのです。
主イエスは、それは祈りの姿勢として間違っていると仰います。祈りは、人を相手にするものではない。神さまに向かって語り掛ける言葉です。だから、6節「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と教えます。祈りは神さまを相手にしているものだからです。
ここでいう「奥まった自分の部屋」とは、多くの学者によって、当時の農家ならどこの家にもあった貯蔵庫のことだと言われます。唯一閂があり、閉じこもることのできる場所だったと言います。扉を閉めてしまえば、全く暗闇の中に一人になる。一人で祈っているときに私たち自身の経験に照らすならば、思わず気が逸れて目に付く本やスマホ、あるいは家事に手が伸びていくことがありますが、このような貯蔵庫であれば、そこに入れば、人だけでなくて、自分も見えなくなって、ただ神さまに語り掛けることだけに集中できるような場所です。そこで神さまだけを相手にして祈るのです。祈りとはそういうものだと主イエスは仰います。決して人目を気にしてするものではありません。そのことを主イエスは厳に弟子たちに言いつけられるのです。
現代の弟子である私たちは、このような主イエスのお言葉を案外安心して聞いていられるかもしれません。私たちにとって、わざわざ人の目につくように祈るということはあまり問題になることではありません。むしろ、人前で祈ることに抵抗を覚えるということがあるかもしれません。これはよく聞く話ですけれど、どこの教会にもたいてい祈祷会というものがあり、週の半ばに聖書の学びと祈りのために集まってくる。けれども、出席者がなかなか振るわない。その一つの理由は、全員の前で一人づつが声に出して祈らなければならない。それがプレッシャーになって、祈祷会への出席を控えようという心が働くということを聞いたことがあります。
これは私たちの祈祷会の習慣とは違いますが、人前で祈ることをどうもプレッシャーに感じてしまう、うまく祈れるかと不安になるという気持ちの方が、人に私の祈りのすばらしさを見せつけて褒めてもらいたいという気持ちよりは、私たちにも身近でよくわかるような気がします。
しかし、その一方で、こういう思いもあるかもしれません。むしろ、一人でも二人でも、一緒に祈る仲間がいる時にこそ、短い言葉で集中して祈ることができるようにも思う。一人で祈ろうとすると、すぐに、意識が散漫になり、いつのまにか、今日の夕飯どうするかとか、明日の予定をどうやってこなそうかという風に、気持ちが逸れていってしまう。人前で祈る祈りは、案外、整った祈りが祈れる。しかし、一人の祈りの生活は、しばしばさあ祈ろうと気合を込めて始まりはいいけれど、いつ終わったのかというくらいぐずぐずになってしまうということもあるかもしれません。そこにある正直な思いというのは、やはり、祈りというのは、他の誰にでもなく神さまに語り掛けるものということがよくわかりながらも、いつのまにかそれを独り言のように感じ始める。むなしく思い始める。誇ろうと思って人前で祈るということは、ほとんどないかもしれません。しかし、仲間と一緒に祈るとき、私の祈りを隣りで確実に聞いてくれているという人がいるということは、案外、それだけで、ある種の手応えを感じながら、祈ることができる。そういう思いとは無縁ではないな、そういう心が自分達人間の中にはあるなと感じます。
もう一つ、こういうことがある牧師の勉強会の中で最近話題になったことがあります。結構多くの教会で、礼拝順序の中に、牧会祈祷と呼ばれるプログラムが記載されている教会がある。これはおそらく英語のパストラルプレイヤーという言葉が翻訳されて日本の礼拝の中にも位置を持つようになった祈りだろうと言われます。
けれども、その勉強会の指導的責任を持つ複数の教師が、これはおかしいことだと指摘しました。祈りで牧会するということはあり得ないと指摘したのです。
牧会というのは、パストラルケアというように、牧師がなすケア、魂の配慮のことを言います。慰め、励ますことです。牧会祈祷という名で呼ばれる教会が採用するこの祈りが、祈りの言葉によって、その祈りに一緒に耳を傾けている会衆の心をケアしようというものであるとすれば、それは、祈りを根本的に誤解していると言いました。祈りは、人ではなく、神に向かうものだから、祈りの言葉によってその祈りを聴く人を慰め励まそうというのは、本当におかしなことだということです。パストラルプレイヤーという祈りを牧会祈祷というのはそもそも間違いで、これは本当は単純に、牧師の祈りと訳すべきものだと言いました。
