11月10日(日)主日礼拝 イザヤ書56章1節~8節 ヨハネによる福音書10章7節~18節 松原 望 牧師
聖書
イザヤ書56章1~8節
1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。2 いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は。3 主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。4 なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。6 また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。8 追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる、既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。
ヨハネによる福音書10章7~18節
7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
「 説教 」
序、
イザヤ書は大きく三つの部分に分かれ、1~39章が列王記に登場するアモツの子イザヤの預言で、40~55章が第二イザヤとよばれ、56~66章が第三イザヤと呼ばれています。
第二イザヤと第三イザヤは本名が分かりません。そして、一人であったのかそれともグループで活躍していたのかもはっきりしていません。一応、第三イザヤについて、今日の説教では「第三イザヤと呼ばれる預言者」という呼び方にしておきます。
第二イザヤも第三イザヤも言い方や信仰が似ていることから、師弟関係にあった可能性はありそうです。詳しいことは省きますが、三つのイザヤはそれぞれ書かれた時代の違いがあることを心に留めておくだけで充分でしょう。
第一のアモツの子イザヤはバビロン捕囚前に預言を語り、第二イザヤはバビロン捕囚が始まってから数十年がたち、それがまだ終わっていない時代の預言です。第三イザヤの預言は捕囚が終わった後の時代、エルサレムに帰ってきてからのようです。
1、バビロン捕囚からエルサレムへ帰ってきたユダヤ人
紀元前539年、ペルシア帝国がバビロンを滅ぼし、翌年、ペルシア帝国のキュロス王がバビロンに囚われていたユダヤ人に故郷のエルサレムに帰ってよいとの許可を与えました。エルサレムに帰ってきたユダヤ人たちの様子は、エズラ記とネヘミヤ記に記されています。
そのエズラ記とネヘミヤ記にはエルサレムに帰ってきたユダヤ人たちが町と神殿の再建に苦労したことが記されています。再建するユダヤ人たちを妨害する人々があったこともありますが、最も深刻だったのが神への信仰が弱まっていたことでした。エズラとネヘミヤは町や神殿の建物を再建すること以上に、神への信仰を立て直す必要を感じていました。
神を礼拝するための道具などを保管する部屋が異邦人の有力者のために使われていたり、子どもたちが律法を読んだり祈ることができない状態でもありました。というのも、外国人との結婚によって、自分たちの言語であり、また律法の言葉であるヘブライ語の読み書きができなかったからです。
この問題に対処するため、エズラとネヘミヤは異邦人との関係を断つよう命じ、エルサレムの町から異邦人を一掃しました。今の私たちからすると、とても厳しく、極端すぎるように思えますが、かつての罪を決して繰り返してはならないという必死の覚悟で決断したことでした。
かつての罪というのは、列王記上11章に記されているソロモン王の犯した罪です。
ソロモン王は国内の平和と経済的繁栄のため外国の王女たち千人を王妃や側室にしました。その結果、その女性たちが異教の礼拝習慣と礼拝場所をエルサレムの中に持ち込んだのです。それにより、エルサレムでいろいろの宗教行事が行われるようになり、それが神への反逆、最大の罪とみなされたのです。その習慣は絶えることなく続き、ついに神の裁きにより国が滅んだのです。
エズラとネヘミヤはこの罪を繰り返してはならないと、断固として、徹底的に異邦人を斥ける決断をしたのです。
そして、このエズラとネヘミヤとほぼ同じ時代にいわゆる第三イザヤと呼ばれる無名の預言者がいたのです。
2、第三イザヤのメッセージ
バビロン捕囚中に預言した第二イザヤは、バビロンに捕らえ移された人々に、この悲劇の原因が神に対する罪であることを明確にし、その罪に対する裁きの時が終わるということで、人々にエルサレムに帰る希望を語りました。
捕囚がおわり、エルサレムに帰ってきたユダヤ人たちの数は4万人以上(エズラ2:64)でしたが、経済的に貧しい人が多かったようです。また政治的にも不安定で、目の前には廃墟となり荒廃しているエルサレムがあるばかりでした。
バビロンから一緒に帰ってきた第三イザヤは、その人々に対してメッセージを語るだけではなく、バビロンに残っているユダヤ人たちにも語りました。
まだ戻ってきていない人々をエルサレムへ導き、経済的な豊かさと幸いを伝え、エルサレムが神の栄光に輝く(60:1~2)と預言したのです。彼は神から自分に与えられた使命について「貧しい人に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み(心に傷ついた人々を癒し)、捕われている人に自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1~3)と語っています。
3、諸国民に対する第三イザヤのメッセージ
