5月1日 ヨハネによる福音書3章1節~15節
ユダヤ人たちの指導者の一人であったニコデモという人が、夜、主イエスのもとにやって参りました。この人は前回の説教でお話ししました通り、主イエスキリストがエルサレムでなさった数々の奇跡を目の当たりにして主イエスを信じたという人々の内の一人でありました。
けれども、この主イエスを信じた人々、主の方では、この人々のことを信じることはなかったとありました。
多くの学者が指摘するのは、そのような主イエスに決して信用されない人間の一例として、今日の箇所でニコデモがイエス様と交わした対話の記録が置かれているということです。
ユダヤ人の指導者たちの一人とは、どう言った人でしょうか?
当時、ユダヤは、ローマ帝国の属州とはなっておりましたが、その独特の宗教と文化から、ある程度の自治が認められていました。
彼らの宗教や文化にいちいち口出しするよりは、ローマ帝国に逆らわない範囲で、ある程度の自治を認めておいた方が、支配しやすかったからです。
そのユダヤ人たちの自治組織の意志決定機関が、サンヘドリンと呼ばれる人々でした。
ニコデモはこのサンヘドリンのメンバーであったということです。
名誉と地位ある人物でした。
ニコデモが夜訪れたということについて、様々な解釈があります。否定的な解釈も、肯定的な解釈もあります。
彼が夜訪れたのは、周りの人々に気兼ねして隠れてきたのだと、そう理解する人がいます。
地位ある人間として、その立場上、自分がイエス様を信じ始めていることを知られるわけにはいかないから、夜に紛れて訪れたのだろうと。
この中にも、家族に気兼ねしながら信仰生活を送っている方があるかもしれません。またあるいは、学校の礼拝、教会の礼拝に出席し続ける中で、イエス様に対する信頼の気持ちや心惹かれる思いが湧き上がっているけれども、なかなかそれを公に表明する勇気まではないと言う方があるかもしれません。
そうであれば、ニコデモの気持ちがよくわかると思います。このイエス様とニコデモの対話は、真っ直ぐに、その者たちに語りかけている言葉です。
しかしまた、ニコデモが夜訪れたことを、これとは異なって解釈する者もいます。
夜は、神の言葉を学ぶのに、最適な時間である。昼働き、主イエスの下に訪れ、自分の歩みを振り返り、自分の姿勢を整え直す。ニコデモにとっての夜は、そういう時間だと、説明するのです。
まるで、水曜夜の祈祷会に集まる人々のように、ニコデモは、夜、神の言葉を慕い求め、主イエスの下を訪れたのです。
どちらの解釈でも構いません。ひとまず自分の心にしっくり来る方で、理解して良いと思います。
いづれにせよ、ニコデモは十分な信仰とは言い難いかもしれませんが、信じ始めている。始めているというよりも、イエス様に頼り、教えて頂きたいと願っていたのです。この方には、答えて頂けるに違いない。
ニコデモには知りたいことがありました。それは、会堂であっても、家庭であっても、礼拝に集い、説教に耳を傾けようとする私たちの多くの者が、知りたいと願っていることと、そのまま重なることだと思います。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
先生、神様はあなたと共におられます。あなたこそ、神の御心を知っておられるお方です。
人の心の中に何があるかをよくご存知であるイエス様はこのニコデモの言葉から、彼が何を聴きたがっているのか、よくご存知でした。
それは、私たちもまた、神から遣わされたお方が目の前におられるのならば、どうしてもお聴きせずには、おれないことです。
イエス様は、ニコデモが、その問いを口に出す前に、答えて言われました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモが見たかったもの、また、礼拝に連なる私たちが見たいと願うもの、それは、「神の国」です。
神の国、原語では、神の支配とも言います。
神さまは、私たちをどう治めていらっしゃるのか?神さまは、今、この時、どのようにその御手を動かしてらっしゃるのか?それを神の国と言います。
ニコデモはそのことが見たい。このイエスという方を通して、神様の支配、神様の御心が、はっきりと見えるようになることを信じ、期待しているのです。それだから、イエスさまの下にやってきたのです。
それは、ニコデモには神様の支配が見えるものとなってはいないからです。
神様の支配がいったいどこにあるのか?神様は果たして、働いていらっしゃるのだろうか?この世界に本当に関心をお持ちなのだろうか?
