牧師室だよりNo.71

 高齢の方、持病をお持ちの方が、安心して礼拝と諸集会に出席できるように、教会堂内でのマスク着用を引き続きお願いしています。しかし、ある神学者によってコロナ捕囚と表現された期間の終わりは、もう間もなく来ることでしょう。私たちも様々な対策を講じてきました。礼拝のオンライン配信を整備することによって、各家庭を礼拝堂の延長として礼拝を捧げる工夫がありました。会堂に集まれるようになった後も、ビデオカメラとテレビモニターを繋いで、一階集会室を礼拝堂の延長とする工夫を続けています。

 

 しかし、もうしばらくすれば、二階礼拝堂で、皆で賛美し、礼拝を捧げることができるでしょう。少し早いですが、本当にお疲れさまでした。互いの忍耐を、ねぎらいたい思いです。また、是非、この期間の長老たちの献身にも、改めて思いを馳せたいと願っています。

 

 私たち改革長老教会の歩みは、牧師の鶴の一声によって作られるものではありません。神の御心を祈り求めつつ、教会総会が選んだ長老達の議論を通して、歩みを進めます。これはトップダウン方式よりもずっと時間がかかることです。けれども、キリストへの信仰に基づく会議の議論を経た結論にこそ、御心があると信じるのが長老教会です。

 

 7年前に、その伝統を再確認して、自覚的に受け取った私たち金沢元町教会の決断の真価が問われた数年であったと言って過言ではありません。困難な歩みでした。長老会の通常運転のペースには合わない速度で、状況や情報が変わっていきました。長老会は、かつてないペースで臨時長老会を度々開き、キリストの体である群れにふさわしい歩みを求め、時と知恵と力を献げてきました。

 

 それでも主の御心にふさわしい教会の歩みを整えられたか、いつも長老会自身が自己吟味しなければならないと、畏れをもって意識してきました。やがて出る『135年史』の牧師挨拶にも書きましたが、さらにその次の記念史において、「私たちの誤った決定にも関わらず、神の憐みにより、教会は守られた」と記録しなければならないかもしれません。

 

 しかし、そう振り返ることができるならば、その批判を引き受けて、罪の赦しを祈ること、自分を小さく、神様を大きくすること、それが長老会の正しい姿勢であると、私は心底、思っています。しかし、それは、牧師である私だけの思いではなく、長老一人一人の信仰であろうと、今、何の躊躇なく言える信頼をこのコロナ禍を通して、私の心に与えて下さった神さまの導きを証しする者です。これは何よりも、礼拝を慕い続け、御言葉を待ち続け、祈り続けてくださった教会の群れの言葉にもならないような呻きの祈りを、神様が聴いてくださったことによると信じています。

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