第三イザヤのメッセージの特徴の一つは、諸国民に対するものです。神の救いが諸国民にももたらされるというものです。それは60章や66章に見られ、「彼らは神の栄光を見る」(66:18)、「彼らは神の栄光を国々に伝える」(66:19)、「神は彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる」(66:21)とまで言われています。
先ほども言いましたように、第三イザヤの時代はエズラやネヘミヤの時代と重なります。異邦人に対する否定的な考え方が強い時代です。そのような中で、第三イザヤのようなメッセージが語られること自体、とても珍しいですし、第三イザヤにとって極めて危険な状態であると推測できます。
第三イザヤのように、異邦人が神の恵みにあずかると記しているのは、ルツ記とヨナ書で、第三イザヤと同じく捕囚から帰った後の時代に書かれたと思われます。
そうしますと、一方でエズラ記やネヘミヤ記のように異邦人を否定的に見る立場と、もう一方ではルツ記やヨナ書のように異邦人に対する神の恵みを語る立場とが同時に存在していたことになります。第三イザヤは、そういう二つの立場が両立している時代に書かれているのです。
ルツ記とヨナ書は物語のかたちで、異邦人に対する神の恵みと憐れみを記していますが、第三イザヤはもっと直接的に、神の言葉として、異邦人に対する神の恵みと救いを語っています。その意味でも、第三イザヤは独特だと言えます。
4、イザヤ書56章のメッセージ
イザヤ書56章は、第三イザヤの冒頭であり、最初に異邦人の救いが語られていることにも、「異邦人の救い」が第三イザヤにとって重要なメッセージであると理解できます。
第三イザヤの異邦人の救いのメッセージは、確かに独特と言えますが、彼が考え出したことではありません。むしろ、神がアブラハムを選んだ時から始められていた計画でした。そのことは、預言者エレミヤも「もし、あなたが真実と公平と正義をもって、『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」(4:2)と語っています。「諸国の民が、イスラエルの民を通して祝福を受ける」というのは、まさに神がアブラハムに告げていた通りです。
異邦人を神の祝福にあずからせるために、神はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの民を神の民とされたのです。ですから、第三イザヤの異邦人の救いというメッセージは、決して新しいというのではなく、初めから神の御計画だったのです。
5、エズラ記とネヘミヤ記のメッセージ
エズラ記とネヘミヤ記は、先ほど話しましたように、異邦人に対して否定的な内容に溢れています。しかし、その時代状況も理解すべきでしょう。長い捕囚から帰ってきたイスラエルの民は混乱状態にあり、伝統的な礼拝を守れなくなっていました。その責任の一端は確かに異邦人の存在ということがあったでしょう。しかし、異邦人を排除すれば解決するかというとそうではありません。失った伝統を回復するには時間がかかります。それを妨げる異邦人もいたでしょうが、その妨害に負けることなく、礼拝を整え、守ることが大切なのです。
6、すべての民の祈りの家
第三イザヤは「追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる、既に集められた者に、更に加えて集める」という神の言葉を伝えています。この言葉を聞いて、すぐ思い起こすのは、主イエスの「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:15~16)という言葉でしょう。
このように、主イエスは、異邦人の救いを告げています。ここで注意しておきたいのは、すでに囲いの中にいる羊に、囲いに入っていない羊をも導くと言っておられることです。すなわち、囲いに入っている羊、そして囲いに入っていない羊という順番です。このことは、主イエス自身語っておられたことでした。
ある時、主イエスのもとに、娘を癒してほしいと願い出た異邦人の女性がいました。その時、主イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(マルコ7:27)と答えられました。
一見、思いやりのない冷たい言葉ですが、最後には、この女性の娘を癒されました。なぜ、すぐに病気の娘を癒さなかったのだろうと不思議に思いますが、主イエスは、まずイスラエルの民に働きかけ続けるのが、自分に与えられた使命だと言っておられるのです。この出来事をマタイ福音書は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という主イエスの言葉を伝えています。
冷たい言葉ですが、主イエスがまずイスラエルの民に遣わされているという順番を私たちに告げているのです。
旧約聖書もこの順番を大切にしています。神はイスラエルを通して、神の救いと恵みを明らかにし、異邦人に対する証人としているのです。そして、神の民イスラエルによって証しされた神の恵みにより、救いに入れられた異邦人は、他の異邦人のための証し人として遣わされるのです。
「わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。・・・彼らはわたしの栄光を国々に伝える。」(イザヤ66:18~19)とある通りです。
エルサレムの神殿は「すべての民の祈りの家」であると、第三イザヤは告げました。すべての人々が救い主なる神のもとに招かれています。そして、「血筋による神の民イスラエル」も「信仰による新しい神の民キリスト者」も共に神を礼拝するようにと招かれ、神への礼拝によって受ける祝福を携えて、世の人々へと出かけて行き、救いの神を伝えていくのです。光栄あるこの務めを与えられていることを感謝し、今日から始まる一週間を歩んでいきましょう。
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