けれども、この誤解は、かなり深く浸透しているものだと思います。かなり多くの教会が牧会祈祷という名前の祈りを礼拝順序の中に持っています。そこでは、基本的にとりなしの祈りが祈られています。苦難の中にいる者を覚え祈るのです。それこそ、聞く者の心をなでるような、心に沁みる祈りだなと思うような祈りがなされます。しかし、それはやはり、どこか神への祈りでありながら、半分、人間に身を向け始めている祈りだと言わなければなりません。結果的に、誰かが代表して祈る祈りの言葉に力づけられるということは起きることはもちろんあるけれども、最初から、聞く者の感動を誘おうとしたり、聞く者を慰めようとするのは、間違った祈りであると言わなければなりません。
しかし、これは私たちの教会にはないプログラムだからと言って、そのような祈りの失敗から自由ではないなと私は反省させられます。誤訳である牧会祈祷という言葉が、浸透してしまうというのは、単に翻訳のミスをしたというのではなくて、私たちの自然な祈りの心が、やはり、その方向に流れやすい性質を持っているのだと言った方が良いのだと思います。
これはまた、牧師だけに限ったことではありません。私が、特に、この誤りに自分が陥っていると感じるのは、子どもと一緒に祈るときですね。本当に無意識に、祈りを教育手段に変えてしまっている自分がいるなということに気付きます。教会学校でもやるし、家ではもっと露骨ですね。
「神さま、~ちゃんが野菜を残さず食べるようにしてください」なんて、祈る。でも、これは間違った祈りです。ある人ははっきりと、説教が変装した祈りは、明白な他人迷惑だと言います。それが、教育的なものではなく、隣人を慰めようという意図を持ったものでも、もう、それは人の目を気にしているので祈りではなくなっているのです。
もちろん、人と共に祈るときは、わかる言葉で、聞こえるように祈らなければなりません。心を合わせて我らの祈りとして祈る祈りだからです。けれども、みなと共に神さまに向くのであって、お互いと向き合うわけではないのです。
このように考えてくると、私たちもまた、主イエスのこの言葉を自分に関係ないことだとするわけにはいきません。私たちもまた人目を気にしない正しい祈りを教えて頂かなければなりません。
けれども、いざ、このようにただ神さまだけと向き合う奥まった部屋での祈り、密室の祈り、それは別に、本当の密室である必要は少しもありませんが、私と神さまの間だけで問題となる祈りを祈ろうとすると、たちまち自分の言葉が貧しくなるという経験をするかもしれません。
しかも、私たちの奥まった部屋での祈りに困難を覚える心は、信仰とは無縁の怠惰な心、神さまを信じ切れない心が問題なのではなく、むしろ、私たちの信仰の理解のゆえに、困難を覚えるということもあると思うのです。
7節以下で主イエスは、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と仰います。これは第一には、美辞麗句を並べて神さまの関心を引こうとする必要はないということであると思います。あるいは、しつこく祈って、神さまが根負けして祈りを聞いてくださるまで諦めないという執拗さが祈りには必要だということではないということであると思います。
祈りというのは、そばにいる人間ではなく、高くて遠い天の神さまを相手にしているのだからと、ラッパを吹いたり、手を叩いたり、何時間でもしつこく祈ったり、そういうことで、神さまの気を引き振り向かせようということではないというのです。
あるいは、くどくど祈るということは、自分の願いを細部に至るまで正確に祈るということと考えてみても良いかもしれません。ある人が冗談で、自分は早く結婚させてくださいと祈ったが、どういう人と結婚したいとは祈らなかったので、失敗したと言ったことがありますが、案外、こういうことを真に受けて、祈るならば、具体的に事細かく祈るようにという人はいるのです。
最近私は子供番組を否応なく見せられていますが、そこで面白いエピソードがありました。願いが叶う井戸というのが出てきます。その井戸は、誰の願いも三回だけ必ず叶えてくれる。けれども、よく考えて願わないと大変なことになります。ある女の子が、お父さんと自分の兄弟がいつも仲良しなのを嫉妬して、お父さんをその兄弟に対するアレルギーにしてくださいと願う。すると、兄弟が紫の猫になってしまいます。お父さんは、猫アレルギーなので、たちまちに、紫の猫になった兄弟から離れていく。女の子の願いは叶ったわけですが、そういうことではないと、もう一度、「兄弟を紫の猫じゃなくしてください」と井戸に願います。すると、今度は、ピンクの猫になってしまうというお話です。