もちろん、尊敬されるユダヤ人の指導者であるニコデモは、信じているのです。
神様が、この世界を支配していらっしゃること、この歴史を導いていらっしゃること、自分たちに関心を注いでくださるお方でいらっしゃること、幼い頃より信じているのです。
けれども、自分の信じているそのことが、見えないのです。
私たちはこのニコデモの気持ちがよくわかるのではないかと思います。
理不尽な戦争がある。不条理な事件が起きる。やりきれない事故の知らせを聞く。
神様の支配を信じている。けれども、それが見えません。見えるところに従えば、まるで、神の御手は働いていないように感じられます。
ニコデモも、私たちも同じです。ニコデモは私たちの代表です。
そのニコデモが、エルサレムに来られた主イエスを見て、ああ、このお方において、神は生きて働いておられる。神はこの方と共におられる。このお方ならば、自分に神の国、神の支配をはっきりと理解できるようにしてくださるに違いないと、信頼の思いを持つに至ったのです。
けれども、ニコデモが「あなたこそ、神から遣わされた方、神が共におられるお方です。」と、最大級の信頼を表して、主に問おうとしたした次の瞬間、先回りして、主がお答えになりました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
君の願いは、君が君のままである限りは、叶わない。君は決して、神のご支配を見ることはできない。新たに生まれなければ。
ニコデモは答えました。
「年をとったものが、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
このニコデモの答え、聖書の中でも極め付けの呆れ返るような答えだと言う人がいます。
主イエスの言葉に対して、あまりにも、場違いで、あまりにもそぐわない。
と言うのも、普通は、こんな答え方、絶対しないからです。
生まれ変わらなければ、神の国は見れないと言われたら、普通、人は、それを、生まれ変わったように、心を入れ替えなければならないと、理解するはずだからです。
けれども、ニコデモは、主イエスの言葉を額面通りに受け取ります。だから、会話として成立していないと言うのです。
ニコデモは、教師です。喩えというものを理解しない鈍感な者ではありません。けれども、主イエスの言葉を理解することができません。
いいえ、よく考えてみれば、もしも、彼が、この主イエスの御言葉を、インテリっぽく、「生まれ変わった真人間になれ」ということを悟らせるための言葉だと理解したとしたら、それこそ、主の言葉を理解し損なったと言わなければならないでしょう。
ニコデモは、理解できず、躓いてしまいました。しかし、理解できず、躓き、どうにも行き詰まってしまったことこそ、最も、主イエスの言葉に近づいたと言えるのではないかと思うのです。
つまり、神の支配を見たいという彼の希望の前に、彼の言葉と、行動は、どうしても行き詰まらなければならなかったのです。
なぜならば、彼の答えの通り、たとえ、主イエスからの手ほどきを受けたとしても、ニコデモが、ニコデモのままで、神の支配を見ることはできないからです。
イエス様は、6節で、そのことを仰っているのです。
「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
ここで言う肉とは、人間のことです。ここでの霊とは、まず何と言っても神のことです。二つのものの間には深い深い川が流れています。人間と神様の間には、無限の裂け目があり、この肉の目が、神の支配を見るということはできないのです。
ニコデモがどんな修行をしても、どんな学びを続けても、その努力の先に、神様のご支配が見えて来るということはないと主イエスは、はっきり仰ったのです。
追い求めて追い求めて、主イエスの下まで辿り着いた、あっぱれなニコデモの神の国追求ですが、この先に将来はないという裁きを宣告されたのです。
まるで、別ルートを通ってしまった登山のように、九合目までは登れても、道は途絶え、頂上には決して辿り着けないのです。
しかし、ある説教者は、この裁きの言葉こそ、解放の言葉であると喜んで語ります。
この主によるニコデモを手詰まりへと追い込んだイエス様のお答えは、今の言葉で言えば、自己実現とか、自分探しとか、真のアイデンティティーを獲得しなければならないという私たちの生きる現代の時代精神の呪いからの解放の言葉だと言いました。
すなわち、主イエスは私どもを、私ども自身から解放してくださるのだと言います。
それは、だるまのように手も足も出ない、私たちを捨て置くことなく、私たち人間に代わって、私たちを新しく産んでくださる方がおられるからです。8節です。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
深い隔たりがある神と人、こちらからあちらへの橋はない人から神への道。
しかし、風のように自由な神の霊が、あなた方を新しく生まれさせることができるのだと、イエス様はお語りになりました。
思いのままに吹く風のような神の霊による、新しい誕生がある。それが、あなた達人間が、神の国を見ることが許されるようになる、唯一の道だ。ここにあなたの希望がある。
私たちが自分から解放されること、新しく生まれ変わること、神の御支配を見るようになること、これは、奇跡です。
けれども、この新しい誕生が奇跡だというのは、奇跡的な確率によってしか起こり得ない、稀有なことだというのではありません。
なぜならば、思いのままに吹く風は、それが、どこから来て、どこへ行くのか知らないのですが、それにもかかわらず「あなたたちはその音を聴く」と主イエスは仰るからです。あなた達は、その音を聴いているのだ。