たとえば、こういうようなことが、くどくどと祈るということだと思います。しかし、主イエスはそれはここではっきりと、くどくどと祈るのは、異邦人の祈りだと仰います。
なぜならば、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものはご存じだから」と主イエスは仰います。
私たちの信仰というのは、このような神さまを知るということ以外では今までもこれからもないのであり、私たちの祈りも、このような私以上に私のことを知っていてくださる神さまを相手にしているのです。
詩編の中に、このような言葉があります。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。/座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。/歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。/私の舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」
これがまさに私たちが、神さまより語られ、それによって慰められ、そこに生かされている我々の信仰であると思います。
パウル・ティリッヒという神学者は、「神は私たちに近い。私が私自身に近いよりも、もっと私の近くにおられる」と度々語りました。神さまは、私たちが自分自身を知るよりも、私のことをもっとよく知っていて下さる。
考えてみれば、私は本当に自分の必要を知っているものだと言い切ることは本当は難しい者です。ああなったらいいのに、こうなったらいいのにと私たちはいろいろな願いを四六時中持っていますけれども、本当にその全部が実現することが私にとって一番いいことなのかどうかということには私などは自信がありません。
けれども、神様は私以上に私のことを知っておられる。私以上に私の心を知り尽くしておられる。そういう近さにいてくださる神さまです。その神さまにくどくどと述べる必要はないのだと主イエスは教えてくださるのです。
ところがそうあればこそ、祈りは難しいと感じます。祈る前から神さまは私の願いと私の本当の必要を本当の心を、私たち以上に御存じであり、しかも、私たちの必要を知っておられる方が、赤の他人としてではなく、私たちを愛し子として見ていてくださる天の父だと信じるならば、祈る必要がどこにあるのかという思いがふつふつと湧いてくる。
こういう神さまの前で、私の祈りは聞かれないという言葉は、意味のあることであるかどうか?もしも、私たちの祈りが、自分のことを極めつくすことのできない私たち限界の中にある人間の祈りであり、その祈りによって、私たちよりも私たちのことをご存知である神さまの御心を曲げて私たちの我を通そうとするものであるとすれば、このような祈りは叶わない方が絶対に良いのです。私の願いよりも、神さまの御心の方が、私たちにとって良いからです。
だから、ある説教者は、今日共に聞いている主イエスのお言葉を聴きながら、非常にはっきりとこれは大胆だけれどもという但し書きを添えながら言います。
「主イエスは、私どもが理解するような意味での祈りは、もう不必要だと言っておられるのです。神さまに、ああしてほしい、こうしてほしいと願いごとを並べ立てる祈願は、もういらないと言われるのであります。私どもの考えるような祈りは、もうしなくてよい。そのような祈りはしなくてよい。祈らなくてはいけないという思いから解き放たれる。祈れないという思いからも自由になるのです。」私たちが、本当に健やかな祈りの道を見出すためには、「私どもが、祈らなくてよいのだということをよくわきまえること」だと言います。
それは、「祈らなければ、神さまに何もわかっていただけないし、救われもしないのだという考えから自由になる」ということです。「私どもが祈れるか祈れないか、そのようなことです救いを左右なさるような神ではあられない」、「私ども以上に私どもの求め、その必要を知り、私どもが期待した以上のなさり方で、私どもの求めを満たしてくださる神であられる」、そのことを言い換えれば、「自分で無理してでも祈る祈りの不必要である」ということです。しかし、この祈らなくても良いということをきちんと弁えた時に、本当の祈りが生まれる、祈りの真実に私たちの目が開かれるのです。
それは私たちの祈りが全く空しいものであることを弁えるということです。この祈りの空しさは何も難しいことではなく、私たちが、良く知っているものです。私たち上に私のことを知っていてくださる豊かな神の御心の前に知る、私たちの心の貧しさゆえの祈りの貧しさ、空しさです。
けれども、主イエスは、だから、祈らなくてよい、祈る必要はないとは仰いません。反対に、祈りを励ますためにこそ、お語り下さっているのです。
つまり、人前ではなく、誰にも知られない奥まったところで祈れとお命じになり、くどくどと祈るなと仰る方は、私たちがそれに気づかなくても、神さまは本当に私たちに近くにいらっしゃり、私たちが言葉をくどくどと重ねなくても、聴いていてくださっていると励ましてくださっているのです。
だから、主イエスがここでお語りになっていることはすべて、私たちが、自分で祈りの動機、モチベーションを探したり、どうやったら聞かれる祈りになるかということに工夫を凝らすことはしないで、安心して祈って良いということです。
願う前から私たちの心を知っている神さまなのだから、しかも、この神さまは、あなたがたの父なのだから、間違った祈りは祈ってはいけないと怖がって、あれもこれもと言葉を重ねる必要はないのです。
ある神学者はこういう趣旨のことを言います。私たちの祈りは貧しい。私たちの祈りは間違う。けれども、私たちは現にあるがままの姿で神の御もとに行くことが赦されている。神さまは我々自身よりも、我々のことをよく知っていらっしゃるから、貧しい言葉足らずの私たちの祈りを余すところなく聞き、しかも、それを必ず清めてくださることを期待できる。
私たち以上に私たちのことを究め尽くしていらっしゃる神が、なお、私たちに祈りをお命じになっているということは、主イエスが、ここで主の祈りを下さったということにそれこそ、極まっていると私は思います。
ルカ福音書で、はっきりと、祈りを教えてくださいという弟子の願いからこの主の祈りの言葉が教えられたのと同様に、マタイによる福音書においても、どう祈ってよいかわからない私たちのために、主が祈りの言葉をお与えくださっているのです。
祈れない時があります。祈る言葉が浮かばない時があります。それこそ、自分の祈りの言葉を空しく思われる時があります。けれども、祈りが失われないように、主イエスは主の祈りをくださいました。何を祈っていいかわからなければこれを祈ればいいんだ。口に出して祈れば、短い30秒足らずの祈りです。けれども、この主が教えてくださった祈りを祈れば、そこで祈りの生活を全うしたと信じて良いのです。
今日の説教題としました「祈る理由」ということを、今まで否定的にしか触れて来なかったようにも思いますが、既に、それは明らかであると思います。
私たちが祈る理由というのは、私たちが私たちの必要を神さまに知っていただくというところには、ありません。それは、私たち以上に神さまがご存知だからです。それは言ってみれば、私たちの側には、祈りの必要も、基礎も、理由もないということです。
けれども、なお、祈るのは、神さまが私たちの祈りを待っておられるからです。神さまは私たちの祈りをお聴きになりたい。その願いがどれほどのものであるかは、主イエスを通して、主の祈りを与えてくださったというところに、極まっているのです。
あなたの祈りが聴きたい、どうしても聴きたい、祈りの言葉を与えてでも私たちの声が聴きたい。私たちが祈る理由は、ここに堅い基盤があります。それは、本当に私たちのことを愛しい子供と思っていらっしゃる神の、父らしい心に祈りの堅い基盤があるということです。愛し合う者は、愛する者の声を聞きたいのです。天の父を慕い、私たちが今、その言葉を聞きたいとここに集っているように、それ以上に、天の父は、私たちの声を聴きたい。それが嘆きであっても、泣き言であっても、父は私たちの声を聴きたいのです。
そうであるならば、私たちの祈りが正しさを欠く祈りであっても、それゆえ、どんなに私たち自身にとって、空しい言葉に響こうとも、父である神さまには少しも空しくないということがわかるのです。神は、どんな貧しい私たちの祈りをも喜んでいてくださるのです。
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