この「音」と訳されたイエス様の言葉、「声」とも訳せる言葉が使われています。
あなた達を新たに生まれさせる聖霊の音、神の声は、あなたの知らないところからやって来るが、現に、あなた達の耳に届いている。
その神の声はどこにあるのでしょうか?それは、ニコデモに語りかける主イエスの声です。
しかも、13節以下に凝縮されるイエス様の声、イエス様の存在全体が語っている言葉、福音の出来事を語る言葉です。
モーセによって荒野に挙げられた蛇のように人の子もあげられるという聖霊の声です。
この謎めいた言葉は、旧約民数記第21章の出来事になぞられた言葉です。
人々が罪を犯した時、神から送られて来た蛇がやってきて人々を噛みました。
耐え難くなった人々が悔い改めへと押し出されて、神に祈ってほしいとモーセに泣きついた時、神はモーセに青銅で炎の蛇を作り、それを旗竿の先につけて上げるようにお命じになりました。
その上げられた青銅の蛇を見上げた者は、噛まれても助かったという不思議な出来事をなぞってお語りになりました。
この上げられた蛇とは、人の子、すなわち、十字架にかかる私のことだとイエス様はここで仰るのです。この十字架を見上げるとき、生まれ変わりが起こる。そして、神の御支配が見えるようになる。
これが思いのままに吹く霊の音です。神の霊の声、良き知らせ、キリストの出来事の言葉、福音です。
このイエス様の御言葉は11節で突然、「わたしたちは知っていることを語りかける、見たことを証している」と主語が複数形に変わります。
この「わたしたち」という複数形の中には、教会が引き入れられていると言われます。13節以下の生まれ変わりをもたらす神の声、キリストの十字架の言葉を、主に招かれた者の群れである教会が、主と共に語っているのです。
主イエスが5節で、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と仰った時も、主が教会に託された洗礼入会のことを語っておられたのです。
思いのままに吹く風のような聖霊の音、生まれ変わりをもたらす天地創造の神の声は、私の出来事を教会が語るならば、そこで響いているのだと約束してくださっているのです。洗礼は、その私の約束の確かなしるしだということです。教会とは、キリストの十字架の内に、神の支配を見る新しい人間の群れです。
キリストは、自分から解き放たれるための言葉を教会に託されているのです。神のご支配を見ることはできない、自分探し、自己実現、アイデンティティーの獲得の呪いから自由な、新しい人間とする見えるキリストの言葉である聖礼典と、見えないキリストの言葉である説教が教会に託されているのです。
御殿場にありますハンセン病療養所の中に、神山教会という教会があります。
昔、その教会の牧師であった大日向滋という牧師は、ご自分でもハンセン病を発病され、17歳で療養所に入った方です。
苦しみ抜いて、一所懸命にもがいて、学校の先生になりました。けれど、戦争中、天皇制を子どもたちに説いている内に敗戦となり、自分の命の支えを失ったと思い、三原山の噴火口に身を投げて死のうとしました。
しかし、噴火口が活動していなかった。死ぬこともできないのかという絶望の歩みの中で、やがて信仰が与えられました。
そのような劇的回心とも言えるような大きな証を持ちましたが、自分はまだ、イエス・キリストのことがよくわかっていないのではないか?主イエスの意味を、自分はまだよくわかっていないと問い続けました。
信仰者となった後のその探求の中で、ずいぶん時が経ってから、次のことに深く捕らえられたと言います。
わたしは悩みの中で、結局わたしのためのキリストしか探していなかった。わたしのために、主よ、お救いくださいとか、病気を治してくださいとか願うこと、それ自体は悪いことではないかもしれないけれども、それでは信仰になっていない。大切なのは、ほんとうのキリストの愛にぶつかる時であって、その時には、〈わたしのためのキリスト〉などとはもう言っていられない。〈キリストのためのわたし〉でしかなくなる。わたしが消えてキリストしか見えなくなる。そうなると神さまが寝ておれ、と言うならば何年でも寝られる。神さまが立てと言うならば、はい、僕はここにいる、と言って立ち上がる。すべてが愛の主のみ手の中にある。すべてを主に任せておればよい。こんなに楽しい人生はない。
そう言うのです。
自分の成長とか、自分のアイデンティティーとか、そんなことに構っている暇はないのです。
ただただ、十字架の主イエスを見上げる。その方の愛のまなざしに、心動かされ、自分のことなど忘れてしまって、人生をかけてお従いするのです。
これが、霊に導かれる生き方です。神の言葉が造り出す生き方です。
神の言葉が、神が、キリストの聖霊が、私の歩みをこのようなものとして造るのです。福音を通して、キリストにある神の愛が私たちにぶつかってきて、私たちを変えてしまいます。
そうなると、もう、受け身のままではおれません。どうして、新しく生まれることができるのか?とか、どうしたら神のご支配を見られるのか?などと、暢気なことは言ってはおられない。
神の霊が私たちを突き動かし、神のご支配に仕える者とされる。
寝ていても、起きていても、福音の言葉を語る者として、私の丸ごとが神に用いられる。
これは、楽しいです。楽しくて楽しくて仕方がないのです。
私たち教会が願うことは、一人でも多くの方が、この幸せに連なってくださること、キリストを見上げてくださることです。
教会を通して響く神の言葉に促され、自分を見つめていたまなざしを上に向け、十字架のキリスト、この方を見上げるのです。思わず、見上げずにはおれません。
そして、思わず見上げた私たちに、十字架のキリストの愛がぶつかって来て、私たちは、自分から解き放たれるのです。
コメント